犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その86

2013-11-26 22:31:22 | 国家・政治・刑罰

 この刑事弁護に関する事務は全て終わった。いかなる組織においても、1つの仕事が無事に終わることは、それ自体が積極的な意義を有するものだと思う。特に法律事務所においては、依頼者に対して大きなミスを犯すこともなく、無事にゴールに到着することは、仕事の目的そのものである。この「事件を流して落とすこと」の価値は、お役所である検察庁や裁判所においてはさらに顕著であると思う。

 この依頼者が帰った後、私は別の離婚調停の件と自己破産の件について、また顧客との打ち合わせに入った。気持ちを一瞬にして切り替えるための最善の方法は、目の前にいる人物に敬意を払い、人生を賭けて法律事務所の門を叩いた方の話に集中し、丁寧に耳を傾けること以外ではあり得ないと思う。その一方で、私は親身になりすぎて精神的に潰れないよう、しっかり責任逃れの道も作っている。

 深夜の自宅への帰路にてふと思う。私はこれまで、道路脇に花束や缶ジュースが置かれている光景を何十回も目にしたはずだ。私は見ず知らずの人の死に深く心を痛めるほど繊細ではないが、通行の邪魔や周囲の自己満足だと断ずるほど鈍感でもない。ところが、その場所がどこだったのか、私は正確に思い出せないでいる。もし私が今その場所を通ったとしても、私はそれに気付くことができない。

 依頼者は、社会で定められた償いの手続きをひとまず終えた。他方、被害者の家族の長い時間は、恐らく始まったばかりである。依頼者は今後も私の名前を覚えているだろう。被害者の家族はどうだろうか。全く覚える気もないか、胸を掻きむしった人物として生涯覚えているか、両極端のいずれかだと思う。私のほうは、この件に関わった者の責務として、亡くなった方の名前を絶対に忘れてはならない。

(フィクションです。続きます。)

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