犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その33

2013-08-30 22:06:21 | 国家・政治・刑罰

 例えば、就職活動における「御社を志望した動機」とは、時に「何でもいいから仕事に就かなければならない切迫感」を意味する。また、選挙の候補者が「皆様のために働かせて下さい」と叫ぶとき、それは多くの場合「選挙に費やした資金を当選して取り返さなければならない」を意味する。このような大人の事情をお互いに理解し合うことは、生活していく上での社会性を身につけることでもある。

 人が法で厳格に裁かれ、針の筵に座らされて追い込まれる刑事の法廷は、社会と異質な空間であるように見えて、実際は世の中の縮図である。本来、罪の重さを自覚している者は、同時に罰の重さも自覚して覚悟しなければならないはずである。すなわち、過ちを反省して謝罪するというのであれば、いかなる重い刑をも受け入れることを望まねばならないのであり、許しを求めることは矛盾した態度となるはずである。

 ところが、司法エリートが主宰する現実の刑事裁判は、「謝るから許して下さい」という論理に貫かれている。人がこの論理を自然に受け入れるのは、近代刑法の大原則の講釈によってではなく、自身が社会性を身につけ、大人の事情を察知しているからである。とにかく、重い刑罰は嫌なものだからである。このような被告人の自己弁護の手助けをするのが弁護人であり、ここに職業人としての義務が生じる。

 私を含め、従来の刑事司法のあり方に疑問を持ち、「被害者にも配慮した刑事弁護を行いたい」との志を持ってこの業界に入った者は、正直なところ苦戦を強いられている。しかし、それは「世の中を甘く見ていた」「社会人として通用しなかった」という一般的な挫折感とは全く異なる。あくまでも、自分は好きでこの仕事をしており、刑事の法廷に立っている。これに対し、加害者も被害者も好きでこんな場所に来ているのではない。

(フィクションです。続きます。)

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