犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある手紙(3)

2012-10-25 00:00:18 | 国家・政治・刑罰

(2)から続きます。

 現在の制度に至るまでの刑事訴訟法の歴史については、自分でもかなり詳しく勉強し、裁判の過程ではそのことが何回も身に染みました。犯罪被害や裁判所とは無縁の一般の方よりは、何百倍も詳しくなりました。被害者遺族は法律を理解しないで感情論に走る、と決め付けられがちですが、私の周りで同じような立場にあった人の一部は、しっかり法律を理解していました。遺族といっても千差万別で、もともとの教養の高低や論理的思考力に左右されます。

 私は、娘の死によって、それまで信じていたすべての価値観が崩壊しました。足元もおぼつかない中で、崩壊した欠片を拾い集め、その中の1つが法律でした。それは、法律の壁が人間を苦しめる現実であり、価値観の崩壊を裏付けるものでした。私にとって、法律はもともと希望ではなかったため、さらなる絶望は免れました。

 刑事訴訟法は、まさに連綿と続く歴史の中で払われた、多大な犠牲の上に成り立っていること、法律の本に書いてある通りです。私は、そのことを理解すればするほど、娘の人生を踏みつける刃の強さを感じました。娘という人間がこの世に生まれて生きて短い生涯を閉じたこと、その人生をこの連綿と続く歴史にどう位置づけるのか、解決不能の問題に陥りました。ここのところは、あなたには上手く伝わらないかも知れません。

 とにかく、私は刑事訴訟法の歴史を勉強すればするほど、娘という人間をこの世に生み出した私という人間の存在が許されなくなり、娘に代わってやりたいという気持ちが強くなりました。自分が死んでいないで、なぜ娘だけが死んでいるのか、理解不能になりました。この辺も、弁護士や検察官に説明したのですが、どうしても上手く伝わらなくて、自分が哀れになって説明するのをやめました。

 私が知り合った他の遺族の方々も、偽善にまみれた世の中への破壊的衝動を抱き、裁判制度への絶望によって増幅された真っ黒なエネルギーを全身に抱えていました。秋葉原にトラックで突っ込みたいと語っていた人もいました。裁判所にガソリンを撒いて火をつけたいと言っていた人もいました。私は止めませんでした。止めないことが正義であるという確信があるからです。

 しかし、被害者遺族はそのようなことをしません。最愛の人をこのような形で失うという悲しい思いをする人が、地球上からいなくなってほしいと願うのが唯一の生きる理由であるにもかかわらず、その理由を破壊することになるからです。さらに被害者を増やしてはなりません。この矛盾はどこで処理できるのかと言えば、方法は自殺しかありません。

(4)へ続きます。