犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある手紙(2)

2012-10-24 23:44:55 | 国家・政治・刑罰

(1)から続きます。

 裁判所は真相究明の場ではなく、道義的責任を追及する場ではなく、ましてや被害者救済の場ではないことは、私も痛いほど理解しました。また、裁判所はあくまでも法的な紛争を解決するための場所に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないことは、この裁判を通じて私が全身で理解させられたものです。そして、私が人生の全てを失ったのは、まさにこの論理が原因でした。娘は事故で命を失いました。私は、そこで人生の全てを失ったと思っていました。ところが実際は違いました。その後の裁判により、私はさらに人生を失いました。

 人間は自力で報復して恨みを晴らしていた時代から、理性によって問題を解決する時代へと成長してきて、それで法律が生まれて裁判所ができた、という説明をよく聞かされます。その一方で、裁判所は法的な紛争を解決するための場所に過ぎないのだ、という説明もよく聞かされます。私は、この2つの説明の間でずっと悩み続けました。

 裁判所は法的な紛争を解決するための場所に過ぎないのであれば、全ての問題を裁判所が解決できるわけではなく、多くの問題は残されます。それならば、残ったものについては何とか自力で解決してよいのかと言えば、今度はそれはだめだ、法秩序が守れないと言われます。

 一方では、今の社会制度の中で私の頼れる場所は裁判所しかないと言われ、他方では裁判所はそのような場所ではないと言われ、私は絶望しました。論理的に矛盾し、論理が破綻していると思いました。私は検察官や弁護士にこの論理矛盾を問いました。これは愚問でした。法律家の立場にある者がこの破綻を認めるわけがありません。恐らく、裁判所で働かれているあなたも同じでしょう。

 私は覚悟を決めました。この絶望と生涯闘っていくしかありません。破綻しているのは法制度ではなく、法制度に絶望した者のほうです。論理が破綻しているように見えず、自力救済禁止の秩序が守られているのは、それを法律が定めているからではありません。我々のような立場の者が血を吐きながら、家中の壁に穴を開けながら、食器を投げつけて粉々に割りながら、床をのたうち回って発狂しながら、近隣の住民からはパトカーを呼ばれながら、耐え忍んでいるからです。

 もし、裁判所の判決が不正義であると考え、自力救済のほうが正義であると確信し、私のような立場の者が一斉に行動を起こせば、恐らく法制度が内在的に抱える矛盾はあっという間に露呈するでしょう。自力救済禁止の秩序が守られているのは、法の力ではありません。私のような立場の者の力です。そしてこのような現実は、多くの人には気付かれません。嫌味ったらしい書き方をしてすみません。

(3)へ続きます。

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