犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今西乃子著 『犬たちをおくる日』 その2

2012-10-15 00:01:14 | 読書感想文

p.4~(序文)

 2009年2月19日、午後1時20分。その日、わたし(著者)が殺したのは30頭の成犬、7匹の子犬、11匹のねこであった。その死に顔は、人間をうらんでいるようには見えなかった。彼らはきっと、最期のその瞬間まで飼い主が迎えに来ると信じて待っていたのだろう。

 あの日からずっと、ステンレスの箱の中で死んでいった彼らを思わない日はなかった。「だれかをきらいになるより、だれかを信じているほうが幸せだよ」。犬たちの声が聞こえる。この「命」、どうして裏切ることができるのだろうか……。


p.154~(あとがき)

 「今西さん、ボタンおされますか?」 愛媛県動物愛護センターで当時係長だった岩崎靖氏の言葉に、わたしは迷わず「はい」と答えた。2009年2月19日、時間は午後1時20分だった。

 「どうぞ……」。わたしは岩崎氏にうながされ、右手の人さし指を「注入」と書かれた赤いボタンの上に置いた。モニターには処分機の中の犬たちのあわてる様子がくっきりと映し出されている。わたしはこの手でボタンをおした。犬たちのその後の様子は、本書に書いたとおりである。わたしは決して目をそらすことなく、最後までその様子を見届けた。


***************************************************

 この社会は矛盾だらけであり、個人の力ではどうにもならないことばかりだと思います。そして、社会は人間の集まりの別名である以上、社会の矛盾が解消されないのは、矛盾が存在しない者にとっては矛盾が存在しないことによるのだと思います。動物の命についても、動物は「ヒト・モノ・カネ」の中の「モノ」であり、それを「ヒト」が「カネ」で買うのだと考えれば、そこには何の矛盾もありません。「犬はモノではなく命なのだ」という認識は、上昇志向が支配するビジネスの現場からは、稚拙で甘ったれた考えだとして一蹴されるのが実際のところだろうと思います。

 動物の命が人間の勝手によって失われている現状に正面から向き合うならば、人間が採り得る態度は、大きく分けて2つだと思います。すなわち、繊細と鈍感です。繊細に考えれば、人間はその考えの途方もなさに潰されます。そして、潰れた後には、潰れていない者がその仕事をしなければなりません。他方、鈍感に考えれば、あるべき理想の世界への希望を持つことができます。しかし、その理想が現実化しなくても、その検証は行われないばかりか、過去の決意すら記憶の彼方に消えます。ここでも、欲望の放流によって倫理的な人間が翻弄されているように思います。

 愛媛県動物愛護センターの現場の最前線において、全身全霊で言葉の話せない犬と向き合っている方々からは、繊細と鈍感の中間ではなく止揚としか言いようのない矜持を感じます。「犬の人気ランキングが下がったから捨てる」という無責任な飼い主の正当化の理屈に唖然とする場面では、鈍感であれば身が持たず、繊細にならざるを得ないものと思います。他方、「あなたが実際に犬の命を奪っている殺し屋だ」という言われのない嫌がらせや非難に向かう場面では、繊細であれば身が持たず、鈍感にならざるを得ないものと思います。

 この本の著者の今西乃子氏は、高い志と誇りを持って動物たちに誠心誠意接している職員の方々に少しでも寄り添い、自身が感じたことを読者に伝えたいとの意志で、ボタンを押したと述べています。以下は私自身の仕事に引き付けた強引な推論ですが、死刑存廃論議に関する「ボタンを押す刑務官の苦しみを国民全体で想像して苦しまなければならない」という主張を思い出し、言葉が有する力の差を認識しました。「ボタンを押す苦しみを想像する」などという行為は生易しいものではなく、人生を破壊する要素を有しており、政治的な主張に結びつける筋立ては安直に過ぎると感じます。