犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

善悪とは何か

2007-02-24 21:39:48 | 国家・政治・刑罰
善とは何か。善悪とは何か。これは、哲学でも法学でも永久の課題である。この問題について、刑法のテキストで解答を示している2大哲学者が、カント(Immanuel Kant、1724-1804)とヘーゲルである。カントは人間の純粋理性の限界を探る方法によって、哲学にコペルニクス的展開をもたらした。ヘーゲルはさらに弁証法によって、静止した世界を動きのあるものにした。

カントによれば、「善」とは、自由な存在である人間が自ら道徳的であることを意志することを指す。すなわち、上からの押し付けではなく、本人が自らの良心によって犯罪をしたくなくなるという状態に至らなければならない。このようなカントの道徳律は厳格に過ぎて、哲学界でも法学界でも評判が悪い。現実の凶悪犯人の前では、かような立論はどうにも無力だからである。

これに対してヘーゲルは、人間が「善」という概念を所有していること自体を見落とさない。善悪とは、具体的なあれこれの行動である以前に、人間が所有している概念の形式である。弁証法的には、善があって初めて悪があり、悪があって初めて善があり、それは互いに単独では存在できない。二項対立の善悪二元論ではなく、二律背反の善悪一元論である。どんな聖人君主も、善であるためには「悪」の概念を有していなければならない。逆にどんな凶悪犯人も、悪であるためには「善」の概念を有していなければならない。

このようなヘーゲル哲学の到達点から見れば、人間が自らを善の側に立たせた上で、悪を攻撃して改めさせるという構造は、弁証法的に不可能になる。善と悪は個人のうちに不可分一体のものとして存在しており、絶対的な善の側に安住することなどできない。善悪とは個々の行動ではなく、人間が自らのうちに所有している概念の形式だからである。

このようにしてカントとヘーゲルが到達した地点は、法律学によってあっさりと捨てられてしまう。近代刑法は、ロック(John Locke、1632-1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712-1778)の啓蒙思想を取り入れて、国家権力は「悪」であるという大原則からスタートした。このような前提を立てる限り、被告人は「善」に位置づけられる。そして、誤認逮捕、自白強要、誤判、冤罪、重罰化などが絶対的な悪として槍玉に上げられる。このような壮大な近代刑法のシステムを前提とする限り、被害者の入る隙間は全くない。善悪二元論の構図からすれば、被害者は人為的に見落とされる存在でしかなくなる。

このような近代刑法のシステムにおいては、被告人が自らを反省し、自責の念を持つことには、否定的な評価が与えられるのみである。被告人はあくまで「善」でなければならないため、たとえ被告人本人が自らを「悪」だと認めようとしても、システム全体が評価してくれない。凶悪犯人の改心と謝罪は、悪である国家権力を利するものとして、将来的に近代刑法の原則を脅かすものでしかないからである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。