犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その76

2013-11-11 23:29:18 | 国家・政治・刑罰

 もし、この裁判で被害者の意見陳述が行われていたなら、いったいどのような言葉が述べられたのか。恐らく、あの手紙の沈黙と狂気は、この法廷で語ることはできない。私は、この同じ場所でおよそ1年前に聞いた50代の女性の意見陳述を思い出す。自動車運転過失致死罪の公判であった。彼女は、ある日突然に一家の柱である夫を奪われた悲劇のヒロインであり、既に舞台に立たされていた。

 あの時にも、女性が事前に書いていた手記のほうが鮮明であった。彼女は夢の中にいる状態でパートの面接を何社か受け、そこで思い知らされた。夫が亡くなったことなど、会社には基本的に関係ない。人は他人のことには関心がなく、自分のことだけで一杯である。そして、会社は会社の論理で動いている。従業員としての役割を果たしてもらうことが第一の条件である。彼女は多くを語れなくなった。

 実際にパートに出て、彼女は更に思い知らされた。パート内の派閥や人間関係がここでの人生の一大事である。世の中誰しも自分が主役であり、それぞれの悩みがある。働き盛りの夫を突然の事故で亡くしてパートに来たなど、お気の毒様だとは思うけれども、仕事の場でそんな重いことを言われても困るということだ。人が世の中での生活を許されるための条件は、何をおいても社会性を身につけることである。

 法律家は、「前科者に対する社会の偏見と冷たい視線」「犯罪者の更生と社会復帰」などの極端な状況を論じることは得意である。しかし、彼女のような被害者が直面しているのは、一般社会の常態の残酷さのほうである。犯罪被害によって玉突き的に生じた連鎖的な因果は、世間的な基準ではただの不幸自慢となる。そして、被告人の禁錮と執行猶予を決定する法律の論理は、彼女の不幸に関心を持たない。

(フィクションです。続きます。)

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