犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その14

2013-07-10 22:33:22 | 国家・政治・刑罰

 公判期日前の適当な時期に必ず行うべきことは、被告人側の情状証人として出廷する者との打ち合わせである。主尋問のシナリオの読み合わせ、検察官からの挑発的な反対尋問に対する想定問答、言ってはいけない単語の確認、答える時の視線の向け方、当日の好ましい服装の指示など、かなり現実的で技巧的な話ばかりとなる。

 民事裁判と刑事裁判の尋問を何件も経験して私が気付いたことは、刑事裁判の情状証人尋問は、なぜかその日が近づいてきても緊張しないという事実であった。質問者や証人の不用意な一言で形勢がひっくり返り、何千万円が一瞬で消えてしまうといった緊張感がない。これは理屈ではなく、自己保存の本能のなせる業なのだと思う。

 「情状証人など、所詮は法廷に来てくれることが最大の意義であり、尋問自体は大して難しい仕事ではない」。これは、多くの弁護人の実感であり、かつ表向きは非難を受ける種類の言説だと思う。しかしながら、法が事実認定と量刑判断とを峻別し、情状の問題を低い位置に配している以上、これは実務家にはどうしようもない。

 刑事裁判の否認事件は、証拠によって有罪無罪を競うゲームであり、罪と罰の哲学の出る幕はない。他方で、自白事件は最初から演目が決まっている茶番劇であり、やはり罪と罰の哲学の出番はない。私は、民事訴訟の腕が上がってきたと実感する一方で、刑事訴訟については毎回同じことの繰り返しで熟練していないことに気付いたとき、このことを深く実感するに至った。

(フィクションです。続きます。)

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