犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その13

2013-07-08 23:36:10 | 国家・政治・刑罰

 裁判の期日が近づき、公判で提出する予定の書面を検察庁に事前にFAXする。最初に送信するのは、都道府県公安委員会発行の運転免許取消処分書である。これは有印公文書であり、証明力が高い。この行政処分は、死亡事故を起こしたということで自動的にくっついてくる社会的制裁である。そして、この制裁は、「加害者のほうも相当な苦痛を蒙っており、被害者だけが一方的に損をしているのではない」との弁解が可能になる特典と表裏一体である。それゆえに、この書面は刑事裁判の有力な証拠となり得る。この間、加害者本人には何の努力も要しない。

 検察庁にFAXした2通目の書面は、都道府県運輸支局長名義の自動車検査証である。これは、加害者が車を売却した場合に、名義が変更された事実を証する公文書である。すなわち、加害者が「私にはもう車を運転する資格がありません」とアピールするものであり、自らの意思で自身に制裁を与えたことによって反省の情が示されることになる。そして、これは必然的に裁判官に対する自責の念の押し売りになる。また、裁判が終わった後のことについては、加害者が新たに車を買おうと、裁判官も検察官も弁護人も知ったことではない。私も、過去の依頼者のその後は知らない。

 検察庁にFAXした3通目の書面は、保険会社からの報告書である。今回の件もそうであるが、刑事裁判の期日までに示談が成立していない場合には、加害者の加入する対人賠償責任保険の状況を説明すべきことになる。多くの場合、保険金額は無制限であり、その立証趣旨は「いずれ全額の賠償がなされることは確実である」というものになる。そして、この論理は必然的に、「ゴールは決まり切っているのに未だ話が進んでいない」「進捗を妨げている唯一の原因は被害者側の頑なな態度である」という結論を導く。被害者救済のための保険制度は、救済のために被害者をせき立てることになる。

 世の中から悲惨な交通事故がなくなってほしいという私の思いは、特に保険会社の担当者と電話で交渉している時には、何か未熟で稚拙な考えのように感じられてくる。「お世話になっております」という社交辞令で始まる電話は、レールに乗せられた死者の家族に対する優越的な視線、すなわち「いつになったら心を開いてくれるのか」との苛立ちの存在を相互に確認せずにはいられない。私は、自分を誤魔化し続け、人の命に値段をつけている。「命とお金とどっちが大事なのか」と自分の内側で苦しまず、その問いを物知り顔で他者に投げつけている人間は大嫌いだ。

(フィクションです。続きます。)

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