犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その88

2013-11-29 22:28:30 | 国家・政治・刑罰

 何事によらず、記録を残すのは大事なことだ。事実が残せないとなれば、その記録は全て言葉によることになる。しかし、正確な議事録の類ほど面白くないものはない。その言葉が発せられたときの発言者の心の内、聞き手の心の内が何も書かれていないからである。物事の「本当のところ」は、その場に立たされてみないとわからない。そしてそれは、第三者による正確な議事録では記すことができない。

 現代社会の言説の混迷の状況において、「事実」「真実」を取り扱うことは非常に難しい。情報公開が声高に叫ばれたかと思えば、情報漏洩が厳しく責められる。個人情報保護の要請が喧伝される傍ら、情報の隠蔽や改竄は道徳的に非難される。プライバシーに名誉権、そして表現の自由を巡る抽象的な議論は、目の前の問題について行けない。所詮は知識でなく情報、倫理でなく道徳を主題とした話である。

 プライバシーや個人情報に敏感となった社会からは、物事の「本当のところ」を語ろうとする言葉が公の場に出てくることは難しい。刑事弁護人の裁判の話でその存在が許容されるのは、現場を知らないコメディの作り話か、画期的な判決を獲得した者の回顧録や武勇伝に限られてくるものと思う。そうでなければ、現場を知りすぎた者の暴露や告発であるが、個人情報を侵してしまえば面倒なことになる。

 私のこの日記には、正確には自分以外の人間のことは1人も書かれていない。全ては自分の頭の中にある他者のことである。本人が言うのだから間違いない。この日記は徹頭徹尾フィクションであり、嘘っぱちである。内省的な日記はただの自己満足であり、社会は1ミリも動かず、行動や実践のほうが重要だとの声も耳に入る。しかし、実在しない概念である社会をどう動かすというのか、私には理解が及ばない。

(フィクションです。続きます。)

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