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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その77

2013-11-13 22:46:09 | 国家・政治・刑罰

 「刑事裁判における被害者の地位が軽すぎる」「刑事裁判のあり方を変えたい」との信念を持ってこの業界に飛び込んだ同期の数人の弁護士に会うたびに、相互に状況を察し、お互いこの点については多くを語らなくなった。ただ、友人の弁護士達も私と似たような経験をして苦しんできたであろうことは、その言葉を聞けばすぐにわかる。

 思わぬミスやトラブル、顧客との軋轢、事務所内での人間関係の諍いなどは、当初の理念と無関係に足を引っ張るものではなく、理念倒れという明確な価値判断を突きつけてくる。勉強ばかりしてきた頭でっかちの人間は、減点法の実務で職務過誤の恐怖に晒されると、途端に後ろ向きになる。そこには、「現実の壁」すら存在しない。

 以前の事務所では、私は被害者の自宅へ謝罪に伺う役割を買って出ていた。所長から厳しく言い付けられたことは、インターホンで断られたらすぐその場で引き返すこと、電車のICカードの履歴をこまめに印刷すること等である。面会を断られて往復する回数が多くなればなるほど、依頼者への出張日当や実費の請求額が増えるからである。

 私はその頃、依頼者から徴収した日当の全額を所長が自分のポケットに入れていたことや、私が持ち帰ったお詫びの菓子折りを所長が自宅ではなく愛人宅に持ち帰ったことに憤慨しつつも、人の不幸で飯を食うビジネスの錬金術に全面的に加担していた。「被害者の絶望に寄り添いたい」との初心を想起するだけの余力はなかった。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その76

2013-11-11 23:29:18 | 国家・政治・刑罰

 もし、この裁判で被害者の意見陳述が行われていたなら、いったいどのような言葉が述べられたのか。恐らく、あの手紙の沈黙と狂気は、この法廷で語ることはできない。私は、この同じ場所でおよそ1年前に聞いた50代の女性の意見陳述を思い出す。自動車運転過失致死罪の公判であった。彼女は、ある日突然に一家の柱である夫を奪われた悲劇のヒロインであり、既に舞台に立たされていた。

 あの時にも、女性が事前に書いていた手記のほうが鮮明であった。彼女は夢の中にいる状態でパートの面接を何社か受け、そこで思い知らされた。夫が亡くなったことなど、会社には基本的に関係ない。人は他人のことには関心がなく、自分のことだけで一杯である。そして、会社は会社の論理で動いている。従業員としての役割を果たしてもらうことが第一の条件である。彼女は多くを語れなくなった。

 実際にパートに出て、彼女は更に思い知らされた。パート内の派閥や人間関係がここでの人生の一大事である。世の中誰しも自分が主役であり、それぞれの悩みがある。働き盛りの夫を突然の事故で亡くしてパートに来たなど、お気の毒様だとは思うけれども、仕事の場でそんな重いことを言われても困るということだ。人が世の中での生活を許されるための条件は、何をおいても社会性を身につけることである。

 法律家は、「前科者に対する社会の偏見と冷たい視線」「犯罪者の更生と社会復帰」などの極端な状況を論じることは得意である。しかし、彼女のような被害者が直面しているのは、一般社会の常態の残酷さのほうである。犯罪被害によって玉突き的に生じた連鎖的な因果は、世間的な基準ではただの不幸自慢となる。そして、被告人の禁錮と執行猶予を決定する法律の論理は、彼女の不幸に関心を持たない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その75

2013-11-10 22:50:19 | 国家・政治・刑罰

 弁護人の使命は、国家権力の濫用から市民の人権を守ることである。そして、その権力の怖さを象徴しているのが警察・検察権力であり、弁護人はこれに闘いを挑み、権力を監視する。……これが、私が学生の時分に捉えていた典型的な権力の構造であった。後に私が肌で感じた権力は、このような構造とは違う形をしていた。頭だけの情報と、それによって作られたイメージは、細部の描写がいい加減なものである。

 私が検察官に関連して権力というものを強く知らされたのは、以前の法律事務所に入って間もない新人の頃である。私は電話で聞き違えをし、書類の中の担当検察官の肩書きを誤り、「検事」と「副検事」を誤って書いてしまった。検察官は笑って済ませてくれたが、所長弁護士の怒りは苛烈を極め、私は直立不動で20分以上の叱責を受けるしかなかった。万死に値するミスをしたのだから、自分の無能を責めるより仕方がない。

 副検事に対して「検事」と呼びかけることは、そのプライドを傷つけ、屈辱を生じさせる行為であり、絶対にあってはならない。この粗相は、業界内では強盗罪や放火罪よりも悪い所業である。逆に、検事を「副検事」と間違えることは、それにも増して非常に失礼な過ちである。この失策は、殺人罪や強姦罪よりも重い。私には既に業界の感覚が染み付いている。組織の論理が理解できなければ、社会人としては生きられない。

 所長は、「部下のミスで事務所の看板に傷がつくなど悔しくて寝られない」としばらく憤っていた。全ては私の落ち度である。所長は、「今後この事務所は検察庁から軽視され続けるだろう」と自嘲気味に語ってもいた。私はひたすら詫びるしかない。切腹に値する過ちを犯しつつ生き恥を晒しているという感覚を、私は内面化して身につけていた。これは、私が「権力」というものを頭ではなく全身で感じる契機であった。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その74

2013-11-08 22:35:47 | 国家・政治・刑罰

 検察官は、論告求刑の中で「遺族の厳罰感情は峻烈を極め」という定型的な言い回しを述べた。この主張が弁護人の内心に及ぼす効果は決まっていると思う。第1に「弁護人の力が足りなかった」という居心地の悪さ、第2に「自分の力ではどうしようもなく自分の責任ではない」という開き直りである。そして第3に、峻烈な感情が上手く推測できず、自責の念よりも「引く」「白ける」という感覚が優勢になることである。

 怒りや憎しみの感情は、現代ストレス社会の構成要素であると思う。家庭内ではしつけと虐待の区別がつかず、学校では指導と体罰の区別がつかず、会社では社員教育とパワハラの区別がつかない。ここで問題とされているのは、正しい怒り方や、「怒る」と「叱る」の違いである。これに対し、犯罪被害の局面になると、なぜか「怒りの感情からは何も生まれない」という抽象的な話に飛んでしまう。いかにも目盛りが荒い。

 「挫折からの立ち直りの方法」という話なら、このストレス社会には満ち溢れている。これは、あくまでも従来の価値観を前提に、その距離の測り直しを迫られる事態である。これに対し、価値観の足場が崩壊するのであれば、「挫折」という概念も崩壊する。これを挫折と呼ぶことは不可能であり、犯罪被害は挫折ではない。挫折や失敗から立ち直るという話であれば、犯罪被害に遭うことに積極的な意味が与えられてしまう。

 犯罪被害に遭っても前向きに生きて立ち直るのが人間にとって有意義な経験なのであれば、世の中にはもっと犯罪が起きればよい。犯罪を犯しても更生してプラス思考で生きることに価値が認められるのであれば、社会ではもっと犯罪が犯されなければならない。犯罪の加害と被害に何らかの意味を認めるとは、現にこのようなことである。これに対抗し得る論理は、「二度とこのようなことが起きないように」のみである。

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ある日の刑事弁護人の日記 その73

2013-11-07 22:26:26 | 国家・政治・刑罰

 公判当日、法廷の傍聴席には、被害者側の親族・友人・関係者と目される人は誰も来ていなかった。他方で、加害者側の親戚・友人・会社の上司などの関係者が合計10人ほど集まっており、事前に予定していた人数よりも多かった。いかにも支援者団体という雰囲気であり、私は何となく気が重くなった。これならば、被害者側の関係者が詰め掛けていたほうがやりやすい。

 刑事法廷という場所では、生産性のある仕事は何一つ行われていない。そして、法廷の柵の内側にいる者は、法曹三者から裁判員、被告人から証人に至るまで、好きでこんな場所にいるわけではない。楽しくも何ともない場所であり、楽しくあってはならない場所である。裁判のドラマで役者が生き生きとしているのは、それが自分のやりたい仕事であり、生産性があるからである。

 法廷の柵の内側は厳粛な手続きが行われる聖域であり、傍聴席はそれよりも下界に近い。これが世間のイメージである。しかし、私の実感は全く反対である。法廷の内側は動物園の檻の中のようだ。こちら側にいる者は、その一挙手一投足が見せ物である。そして、その場の空気を支配するのは、観客であるところの傍聴人である。特に、好きでこの場所に来ている傍聴人である。

 依頼者が「こんな格好悪い情けない姿を見られたくない」と思っていたのであれば、彼は友人知人までが傍聴に来ることを断固として拒んだはずである。これは弁護人が指図する事柄ではなく、彼の選択である。そして、傍聴席にいる支援者は、厳しい目を彼ではなく私に向けている。それは、「彼にこれ以上恥をかかせたら許さない」という目だ。柵の内側で、恐らく私が一番苦しい。

(フィクションです。続きます。)

危険運転・罰則強化法案を全会一致で可決 衆院本会議

2013-11-06 23:36:05 | 国家・政治・刑罰

毎日新聞 11月5日19時11分 配信記事より

 衆院本会議は5日、危険な運転による死傷事故の罰則を強化する「自動車運転死傷行為処罰法案」を全会一致で可決した。参院に送付され、今国会で成立する見通し。早ければ来年5月に施行される。法案は、病気の影響で正常な運転が困難になったケースなども危険運転致死傷罪に問えるようにし、最高刑を懲役15年とした。

 また、酒や薬物の影響で死傷事故を起こしたことを隠す目的で逃亡する行為などを罰する「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪」(最高刑・懲役12年)を新設。交通事故で適用されることの多い自動車運転過失致死傷罪(同懲役7年)は刑法から移し、「過失運転致死傷罪」に名称を変更する。いずれの罪も、無免許だった場合は刑を重くする規定を設けた。


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 衆院本会議場の傍聴席で採決の瞬間を凝視している被害者の家族の姿を、私はテレビのニュースで見ました。現代の日本で「顔」の話と言えば外見の美醜の話題しかありませんが、私は傍聴席の顔を前にして、外見を通り抜けた表情の深さに威圧されて息を呑みました。これは、ちょうどプロ野球の日本シリーズが終わったばかりだという以外の理由はありませんが、楽天の田中将大投手のマウンド上での鬼気迫る形相に驚嘆させられる感触に似ていると感じました。

 田中投手の鬼神の如き形相は、その人生のそのステージに立った者だけが、その見える者にしか見えていない風景を見ている時にのみ表れる相貌なのだと思います。ただ一点に全人生を集中させ、一挙手一投足に魂を込めるということは、私のような凡人には到底考えられないことです。超越した場所に立っている者に対しては、同じ場所に立っていない者は、ただ下から見上げて畏怖の念を抱き、その究極の論理の示すところを沈黙して見ているしかないものと思います。

 星野監督のインタビューの中で、楽天の優勝は東日本大震災の被災者にとっては「雀の涙ほどの癒し」に過ぎないと述べられていましたが、野球は所詮は決められたルールに従ったゲームであり、命まで取られることはありません。震災の直後、まだ日本ハムにいたダルビッシュ投手が「ボールを投げてバットを振り回している場合じゃない」と話していたことも思い出します。だからこそ、このゲームでは、一投に凝縮された超人的な精神力が象徴として鮮明になるのだと思います。

 「被害者遺族が厳罰化を叫ぶ」という政治的な捉え方は、超越した場所に立っていない者がその特権に安住し、大所高所からの理屈を述べているに過ぎないと感じます。本来、人間は精神力の限界において真実のみを求め、それは自分だけでなく誰の人生においても真実であり、ゆえに個の徹底が普遍に至るのであり、同じ経験をしたことがない者は畏怖して沈黙するしかないはずだからです。これは、田中投手から素人がホームランを打てないのと同じ論理だと思います。

ある日の刑事弁護人の日記 その72

2013-11-04 22:04:18 | 国家・政治・刑罰

 犯罪被害者保護の理念を追求する弁護士であっても、恐らく被害者参加制度について「各論賛成」と言い切ることは難しい。例えば、自動車運転過失致死罪の被害者が身寄りのない老人であり、遺族と呼べる人間が誰もいなかったような場合、これは最も悲惨な孤独死の一形態である。しかし、弁護人は心を痛めつつもホッとする。これが、刑事弁護人という職務を課せられた者の置かれた立場である。

 被害者の家族は加害者への厳罰を求めるという社会常識があてはまらない場面は、実際にはかなり物悲しいものである。例えば、非常に仲の悪い夫婦の一方が「死ねばいいのに」と思っていたところに事故が起き、賠償金に加えて遺産も相続する幸運に恵まれ、加害者への厳罰の意思は全くないような場合である。この場合にも、刑事弁護人は虚しさを感じつつも、恐らく心底からホッとすることになる。

 刑事裁判における弁護戦術は、被告人の今後の生活や人生設計も計算に入れつつ、損得勘定を基本に組み立てられている。これは、公判での主張に限ったことではなく、容疑者段階から既に始まっている。被告人が自白したり否認したりするのは、その事件に関する証拠物件や証言のみに基づくものではない。将来を見据えた上での駆け引きであり、いわゆる大人の事情に支配されている場面である。

 絶対的権力者である裁判官を前にするとき、被告人は「潔く罪を認めて反省する自分の立派な姿」を見てもらおうとする。弁護人のほうは、「素直に反省できるような人格者が偉大でないわけがない」とほのめかす。このような打算を展開しようとしている者にとって、被害者参加制度によって示される言葉は、あまりに裏表のない正論である。刑事弁護人は、純粋な論理を示されると困ってしまう。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その71

2013-11-03 23:01:15 | 国家・政治・刑罰

 公判期日の数日前、検察事務官及び裁判所書記官と電話で期日進行の最終確認をする。被害者の家族からは、意見陳述制度及び被害者参加制度の利用の申し出はなく、従って被害者参加人による被告人質問や論告求刑はない。また、被害者の家族からは、優先傍聴制度の利用に関する申し出もなく、恐らく傍聴席にも来ないだろうとのことである。私は、心の奥底で安堵している。

 私は、自身の経験から裏付けられた持論として、被害者参加制度には一貫して賛成である。しかし、私は現実問題として、この被害者の家族とは法廷で顔を合わせたくないと思っている。私はどんな顔をしていればいいのか。被害者に対する敬意を持った表情とは何だろうか。いや、私の本音はもっと卑怯だ。人殺しの味方だと思われたくない。単に、精神的に疲れる仕事から逃げたい。

 私の知る限りでは、被害者参加制度について「総論賛成・各論反対」という弁護士は多い。自分の仕事の円滑な進行という点においては、裁判官に向かって頭を下げ続け、「被告人は反省していますので刑を軽くしてください」という一点張りで行けるほうがやりやすいからである。登場人物が多ければ話が複雑になり、考えることが多くなる。それだけ、事前に必要な準備も増えてくる。

 実務の現場を見て私が知ったのは、「各論反対」という動かぬ前提から「総論反対」という強硬な主張が導かれる過程であった。そして、「被害者が来ると理性的な法廷が感情的な報復の場になってしまう」という理論を前に真剣に心を痛めていた自分がひどく幼稚に思われた。既得権や利権というものの内実は、自分がそれを享受する立場に置かれてみないと実感できないものである。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その70

2013-11-01 22:36:55 | 国家・政治・刑罰

 仕事を覚えるということは、右も左もわからない場所に立たされてオロオロし、理不尽に怒られながら、習わずに慣れるということである。そして、月単位や年単位の時間を経て、ようやく自分の周りの組織の構造が見えてくるものだと思う。そこでは、「日本のため」「世界のため」との高い志を持つ余裕もない。「社会を変える」といった無責任な言葉の空虚さを思い知るのみである。

 弁護士の仕事を覚えるということは、黒を白と言いくるめる技術を磨くことであり、聞かれたら嫌な質問を適切に発する能力を身に付けることである。刑事弁護人から犯罪被害者に向けられた質問として、私がこれまでに聞いた中で最も腹黒い質問は、「厳罰が実現されることで正義感が満たされるのか」というものであった。この質問は狡猾であり、非常によく考えられていると思う。

 この手の質問は、「はい」と「いいえ」のいずれに答えても論理に矛盾を生じ、蟻地獄に陥る。すなわち、問いから答えを得ることが目的ではなく、問われる者の自尊心を傷つけ、体力と気力を奪うことが隠れた目的である。そして、このような問いを思いつく者は、相手方の痛いところを突いて喜々とし、これに伴う一瞬の自己嫌悪については、すべて社会正義の大文字によって埋められる。

 「正義は勝つ」という理念を標榜する者は、賢い者であれば賢いほど、他方でその理念の偽善臭を知っている。そうでなければ、「あなたの正義感が満たされるのか」といった嫌らしい問いは出てこない。このような答えられない問いの論理は閉じているが、実際の人間の日々の生活は閉じていない。例えば、「やられたら倍返し」といった流行語は、容赦なくどこからか耳に入ってくる。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その69

2013-10-31 21:47:27 | 国家・政治・刑罰

 私の手元には、被害者の父親からの手紙のコピーが残された。手紙の現物は依頼者がやむなく持ち帰ったからである。本来、罪に対する償いについて被害者側が手紙を送る相手は、検察庁や裁判所である。しかし、これは既に制度の側が作り上げた構造にすぎない。被害者は、へりくだってお上に嘆願し、「訴えを聞いてもらう」「救ってもらう」という与えられた役割を演じさせられている。

 刑事裁判が茶番劇であることに一役買っているのは、検察官も同じである。無限に凝縮される人間の心と言葉を目盛りの荒い物差しで簡単に測りつつ、「被害者の無念は察するに余りある」の一言で済ませる。これは、A4用紙1枚の論告要旨の中の、そのまた2~3行にしかならない。ここには、被害感情が満たされるか、被害感情が逆撫でされるかの二者択一の評価があるのみである。

 弁護士は言葉のプロである。相手の言葉尻を見逃さず、あえて揚げ足を取り、重箱の隅を突き、相手のエラーに付け込む。相手の勇み足を見逃さず、こちらは玉虫色の言葉で誤魔化す。相手の言質を取り、こちらは言質を取られない。被害者からの手紙の行間などは読まない。明晰な頭脳で手紙を飛ばし読みし、厳罰の意思はどの程度のものか、示談金の希望はいくらかを瞬時に読み取る。

 法廷は戦いの場であり、法律事務所はその準備の場である。相手方の主張と証拠に矛盾を探す。隙を見せないように、常に神経を研ぎ澄ます。一言一句が勝敗を分ける。性格が悪くなるのは想定内である。依頼者から「向こうの弁護士のほうが腕がよさそうだ」と思われてしまえば終わりである。このような法律事務所には、被害者の家族が書いてきた手紙の言葉など読める人はいない。

(フィクションです。続きます。)