犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その2

2014-03-25 22:57:13 | 国家・政治・刑罰

 原告の最大かつ唯一の希望は、言うまでもなく命を戻したいということであり、これは比喩的ではなく動かぬ結論だと思います。同時にその絶対的不可能を請求の中に含むとき、論理は窮して何回も転じます。そして、生身の人間の頭と心には、通常はこれを整理する能力は備わっていないと思います。また、この絶句と混沌の中を手探りで論理を求めるとき、必ず行き着くのが、「真実を知りたい」という論理だというのが私の経験です。この真実は破壊的だと思います。

 これに対し、法律の論理は秩序を旨とし、破壊とは対極的な地位にあります。混沌とした状況を丸く収め、個々のトラブル終わらせたいという法の要請と、これを通じて理想の社会を建設に寄与したいという法律家の希望は、簡単につながるものと思います。従って、この秩序の確保のためには、ある種の真実の探求には否定的な姿勢が示されます。法律の規定に従って責任の有無を論じることになると、どういうわけか話が噛み合わず、食い違いは紛争に転化します。

 私の狭い経験、それも何件かの医療事故や交通事故裁判の仕事からの勝手な推測ですが、この種の損害賠償請求の目的が「お金が欲しい」であることは皆無であると感じます。とにかく自分が置かれた状況において、絶句と沈黙の真っ只中で「何か」をしなければならず、その「何か」を消去法で切っていった場合に、この世の合法的なシステムにおける「何か」というのは、それしかないということです。「何か」が金銭の請求になってしまうことは、本人の責任ではありません。

(続きます。)

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