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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その87

2013-11-27 22:23:45 | 国家・政治・刑罰

 このダラダラと長い日記は、実際には依頼者が最後に来所した日、その後ろ姿を見送りながら、一瞬のうちに私の頭をよぎったことの後追いである。従って、その被告人であった依頼者の話はほとんど消え、過去の何十人顧客が1人の中に混じっており、3年前も昨日も同じ距離で測られている。いったい誰が誰なのか、私の頭の中にありながら、私の頭も理解していない。ゆえに、この日記はフィクションである。

 この刑事弁護人である「私」のほうも、実在の人物ではない。こんな内省的で要領の悪い弁護士がいては周囲に迷惑をかけ通しだ。依頼者にも大損害が生じて責任問題となる。弁護士は事件屋であり、攻撃的でヤクザな仕事だ。善悪や生死に対する洞察をしていては仕事にならず、割り切りだけがある。本物の弁護士が本物の日記を公開するならば、それは必ず自己の業績を誇るか、政治的な主義主張の形を採る。

 法律家は言葉のプロである。但し、その職務の遂行において言葉を大切にするというのは、言葉が語らない沈黙を大切にすることではない。言葉が人間を使って嘘をつくわけではなく、人間が言葉を道具として利用する。そして、理屈によって黒を白であると言いくるめる。ここでは、「白ではなく黒だ」ということが大前提となっている。言葉のプロであるというのは、この程度の嘘が簡単につけるということである。

 弁護士の職業病は、常に相手方の言葉の裏を探ろうとする姿勢が染み付くことである。これは下司の勘繰りであり、猜疑心である。自分は言葉の揚げ足取りなどしたくないと思っていても、相手方から取られてしまえば、激しく心が折れる。そして、これを繋ぎ合わせた時には、自分も相手方の言葉尻を取って理屈で追い詰め、鬼の首でも取った気分になっている。他方では、言葉選び慎重になり、萎縮している。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その86

2013-11-26 22:31:22 | 国家・政治・刑罰

 この刑事弁護に関する事務は全て終わった。いかなる組織においても、1つの仕事が無事に終わることは、それ自体が積極的な意義を有するものだと思う。特に法律事務所においては、依頼者に対して大きなミスを犯すこともなく、無事にゴールに到着することは、仕事の目的そのものである。この「事件を流して落とすこと」の価値は、お役所である検察庁や裁判所においてはさらに顕著であると思う。

 この依頼者が帰った後、私は別の離婚調停の件と自己破産の件について、また顧客との打ち合わせに入った。気持ちを一瞬にして切り替えるための最善の方法は、目の前にいる人物に敬意を払い、人生を賭けて法律事務所の門を叩いた方の話に集中し、丁寧に耳を傾けること以外ではあり得ないと思う。その一方で、私は親身になりすぎて精神的に潰れないよう、しっかり責任逃れの道も作っている。

 深夜の自宅への帰路にてふと思う。私はこれまで、道路脇に花束や缶ジュースが置かれている光景を何十回も目にしたはずだ。私は見ず知らずの人の死に深く心を痛めるほど繊細ではないが、通行の邪魔や周囲の自己満足だと断ずるほど鈍感でもない。ところが、その場所がどこだったのか、私は正確に思い出せないでいる。もし私が今その場所を通ったとしても、私はそれに気付くことができない。

 依頼者は、社会で定められた償いの手続きをひとまず終えた。他方、被害者の家族の長い時間は、恐らく始まったばかりである。依頼者は今後も私の名前を覚えているだろう。被害者の家族はどうだろうか。全く覚える気もないか、胸を掻きむしった人物として生涯覚えているか、両極端のいずれかだと思う。私のほうは、この件に関わった者の責務として、亡くなった方の名前を絶対に忘れてはならない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その85

2013-11-24 21:51:54 | 国家・政治・刑罰

 依頼者が今日来所した主目的は、執行猶予の獲得に対する成功報酬金の支払いである。私はこの業界での経験を積むうち、人の不幸や弱みを飯の種にしている後ろめたさが徐々に薄らぎ、お金の力に助けられることのほうが増えてきた。これは、私のように金銭欲が薄く、人様からお金を頂くことに罪悪感を持つような人間のほうがより強く実感することである。皮肉なものだと思う。

 依頼者にお金を請求することが不得手な弁護士は、交通事故の民事事件ならば被害者側に就くほうが数段楽である。被害者側の弁護士ならば保険会社から支払われた賠償金の一部を報酬に充てられるのに対し、加害者側の弁護士ならば新たに請求書を送らなければならないからである。そして、ふと気がつくと、「被害者の代理人の仕事は金になる」という現実に呑み込まれている。

 法律事務所は社会の病理を扱う場所である。そして、その主宰者が病弊しないのは、人の痛みや苦しみが「肉体的苦痛」「精神的苦痛」に商品化されているためである。この苦痛は大きいほうが価値がある。多額の金額が動き、その分だけ報酬金も高額になるからである。ここでは、誠実な弁護士であればあるほど、「お金よりも誠意が問題なのだ」という依頼者の声を前に葛藤することになる。

 前科者の社会復帰の問題については、学生時代に理屈として学んだことと、現在の私の実感は大きく異なる。現代社会で重宝される人材は、逆境に際してのメンタルの強さや、過去を引きずらない切り替えの早さを備えた者である。前向きであることは評価され、1つのことを深く掘り下げる姿勢は評価されない。そして、私が見る限り、この依頼者はもう既に社会復帰ができている。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その84

2013-11-22 22:32:38 | 国家・政治・刑罰

 依頼者は、公判が始まる前と全く同じように、被害者と家族に対するお詫びのしようがない気持ちを私に語った。ただ、私はその中から微妙な変化を感じ取った。依頼者が裁判官の言葉に不満を持ち、それを私に訴えてきたからである。判決宣告後の説諭の中で、裁判官は、「『注意を尽くしていたはずだ』という被告人の言い分もわかりますが……」と語っていた。依頼者にとっては、この一言が引っかかるものだった。

 依頼者は私に訴えてくる。「自分は全面的に反省し、謝罪の念を示すことしか考えていなかった。法廷では一言も言い訳をしたつもりはない。私は最初から最後まで自分に厳しくしていた。一切の保身や弁解はしていない。それなのに、あの裁判官からは、私が言い訳をしたようなことを言われた。この点だけはどうにも納得できない。裁判官は人の話をしっかり聞いていたのか。あの言葉にはずっとモヤモヤしている……」。

 私はこの言葉を聞いて、身の置き所のなかったはずの依頼者に、その場所が簡単に発生してしまったことを感じた。被害者側はモヤモヤなどできない。人間において、純粋な反省や謝罪の念だけを持つことは至難の業である。反省や謝罪の念には、それが報われるのかどうかという憶測が付きまとう。そして私は、自分の内心に安堵の気分が生じたことに気付く。人の命を奪った者に対して全面的に親身になることの反倫理性が表面化していたからである。

 法律家は、「加害者=悪、被害者=善」の構図に懐疑の眼を向けたがるが、これを逆にするのは単なる政治論にすぎない。この構図は法律の条文などには書かれてはいないが、私は、自身に内在するある種の直感とも言うべきこの構図の正当性を確信する。もちろん勧善懲悪の二元論のことではない。今回、依頼者が反省の情の存在を善とし、それを評価しなかった裁判官を悪であると断じた場面に生じたそれのことである。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その83

2013-11-21 21:19:22 | 国家・政治・刑罰

 依頼者は、「本当に親身になって頂いて申し訳ございません」と述べる。この申し訳ないという気持ちは、恐らくかなりの割合で本心であると思う。私のほうも菓子折りを手に、「こちらこそお気遣い頂いて申し訳ございません」と述べる。この申し訳なさも間違いなく本音である。私は、亡くなった被害者の命を前にして、依頼者のために純粋に親身になることを倫理的な悪と判断し、これを密かに法律に優先させていたからである。

 刑事の自白事件の法廷において、最もよく聞かれるフレーズが「申し訳ございません」である。情状証人がそのように謝り、被告人もそのように謝る。いかにも申し訳なさそうな顔をし、申し訳なさそうな声を出す。裁判官に対して謝り、傍聴席に対して後ろ向きに謝り、さらには天に向かって平謝りする。これは条文に書かれていないルールである。「ひたすら『申し訳ありません』と言うこと」が1つの決まりである。

 頭を下げ続けていれば何とかなるというのは、この世間を生き抜くための1つの知恵である。人には他人の内心は見えない。大事なのはとにかく形式である。そして、「反省の情があれば刑は軽くなる」という決まりがある法廷では、この知恵が顕在化する。実際のところは、「二度と致しません」と誓った者がすぐに再犯で同じ場所に戻り、「今度こそ本当に二度と致しません」と誓う。ここでの言葉の価値は吹けば飛ぶようにに軽い。

 法廷での「申し訳ございません」の連発に比べれば、今日の私と依頼者の「申し訳ございません」はごく自然であり、お互いに本音である。依頼者は申し訳なさそうな顔は作っていない。法廷という舞台の演者の肩書きから解放され、肩の荷を下ろしていることがわかる。被害者の家族が断じて受け取らなかった和菓子は、「お見舞い」から「お礼」に名を変えると、大人社会の気遣いを示す役割を簡単に果たすようになる。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その82

2013-11-19 22:48:22 | 国家・政治・刑罰

 約半月後、依頼者と父親が事務所に来る。最後の清算と書類の返還のためである。検察からの控訴はなく、執行猶予の判決が確定した。依頼者は、初めて会った時とは明らかに違う顔をしている。私は今まで人を死なせた経験はなく、それがいったいどのような感覚なのか、人間として正確には理解できない。それで偉そうなことを言っているのだから、弁護士もいい加減である。裁判官はもっといい加減である。

 依頼者は、またお礼の菓子折りの大きな紙袋を手に提げている。申し訳なく、ありがたいと反射的に思っている私がいる。私と依頼者は、確かに同じ論理のレベルにおいて会話を交わし、同じ空気を吸っていることがわかる。この世間を生き抜くうえで重要なものは、社交辞令であり、歯の浮いたお世辞である。特に冠婚葬祭の場の不作法には、独特の軽蔑を含んだ批判的な視線が向けられるものである。

 私はこれまで、死亡事故の被害者の家族から様々な限界的な言葉を伝えられた。「色のない世界に暮らしている」。「いつも暗い水の中に沈んでいる感じだ」。「今も深い地の底に吸い込まれている」。感覚は言語ではなく、言語は感覚ではない。私は、同じ空気を吸っていないことを悟り、吸っていないことの罪悪感の気楽さも悟った。偽善や口先だけの社交辞令は全て瞬時に見抜かれることも察した。

 罪と罰、正義と不正義、あるいは生と死。刑事弁護人と被告人が話し合うに値する問題はごく僅かだと確信していた大学院の頃の私の心は、今でも基本的に変わっていない。ただ、人生経験を積んでいるはずなのに、逆に人生経験の乏しさを思い知らされてばかりいる。仕事への誇りや志の高さでなく、肩書きや年収が人間の評価を左右するこの社会で、私はいつまでも子供のようなことを考えている。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その81

2013-11-18 22:25:43 | 国家・政治・刑罰

 人の命を奪ったことに対する裁きは、もとより司法や裁判官によって与えられるべきものではない。法律の定めは、単に社会生活のための方便である。私は、判決を受けた直後の者に対して語るべき適当な言葉など持ち合わせていない。従って、原則は無言であり、最小限の事務的な会話をなし得るのみである。もっとも、これは沈黙を他者の解釈に委ねている責任逃れであり、論理の限界としての絶句ではない。

 法廷から廊下に出ると、依頼者の会社の上司が歩み寄ってきた。そして、この判決はおかしいと言う。彼がネットで調べたり法律に詳しい人に聞いたところ、この種の事故では禁錮は1年が相場であり、2年は長すぎるという。「あなたがしっかり弁護してくれなかったとは言いませんけど、他の弁護士に頼んでいたら結果はどうだったんでしょうか?」などと、いかにも嫌味な口調で答えにくい問いを向けてくる。

 法律に関する玉石混交のネットの情報や、適当に法律に詳しい者の見解ほどいい加減なものはない。私は、「ほとほと呆れた」という表情をあえて作り、この判決は量刑相場に沿った至極妥当なものであると説明する。現実の職務を遂行するうえで、刑事弁護人に最も必要とされてくる資質は、押しの強さや面の皮の厚さである。これは、法廷の中でも外でも、依頼者側と相手方のいずれに接するうえでも同様である。

 実際のところ、私の心中は激しく揺らいでいた。苦労がどうにも報われない徒労感、思わぬクレームに対する狼狽、敵対的な態度を取られたことへの単純な憤慨などが一度に押し寄せた感じである。ここで、私の中で「呆れ」の感情が優勢になったのは、もちろん人の生命があまりに軽く扱われていたからだ。しかしながら、私が技巧的に表情を作って演技をしたのは、単に保身の念からくる悪賢さの表れにすぎない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その80

2013-11-17 22:39:31 | 国家・政治・刑罰

 特大の雷に立ちすくんだ瞬間の目の前の風景を、私は今でも画像として覚えている。このような形で記憶があるということは、それが言語によって解釈できずに置かれていることの表れである。無理に比喩的に言えば、私は雷の強さよりも方向性に打ちのめされた。所長の言葉を予想できなかった自分の愚かさを悔やんでいだ。

 所長の言葉は、プロとしてどこも間違っていない。請求書を後日郵送したのでは遅すぎる。依頼者は一晩寝たら、「誰が弁護人でも結果は同じだったのではないか」「国選弁護人でも何も変わらなかったのではないか」と思い始めてしまう。そして、成功報酬の金額が果たして労力に見合っているのかとの疑念を生じさせてしまう。

 社会人となって間がない当時の私にとって、このようなプロの厳しさは、私が予想する厳しさとは違っていた。大学院で刑事政策学や被害者学に取り組み、それを実務に生かしたいとの志は、早々にその存在意義を失った。そして、私には反発する心も起きなかった。私の過去を否定したのは所長でなく、自分である。

 社会の汚い部分を断罪することは、外からの批評家の視点を持てば簡単にできることである。しかし、多数の顧問先を抱えて成功している所長を前にすると、私は世間知らずの我が身の無力さを思い知らされるしかない。社会人の責務とは、顧客の求めに応じることであり、それはプロセスではなく結果によって判定される。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その79

2013-11-15 22:03:54 | 国家・政治・刑罰

 判決は相場通りであった。禁錮2年の求刑に対し、禁錮2年執行猶予3年である。判決言渡しの緊張の一瞬、裁判というものはルールに従った勝敗のゲームであることを思い知らされる。宣告直前の裁判官の脳内に結論があるならば、既にこの社会内に客観的に結果は存在している。ある人間が別の人間の一言一句に全神経を集中させるべきことは、個々の法律の条文よりも遥かに強力な約束事だと思う。

 執行猶予だと言われた瞬間、依頼者は直立不動の姿勢で何を思ったのか。許された。背負ってしまった。これが罰なのか。償いなのか。保険会社の交渉はどうなるのか。もう忘れたい過去だ。覚えている人には忘れてほしい。知らない人にはずっと知られたくない。事故の場所は通りたくない。忘れられない。忘れるわけがない。これが宿命なのか。検察は控訴するのか。楽になりたい。事故の前に戻りたい……。

 国選弁護人であれば、執行猶予判決の直後から被告人と一度も顔を会わせないことが通例である。しかし、私選弁護人の責務はより重い。人の生命を奪い、法治国家の手続きに従って裁かれ、しかるべき刑罰を受ける地位を依頼者が背負ったその日、弁護人としてはまずどのような言葉を語るべきか。私選弁護人として依頼者と被害者の人生を考え、執行猶予判決の直後になすべき最重要のことは何だろうか。

 私は、以前の事務所で初めて自動車運転過失致死罪の私選弁護の職務を任されたとき、このような問いをそれとなく所長(ボス弁)に向けた。私の質問が終わる前に、特大の雷が落ちた。判決直後の最重要の仕事は、請求書を渡すことに決まっている。そして、何よりも実刑を免れた安堵感が新鮮なうちに、「先生のお陰で執行猶予になりました。お礼はいくらでもします」と依頼者の口から言わせなければならない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その78

2013-11-14 22:21:29 | 国家・政治・刑罰

 人が見る世界は、自分を中心として周辺へと広がっている。司法制度改革によって、刑事弁護を取り巻く状況は大きく変わった。以前は、刑事事件は儲からない仕事だと言われていた。特に国選弁護は金にならない仕事の典型だというのが業界の共通認識であった。ところが、ここ数年で弁護士の数が大幅に増えた結果、国選弁護は若手弁護士の貴重な収入源となるに至っている。

 仕事の量が減って暇になったのであれば、その分1つ1つの事件を丁寧に掘り下げ、時間をかければいい。これが私の本心であるが、あまりにも精神年齢の幼い考えであることは自分が一番わかっている。売り上げの減少やローンの支払いよりも人様の犯罪のほうに真剣に悩むような者は、事務所の経営などできない。暇があるなら、新規顧客の開拓の戦略を練らなければならない。

 ベテラン弁護士は刑事弁護を負担と捉え、若手弁護士は刑事弁護を貴重な収入源と捉える。いずれにしても、根底には費用対効果の問題がある。世の中の実際のところは、その現場に立ってみないとわからない。なぜ刑事弁護の理念は、いつも犯罪被害者の存在を眼中から排除するのか。私の学生のような問いは、理念を利権と読み替えたとき、非常に稚拙なものであるとわかった。

 理論と実務は全く違う。刑事弁護が実務上このように捉えられている最大の要因は、弁護士と犯罪者の社会的地位の格差に弁護士が慣れすぎた結果だろうと思う。学歴・年収・名誉・将来性などの全ての点において、前者はエリートとされるのに対し、後者の序列は多くの場合その対極にある。「犯罪被害者の権利を認めると被告人の人権が危うくなる」といった純粋な話ではない。

(フィクションです。続きます。)