犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある手紙(5)

2012-10-27 00:13:22 | 国家・政治・刑罰

(4)から続きます。

 多くの被害者遺族が世の中に対して声を上げないで黙っているならば、それは裁判所の判断に満足したからではなくて、裁判所に何も期待していないからです。法律に期待しないというより、この世の中の諸々に期待していないからです。それでも人は死なない限りこの世に生きているしかないのであり、私は世の中の片隅で生きています。何を見ても灰色に見えます。色が付いていた昔が思い出せません。

 私が妻との離婚に至った直接の原因は、無罪判決の日の夜の会話でした。妻の両親が自宅に来たのですが、そこで修復不可能な争いが起きたのです。検察官に控訴を求めるかどうか、という話がこじれました。妻の両親は、無罪判決の責任は私の力不足にあると言いました。私が法制度の説明をすればするほど、娘への愛情が感じられないという反論に遭いました。こうなると、裁判所も被告人もそっちのけです。単なる醜い身内の争いです。

 妻は、裁判所で意見陳述をした私の言葉に力がなかったのだと言って泣きました。妻の両親もそれに同調して私を責め立てました。私はまさにその時、良識ある社会人として妻とその両親を説得にかかりました。刑事裁判の本質からすれば、遺族にできることは限界があるということです。その説明が妻との別居の引き金になり、ついには離婚となりました。無罪判決によって正義が守られた被告人に比べて、哀れで惨めな夫婦です。

 裁判所の無罪判決によって私達が離婚した、という因果関係はあると思いますが、これを法律家に言うと馬鹿にされるので、言わないようにしています。ただ、あなたをはじめとする裁判所の方々には、多くの裁判において、裁判所の判断のあとで、それを巡った長く苦しい修羅場が続くということは知られていないと思います。少なくとも私は、刑事訴訟法のために人生の敗者となりました。そして、その立場でいいと思っています。娘のいない世界で勝っても無意味です。

 娘に死なれ、妻に逃げられ、友達も失い、孤独な嫌われ者に転落した私ですが、あなたをはじめとする裁判所の方々に望むことは、裁判所が法的な紛争を解決するための場所に過ぎないのならば、そのように認めたうえで制度を運営して欲しいということです。裁判所は大した機関ではなく、法的な紛争を解決する程度の仕事に過ぎず、裁判官も書記官も立派な仕事をしているわけではなく、誇りを持たないで欲しい、ということです。でも、これは無理でしょうね。精神衛生上悪いことを続けていると、人間は本当に死んでしまうでしょう。色のついた世界と、灰色だけの世界が断絶している残酷さに身を焼き尽くされます。

(6)へ続きます。