犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある手紙(4)

2012-10-26 23:51:56 | 国家・政治・刑罰

(3)から続きます。

 私は娘と会えなくなった日以降、自殺への衝動と同居しています。別に死ねば娘に会えると考えているわけではありません。単に、現に死への誘惑と隣り合わせに生きており、何の希望もなく、裁判制度の破綻に対しても何も声を出せずにひっそりと生きて、いずれ来るべき死を待っているだけです。

 自力救済こそが正義であるという心の底からの確信があり、しかも裁判所は何の解答も出さずに逃げているにもかかわらず、現に自力救済が起こらずに世の中の法秩序が守られているならば、それを裏から支えているのは、この遺族の自殺への願望です。少なくとも私は、そのように自負しています。現に、死を選んだ人の数を数えてみれば、戦慄が走る結果が出てくるだろうと思います。しかしながら、法制度の側にしてみれば、死んでくれたほうが有難いかも知れません。

 刑事裁判のあり方を決める法律は、司法権の問題ではなく、立法権の問題です。すなわり、我々主権者の投票によって変わります。しかし、私はあの日以来完全に世の中のことに興味をなくました。娘の命の前には国家も民主主義もどうでもよくなり、政治にも興味なくしました。選挙も行っていません。有権者としては失格です。別に失格でも構いません。自分は、民主主義世界とは違う世界に入り込んでしまった感じです。

 あの日を境に私は社会人ではなくなり、世の中に適合できなくなりました。民事を依頼した弁護士との打ち合わせも、ほとんど時間が守れませんでした。娘が存在しない世の中であれば、そんな世の中の決まりごとに意味がないからです。スケジュールで動いている弁護士にとっては、困った人間ですよね。遺族だから大目に見てくれというのは社会では通用しないことは承知の上で、私はやはりどうしても足が法律事務所に向かないことがありました。娘がもうこの世にいないと十分わかっていながら、私が事務所に行ってしまうと、娘がいないことを認めることになるからです。矛盾しています。こんな理屈はやはり社会人として通用しません。

 このようなことが続いて、最初の弁護士は辞任してしまいました。お金だけは取られましたが、反論する気もありませんでした。社会の決まりである法律の議論をする場では、社会人不適合者はスタートラインにも立てなかったわけです。あなたにこんなことを言っても仕方ないですね。

(5)へ続きます。

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