犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

千葉県東金市 女児死体遺棄事件

2008-12-07 15:53:12 | 時間・生死・人生
ある刑事訴訟法のテキストより

刑事裁判では、検察官が被告人が犯罪を犯したということを証明しなければならず、被告人が自分が無罪であるということを証明する必要はない。これが無罪の推定である。ところがマスコミは、誰かが逮捕されたというだけで、十中八九有罪だろうという程度で犯人扱いをする。そのような報道がなされると、一般人は、その人は有罪であろうという偏見を持ってしまう。最も問題なのは、マスコミを含めた一般国民の多くが、官憲により逮捕された容疑者は、この段階では「無罪の推定」を受けているにもかかわらず、いかにも有罪判決が確定して服役している犯罪者のように意識してしまうところである。逮捕された人が犯人であるという情報を垂れ流す警察や検察に一番の責任があるが、それを鵜呑みにして報道するマスコミの責任、それを鵜呑みにしてしまう一般人にも責任がある。これは、近代刑法の精神をしっかりと理解していないところに由来する悪弊である。特にマスコミが「無罪の推定」を受けている一般市民を「容疑者」と呼んで報道していることは、「近代刑法の精神」に反している。大切なことは、国民の間に「近代刑法の精神」を植え付け、正しく醸成することである。


***************************************************

9月21日、千葉県東金市の看護師・成田多恵子さんの次女で保育園児・幸満ちゃん(当時5つ)が遺体で見つかった事件で、東金警察署は12月6日、同市の無職・勝木諒容疑者(21)を死体遺棄容疑で逮捕した。勝木容疑者は「遺体を抱きかかえて自宅から階段を下りて、白い建物の前に置いた」と容疑を認める供述を始めた。捜査本部は、幸満ちゃんが死亡した経緯も詳しく調べるとのことである。捜査一課長によると、勝木容疑者が住むマンションの駐車場で見つかったレジ袋のうち、幸満ちゃんの運動靴が入っていた袋から採取した指紋が勝木容疑者と一致した。東金署の幹部は、記者会見で「是が非でも逮捕しなくてはならないという思いだった」と振り返り、地元住民の間には安堵感が広がったとのことである。また、事件現場には今も献花台に生花が供えられ、住民が立てた「頑張れ千葉県警」というボードが残っている。記者会見で感想を問われた東金署長は、「発生当初から多くの方々に協力をいただいた。ボードの言葉が励みになり、是が非でも逮捕しなくてはならないという思いで今日まで来た」と述べた。

近代法治国家に生きる我々は、「近代刑法の精神」を理解して、国家権力を監視すべき市民である。しかしながら、それ以前に我々は、どの時代のどの国に生まれようとも、一度きりの生命を持ってこの世に生まれてきた人間である。わずか5つで一度きりの人生を終えるとはどのようなことか。しかも、本来であればその後に何十年もの人生が待っていたはずなのに、ある日突然、それを自らの意志でなく断ち切られるとはどのようなことなのか。これは、現に大人になって生きている者には絶対に追体験できない事項であって、ゆえに降参して絶句するしかない問いである。死者は、自らの命を奪った者の逮捕、裁判の結果を知ることができない。なぜなら、死者は生きていないからであり、生きていなければその後の警察や裁判の動きを知ることができないからであり、それを知ることができると言えば嘘になるからである。この恐るべき当たり前の真実に打ちのめされた者は、そう容易に「感情に流されて冷静さを失って厳罰を叫んではならない」と怒ることなどできない。また、得意顔で「犯人が逮捕されたという表現は素人の誤解である」「無知な国民を教育すべきである」と主張することにも躊躇するはずである。

幸満ちゃんの母親・成田多恵子さんは11月初めから仕事に復帰する一方、仕事の合間に遺体発見棄現場に通い、道路脇に設けられた献花台を毎日のように掃除し、花瓶の水を取り替えるなどしてきたとのことである。今日は取材に応じ、「容疑者が逮捕されても娘が戻ってくるわけではない」との苦しい心情を述べた。このような報道をするマスコミを感情的で予断を生じさせるものだと非難したり、被害者側に偏りすぎて公平さを欠くと批判したり、それに共感して涙する人々を無知だと断罪することは簡単である。しかしながら、一度きりの人生を生きて死ぬべき人間の倫理観は、そのように簡単に割り切れるものではない。人間の知恵は、物的証拠や目撃証言から真犯人を推認・推定するためだけに用いられるものではなく、最愛の娘をこのような形で失った母親の心情を推認・推定するためにも用いられるものである。「近代刑法の精神」は単に1つの説明の方法であって、それで世の中のすべての事象、ましてや1人の人間の人生を説明し尽くすことはできない。「無罪の推定」に現実的な意味を持たせようとしている限り、法律家は犯罪被害者遺族の苦しみの核心を捉え損なう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。