犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の弁護士の日記 その1

2011-11-01 00:04:58 | 時間・生死・人生
 自分が死ぬ。他の誰かではない、この自分が死ぬ。
 自分はこの世に生まれて来た以上、いつかは必ず死ななければならないこと、この真実は当然理解しているはずである。しかしながら、人生の残り時間が明確に突きつけられたときの覚悟については、全くできているとは言えない。自分の死は、必ず訪れるとしても、それは未だ遠い先の日のことである。そして、私は社会に出て、責任ある仕事を任され、目の前の仕事に没頭することにより、その日をさらに遠ざけてきた。
 哲学的な思考を純粋に深められた学生時代の自分に言わせれば、今の自分は、「日々の雑事」に埋もれて頽落している状態である。他方で、学生時代に至ったはずの「その日」への覚悟に関しては、やはり机上の空論に過ぎなかった。何らの社会経験を経ず、生死に関する思考を明確に掴んでいた自分は、自分を含めた客観性に関して切羽詰まってはいなかった。

 私が弁護士として、学生時代に達した生死に関する認識を最初に打ち砕かれたのは、3年前のことである。その債務整理案件の依頼者は、30代の女性であった。彼女は買い物依存症に陥り、カード破産寸前であった。弁護士の介入によってグレーゾーン金利は減り、残債務については夫の協力も得て、何とか一括払いで片を付けることができた。
 彼女は、法律事務所での打ち合わせに3回来所した。私は、冗談を交えて彼女を励まし、人々を買い物依存症に誘い込む現在の消費社会の問題点を指摘し、彼女の硬い笑顔をほぐそうと努めた。そして、今後は買い物依存症に陥ることのないよう、精神科医からの知識を借りて、丁寧にアドバイスをした。私は、彼女が今後は借金の心配などしない人生を送ることを心から祈り、自分が行った処理がその役に立つことを確かに願っていた。

 その2か月後、彼女の夫からの電話により、私は彼女の死を突然知らされた。彼女は、初めて法律事務所に来た時から、すでにガンに冒されていた。夫によれば、医師に余命を宣告された後も、彼女は生きる希望を失わず、弁護士への依頼もいわゆる身辺整理ではなかったとのことである。私は、つい2か月前に彼女が座っていた椅子を目の前にしながら、彼女の明るい笑顔に一瞬よぎった影を思い起こし、自分の迂闊さと愚かさを恥じた。そして、彼女の目が見た法律事務所の光景や、彼女の耳が聞いた私の声の記憶はどこへ行ってしまったのかと思った。
 彼女は、30代の若さで死ぬことを断じて受け入れていなかったのであれば、私が行なった将来へのアドバイスも、彼女の希望と一致している。自分の思考がこのような方向に逃げようとしたとき、私のアドバイスを笑いながら黙って聞いていた彼女の心中を想像し、私は谷底に突き落とされた。私は彼女に軽蔑されていた。病状について自分にも教えてほしかったと願うことが愚かだと知りながら、その願いを消すことができなかった。

 私が彼女から依頼された案件は、単に彼女の死後、夫や親族にマイナスの相続財産を残さないための法的処理である。そして、私はその案件を完璧にこなした。彼女の死について、私は彼女から全く相手にされていなかった。彼女が私に託した「死後の世界」は、彼女を抜きにして進んでいくこの経済社会であり、私は現に「彼女の死後の世界」を生きている。そして彼女自身の「死後の世界」について、私は何も責任を負わないで済むということは、自分の将来に死が大きく口を開けていることに他ならない。
 彼女の死を知り、ボス弁は私に対し、本当に彼女の病気を知らなかったのかと問い詰めた。もし死期が近いのであれば、支払いを先延ばしして彼女の死を待ち、そのうえで家族が相続放棄をすれば済む話であり、夫が債務を肩代わりする必要はない。従って、払う必要のないお金を夫に払わせてしまったのではないか、弁護過誤により彼女の夫から懲戒請求を受ける危険はないのかというのが、ボス弁の懸念であった。私は、ボス弁に対し、自分は本当に彼女の病状を知らなかったのだと繰り返し弁解した。これが私の頽落の始まりであった。

(続きます。)

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