犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今西乃子著 『犬たちをおくる日』 その1

2012-10-14 00:05:52 | 読書感想文

愛媛県動物愛護センター(犬の殺処分を行っている機関)のノンフィクションです。

p.17~

 ここに来る犬たちの多くは、ただただ不要で望まれない命として、何の役にも立たないやっかいなものとして、自分の手を通し、殺され灰になっていくのだった。それは、小さいころから犬を飼っていた瀧本伸生(センター作業員)にとって、大きな心の痛手をともなう作業だった。もし、犬たちをただの「不要ゴミ」として殺すことができたら、ただの壊れた役に立たないオモチャとして、その死体を焼却炉に放りこむことができたら、どれほど楽だったろう。

 しかし、どんな思いをしても、伸生はその作業を続けるつもりでいた。自分がこの場所からいなくなっても、犬たちの命が救えるわけではない。他のだれかがまた、自分がやっているように犬を捕まえ、処分する作業を引き継ぐだけだ。そして、もし、自分の代わりのだれかが犬という動物を、「命」ではなく「モノ」として扱ったらどうなるのか。「どうせ、殺す犬なんだから」。「ゴミといっしょなんから」。そんな気持ちで犬たちの最期を見届けてほしくはなかった。


p.25~

 伸生の勤める保健所では、次々と飼い主によって犬が持ち込まれた。人をかんだ、世話ができない、しつけができない、飽きた、バカな犬だからいらない……。あきれるほど身勝手な理由で、次々と犬を置き去りにしていく。一度は飼い主から愛情を受けた犬が、最も信頼していた飼い主の手によって捨てられていくのである。ひとり、またひとり、人間としての責任を放棄し、罪を重ねる者が増えるごとに、犬たちはその命のさけびを伸生たちに託し、この世を去っていくのだった。


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 私は、かつて消費者金融のアイフルがやっていたチワワのCMが嫌いでした。ソフトバンク携帯の「お父さん犬」など、タレント犬が人気を集めることも好ましいとは思えません。先日は、兄弟犬ジッペイが熱中症で死んだという出来事もありました。広告は巨大な洗脳装置であり、そこに登場する人間は人格が商品化される以上、擬人化された犬は、そのような人格として商品化されることになります。そこでは、犬が言葉を話せない犬としてではなく、あくまでの人間の側の都合によって、人間と同レベルのキャラクターを演じさせられているように思います。

 動物の命は人間が握っています。従って、動物の命の重さは、人間が他の命に向かい合う際の鏡であるように思います。「人の命は地球より重い」という格言がありますが、動物の命がそれよりも軽いのかという上下関係は、単なる理屈です。実際のところ、言葉が話せない動物の命を無機質な物として扱って心が痛まないのであれば、言葉を話せる人間の命を物のように扱っても心は痛まないのだろうと思います。現在の日本は、人間が犬の首輪をつけられて監禁されて死亡したというニュースに接しても、あまりショックを受けなくなったように感じます。

 ペットショップに勤めている方から、本当に動物が好きな人はこの仕事には向かないと聞いたことがあります。ペットショップの目的は、1匹でも多くの動物を仕入れて売って利益を上げることであり、これが経済社会のシステムです。責任を持って最後まで飼えると思われる人間を選別して売っていては、企業としての存続に関わってくるからです。そして、経済社会においては、このような現実を前にして繊細に心を痛める者は、組織人として考えが甘いとの評価を与えられるのが通常だと思います。そこでは、動物の命の問題が、人間の側の理想と現実のジレンマの問題に替わっています。

 愛媛県動物愛護センターで働く方々の生き様に接すると、文字と写真の上からだけでもその人柄が伝わってくるように感じます。商業主義と利己主義が動かぬ正義の位置を占め、人間の私利私欲のために犬を犠牲にしている現代社会の主流において、この覚悟と矜持は際立つように思います。いつの世も、社会的成功と名声の獲得に余念のない人々が目立つ一方で、必ずその歪みを引き受けて名誉を求めず、より高次の価値を不動のものとして追求できる高潔な人間がいるのだと感じます。