犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

白川静著 『孔子伝』

2012-10-02 00:09:33 | 読書感想文

p.19~
 体制の理論とされる儒教も、その出発点においては、やはり反体制の理論であった。しかい反体制の理論は、その目的とする社会が実現したとき、ただちに体制の理論に転化する。それが弁証法的運動というものであろう。儒教ははたして、本来どのような体質をもつものであったか。哲人としての孔子は、それにみずから答えようとはしない。

p.26~
 孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。搾取と支配の生活は、あらゆる退廃をもたらすにすぎない。貧賤こそ、偉大な精神を生む土壌であった。

p.119~
 人はみな、所与の世界に生きる。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。

p.182~
 批判は同じ次元での、自己分裂の運動とみてよい。それは自他を区別しながら、新しい我を形成する作用であるが、しかし果たして、人は真に自他を区別しうるであろうか。他と自己との全き認識ということはありうるのであろうか。それぞれの思想の根源にあるものを理解することは、それと同一化することになるのではないか。それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながらみずからをあらわすということに終る。

p.291~
 現実のうえでは、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたのではないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、ときには拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるというのは、その意味である。

p.304~
 孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗するものは、この「狂」のほかにはないように思う。


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 白川静氏は、独学で独自の分野を切り開いた学者ですが、当時の主流の学者からは手厳しい批判を受け続け、ようやく評価され始めたのは最後の10年間ほどだそうです。

 アカデミズムによる権威主義は、後から見れば「権威を揺るがすオリジナリティの出現を恐れていた」と解釈できることでも、その時には単に「正しく理解していない自己流で勉強不足の理論を酷評する」という形を取るものと思います。絶対的な権威から酷評されつつ「正しくない理解」を貫徹することの苦悩の大きさを想像します。