犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

本田靖春著 『誘拐』  その3

2012-10-10 21:10:56 | 読書感想文

p.90~(誘拐事件発生から半月後の場面です。)

 17日、村越家は吉展の満5歳の誕生日を迎えた。1年前の同じ日、一家揃って後楽園に遊びに出掛けたことを、豊子(母親)は思い出さないわけには行かなかった。その帰途、すぎ(祖母)は祝いに子供用の自転車を買った。「むらこし よしのぶ」と書かれた白いエナメルもそのままに、自転車は庭の片隅に残されている。

 日がたてばたつほど、母親は、わが子に降りかかった災厄が、どうにも納得出来ない。「一億人も人がいる中で、どうして――」。誘拐などというのは、お汁粉をこしらえようとしていたあのときまで、映画か小説でのことであった。「どうして、うちの子が――」。これが説明出来る人がいるというのであろうか。


p.318~(事件発生から2年3ヶ月後、遺体が発見される場面です。)

 小原保は、吉展の殺害を自供、遺体の隠し場所を略図に書いた。捜査員が現地に飛んだ。小原保犯行自供の報道に接した人々は、物見高い群衆となって、遺体捜索が行われている寺を取囲んだ。深夜の11時、現地から平塚に電話が入った。「ホトケさんが見つかりません」。

 あわてた平塚は、留置場に通じる階段をかけ下った。根も葉もない自供にのせられて醜態をさらす自分の姿が、かけ下る平塚の脳裡をちらとかすめた。「おい、とぼけるな。ホトケさんはどこへやったんだ」。平塚は、もう一度、寺の位置を確認して、現場へ向かった。未明に近く、吉展の遺体が見つかった。

 女の人たちの泣く声が、電話の向うから爆発的に聞こえてきた。村越家に私が着いたときには、母親の豊子さんは気を失って倒れていた。言葉もないのだ。いつもは気丈で冷静なおばあちゃんが、畳に泣き伏して顔を上げようとしない。


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 「怒りや憎しみからは何も生まれない」と言われる種類の厳罰感情とは、本来はそのような解りやすい負の感情ではなく、「一億人も人がいる中で、どうして――」という哲学的な問いであったものと思います。そして、これがステレオタイプの被害感情の型にはめ込まれるのは、その哲学的問いを説明できる人がこの世に存在しないからだと思います。

 人生はその人の身体から出ることができない以上、誰も答えられない哲学的問いを有してしまった者と有していない者との間には絶望的な懸隔があり、全身で絶望的に感じていない者には、この懸隔を乗り越える資格を持たないものと思います。自分は他人の人生を生きることができず、逆も同じであり、これが「自分」の形式だからです。ところが、現場でなく研究室で事件を起こす者は、ここを簡単に乗り越えているように感じます。

 最後の遺体発見の場面については、私は組織の中で生きる者として、「見つかってほしい」という希望や、「見つからなかったらどうしよう」という焦燥感が自分のこととして理解できます。2年3ヶ月の混迷を極めた捜査の終結による虚脱感、責任の所在を巡る精神の消耗、社会的な非難や組織の体面など、本田氏の迫真の筆致によって本当に胃が痛くなるような感を覚えます。

 これに対し、2年3ヶ月にわたり吉展ちゃんの帰りを待ち続けた家族の「間違えであってほしい」「どこかで生きているはずだ」という一縷の望みが断ち切られた瞬間の心情は、経験のない私において、上手く一緒に泣くことができません。「このような感じだ」という中心点を共有することがないからです。全身で絶望的に感じていない者における想像力の限界と、罪悪感を覚えるところです。

 このような場合、社会は「遺体が発見されて事件が解決することが正しい」という常識で動いており、「発見されることの絶望」という価値基準については、論理的に対応する術を持たないものと思います。ここにおいて、常識でないものは一段下に見られ、被害者に対する上から目線が成立するように感じます。そして、その実質は、人は本当の絶望を見ないようにし、目を逸らすということだと思います。