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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

千葉県柏市 連続通り魔事件 その2

2014-03-06 00:11:51 | 国家・政治・刑罰

(「その1」からの続きです。)

 私は、刑事裁判の職務を通じて社会に揉まれてきましたが、身柄や令状の職務過誤は人権問題に直結するものであり、「社会は甘くない」「社会は厳しい」という攻撃の形には精神をボロボロにされました。このような勤務環境で、私が目の前の凶悪犯人から「社会に不満があった」という言葉を聞かされたときに直観的に感じていたのは、紛れもない羨ましさでした。公務員にあるまじき心構えだと言われても、実際に過去の私が確かに有していた心情ですので、これは否定することができません。

 社会への不満があって社会に復讐しようとするなら、「もう社会から消えたい」「こんな社会に生きていたくない」という結論に至るのが筋だと思います。ところが、私が何十回と聞かされてきた論理は、社会の無理解と偏見を責めつつ、社会の風の冷たさを改める必要性とともに、ヌケヌケと社会復帰への希望が語られるというものでした。最初と最後では「社会」の意味が変わっており、しかも本人がそれに気付いておらず、私は論理の流れがあまりに安易に過ぎるという印象を持っていました。

 社会人として社会性を身につけ、社会に合わせて生きることの厳しさを痛いほど知っている者であれば、「社会への不満」なるものの動機を掘り下げる価値のないことは見抜いているものと思います。人が真に社会との対立関係に絶望している場合、人は他者への殺意など抱けないからです。単に、「自我の肥大」の表現を誤っているということです。そして、哲学的な罪と罰の問題においては、被疑者の動機の掘り下げよりも、被害者や家族の意思のほうが遥かに重要であると私は確信します。

 恐らく、亡くなった被害者も社会への不満を有しつつ、良い社会と良い人生を願っていたものと思います。社会への不満をどうして特定の個人が受け止めなければならなかったのか、権力も持たない一個人がなぜ社会であるとみなされたのか、取り返しのつかない不条理は掘っても掘っても深く、この過程の直視を抜きにして償いはあり得ないと思います。そして、この沈黙と絶句の深さに比べれば、存在しない社会を実体と勘違いした動機の言葉からは、掘っても何も出てこないと思います。

千葉県柏市 連続通り魔事件 その1

2014-03-05 23:32:19 | 国家・政治・刑罰

3月6日 毎日新聞ニュースより

 千葉県柏市の連続通り魔事件で、強盗殺人容疑で逮捕された自称無職、竹井聖寿容疑者(24)が県警柏署捜査本部の調べに対し、「バスジャックをして空港に乗り付け、ハイジャックした飛行機で東京スカイツリーに突っ込み、社会に復讐しようと考えた」と供述していることが分かった。捜査本部は、金銭目的だけでなく、社会への不満を募らせて事件に及んだ可能性があるとみて追及する。

 捜査本部によると、竹井容疑者は生計の手段について「親からの仕送りや生活保護」と説明。事件の動機について「金がほしかった」などと話す一方で「社会に復讐したかった」との趣旨の供述をたびたびしているという。事件は3日深夜、同じ市道の約50メートルの範囲で発生。約10分の間に竹井容疑者と同じマンションに住む会社員の池間博也さん(31)が刺殺され、通りかかった男性3人が刃物で脅されて負傷したり、財布や車を奪われたりした。


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 現代の閉塞感漂うストレス社会、格差社会、競争社会、無縁社会において、多くの社会問題は山積みのままです。恐らく、今の社会に何も不満がないという現代人は皆無に等しいと思います。私も、今の社会はあまりに病んでいると感じており、社会に対する不満は強いほうだと思います。また、社会保障制度や社会保険制度が政治課題として語られるとき、社会に不満を持つことは正義であり、「今の社会に対して不満がないわけがない」というステレオタイプの文脈の力は非常に強いと感じます。

 それだけに、凶悪犯罪の動機として「社会への不満」というステレオタイプの文法が言語化され、これに社会常識からのステレオタイプの評価が与えられれば、社会性を有している社会人は、凶悪犯人の論理にひれ伏してしまうことになります。私は、この固定観念に基づく文法に自然に乗せられてしまう瞬間を、非常に気持ち悪いと感じる者です。私は、刑事裁判の現場でこのような言葉を聞かされる職務に従事し、歯痒さで鬱屈し続けてきただけに、この動機の追及は無意味であると確信します。

 私は初めて社会に出たのは、裁判所という狭い社会であり、一種の村社会のような場所でしたが、私はここで社会の厳しさを知り、社会人の責任というものを身につけました。そして、何とか社会に適応しつつ、社会人をやってきました。「社会」という言葉は抽象名詞であり、目で見たり手で触れたりすることはできず、一種の幻想であることは常識でわかります。しかしながら、言語は現に抽象概念を実体化させるものであり、私は確かに社会生活を営み、実社会の中で社会勉強をしてきました。

 この「社会」という厄介な抽象名詞は、人間に対して「社会を変える」という妄想を有することを可能にもすれば、「社会の壁」「社会の厳しさ」という圧倒的な力によって人間の精神を病ませることも可能です。そして、この概念は、現に多くの人間を自死に追い込んでいるものと思います。「こんなことは社会で通用しない」という独特の言い回しは、個人と社会の同一性と対立関係をめぐる複雑な思考の混乱を引き起こすものであり、この精神の疲弊は容易に自死の絶望に直結するからです。

(続きます。)

名古屋・暴走無差別殺人未遂事件

2014-03-01 22:22:09 | 国家・政治・刑罰

2月24日 朝日新聞デジタルニュースより

 2月23日午後2時15分ごろ、名古屋市中村区名駅1丁目のJR名古屋駅近くの歩道に乗用車が突っ込み、通行人を次々とはねた。同市中川区の男性(22)が腰の骨が折れる重傷、ほかに12人が足などにけがをした。車を運転していた男は「わざと人をはねた。殺すつもりだった。誰でもよかった」と供述しているといい、愛知県警は、男を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。

 逮捕されたのは、同市西区栄生3丁目、無職大野木亮太容疑者(30)。県警によると、大野木容疑者は交差点を左折する際、そのまま歩道に乗り上げ、通行人をはねながら35メートルほど進み、歩道の街路樹に衝突して止まったという。目撃者の話では、時速30~40キロで走っていたという。はねられたのは10~40代の男性7人、女性6人だった。


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 人間が狂気の側から襲われた瞬間には、獣のような絶叫とともに目の前の物を手当たり次第投げつけたり、床に頭や全身を打ちつけてのた打ち回るなど、前後左右が不覚になる切迫感と悲壮感を伴うはずだと思います。ところが、この容疑者の行動を見ると、計画的にレンタカーを借りて、ハンドルやアクセルの機能を正しく認識して当初の目的を遂行しており、私はここから本物の狂気を感じ取ることができません。単に、冷静な自暴自棄であるとの感を持ちます。

 報道で伝えられる客観的な事実は、実際にその場で起きた出来事のごく一部にすぎませんし、ましてや容疑者の供述は容疑者の心の中ではありません。「動機を知りたい」という評論家目線の分析は、否応なしに論者の政治的な主義主張に結び付けられるのみだと思います。他方で、犯罪者目線からの分析は、本人しか絶対にわからない一線のスイッチを語ることになるため、やはり他人には理解不能です。ここを他人が深く追究したところで、何も出て来ないと思います。

 当の加害者にとっては内側の大宇宙の問題であっても、これは文学の言語でのみ語り得るものであり、社会制度である法律や裁判の場の言語としては不適格です。そして、加害者と被害者が存在して初めて成立する犯罪において、罪と罰の本質を正しく表すのは、被害者の言葉以外にあり得ません。現在の裁判では、被告人が主張や陳述をする機会は被害者の十数倍は与えられていますが、私は現場の経験者として、この時間は逆でなければならないと思っています。

 「たかがこの程度のことで大事件を起こしたのか」という印象の生起についても、現在の裁判システムによる効果は大きいと感じます。精神鑑定により責任能力を問題にすることは、検察と闘って刑の減免を勝ち取ることであり、戦略的なしたたかさや腹黒さの要素が混入することになります。これは内省的な姿勢とは対極的な位置にあり、ひとたびこの構造に入ってしまうと、二度と元には戻りません。従って、迫真性を欠く言葉ばかりが残ってしまうのだと思います。

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(4)

2014-01-12 22:52:50 | 国家・政治・刑罰

 容疑者は、「被害者に謝罪するために逃げた」と弁解したとのことである。この件がテレビや新聞のトップニュースになり、被害者が強姦された事実が日本中に知らされ、しかもネットの検索で半永久的に残る事態を生じさせ、二次的被害どころか百次的・千次的被害まで生じさせた事実が理解できないのであれば、やはりこれほど人を馬鹿にした話はない。いいように振り回されてばかりである。

 この容疑者は、公判の場に至れば、「人間であれば必ず過ちを犯す」「人は失敗しても何度でもやり直せる」という論理に頼ることが許される。他方で、捜査員が逃走を許した過ちは永久に許されないままだ。また、容疑者が逃走劇の主役としてスポットを浴びれば浴びるほど、その存在を踏みつけられた被害者が忘れ去られる。この非対称性に慣れてしまえば、善悪の判断は容疑者の手に落ちる。

 もし私が、極寒の空の下で徹夜の捜索に駆り出されたのであれば、心の底で次のように思っていたに違いない。「……仕事は山積みだ。容疑者は俺を殺す気か。余計な仕事を増やしやがって。俺が過労死しないかどうかは、容疑者の意志次第なのか。情けない。命を削っている自分が惨めすぎる。……被害者には感謝してもらわないと報われない。私はあなたのために働いて身体を壊しているのだ」。

 姿の見えない容疑者を主役として追い回し、他方で警察官の失態を最大の問題と位置付け、それによって最大の犠牲者が見落とされることになる。しかし、そのような現状に不満を述べてみても仕方がない。現に私は、司法の現場で善悪を法律に委ね、自分自身で善悪を考えず、被害者を内心で踏みつけているしかなかったのである。自分のできる範囲で、罪滅ぼしの偽善を続けるしかない。

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(3)

2014-01-11 22:13:38 | 国家・政治・刑罰

 犯人の視線からの逃走劇は、エンターテインメントの定番である。ドラマの主人公は逃亡のスリルを楽しみ、いつも生き生きとしている。気の緩みを全国から責められ、なおかつ自分自身の気の緩みを責めている公務員にとって、その姿は眩しすぎる。組織内の責任の押し付け合いにおいて、純粋な自責の念は際限ない負の感情を生じ、もう何もかも投げ出したくなる気分を生むものだ。

 身柄を確保された容疑者は、「疲れました」と語ったとのことである。この疲れは極めて単線的であり、恐らく一晩寝れば消える。そもそも、容疑者は自分が逃走しなければ全く疲れなかったのだ。これに対し、その周辺で大真面目に原因が分析され、再発防止策と責任の所在が論じられ、儀式で訓示が垂れられる現場の無数の疲弊は、比較にならないほど人間の精神を複雑に打ちのめす。

 このような状況において、場を支配する力は逃走者に握られている。警察の威信にかけて逃走者を追うとき、そのシステムは自己目的化している。すなわち、不条理な強姦被害に対する償いや、良心の呵責などの倫理の問題は完全に消失し、逃走者が作り上げた力関係の前に屈伏させられるのみである。最後には、「国民の皆様に不安を与えたこと」への儀礼的なお詫びだけが残る。

 容疑者が述べる「疲れました」と同じ言葉を捜査側の者が口に出せば、これは社会人失格であり、仕事の厳しさを知らないということになる。過労で病弊して精神を病もうが、この程度の容疑者に自分の人生観が右往左往されようが、そんな弱音は許されないということだ。このどん底から、公共の利益のための労働意欲を掻き立てるには、かなりの虚無感に打ち克つことを必要とする。

(続きます。)

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(2)

2014-01-09 22:29:31 | 国家・政治・刑罰

 「逃走することの悪」と、「逃走されることの悪」とでは、どちらがより問題なのか。法治国家の社会常識は、「逃走されること」のほうを問題視する。両者は悪の次元が異なり、哲学的な罪と罰そのものの問題は掴みどころがない。これに対し、制度やシステムの不備は一見してわかる。人は叩きやすいところを叩き、これが世論の主流となって固定してゆく。

 大捕物はテレビの視聴者の娯楽である。出過ぎた杭は打たれない。視聴者が容疑者を見る目は、芸能人やスポーツ選手に対するそれに等しい。容疑者は逃げたいに決まっているのだから、「逃走すること」は悪くないことになる。社会は、現に起きた逃走劇を認める。これに対し、「逃走されること」は絶対にあってはならず、許されない過ちだということになる。

 実務の現場において、この世論の空気に囲まれつつ目の前の業務に向き合うことは、強姦被害者の踏みつけに加担しているようで心が非常に辛い。全ては、欲望のままに好き勝手に行動した容疑者の軽率さから始まったことである。容疑者は、世間様をお騒がせしたことも含めて、人間として今回の出来事の全てを背負い込むのが筋である。心の奥底からそう思う。

 ところが、この社会ではそのような論理は甘えであり、「逃走されることの悪」からの責任転嫁となる。当の本人を差し置いて、何よりもまず公務員である我々が反省しなければならない。そうしなければ、この社会では通らないのだ。やはり心の奥底では虚しい。仕事への誇りで心を支えるにも限界がある。見えない手錠や腰縄でがんじがらめにされているようだ。

(続きます。)

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(1)

2014-01-08 22:26:16 | 国家・政治・刑罰

 かつて刑事司法の場にいた者として、今回の件に携わっていた検察関係者や警察関係の気持ちを勝手に想像し、適当なことを書きます。


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 マスコミは今回の出来事を警察の失態と捉え、世論もこれを前提として非難の矛先を定めるが、どうも釈然としない。モヤモヤする。県警のお偉方も、反省と再発防止の姿勢をアピールしているが、心底本気だろうか。もしそうであれば、公務員倫理というものは、本物の人間の倫理ではない。考え抜かれた人間の倫理は、このような安易な善悪の構図に瞬間的な違和感を発するからだ。

 今回の件で最大の失態を犯したのは、逃走した容疑者に決まっている。容疑者は知人と共謀して、面識のない通行中の女性会社員を車に連れ込んで監禁し、強姦した上で現金を奪ったとして逮捕されたものである。そして、自分がどれだけ極悪非道なことをしたのか、その意味をこれっぽっちも理解していない。反省など全くしていないと宣言したのが、この逃走という行為である。

 今回の出来事が、過去に強姦被害で深い傷を負った女性に及ぼす影響は計り知れない。人間は、他の人格を自らの欲望の手段として使い捨てにし、ここまで鈍感になれるものなのか。逃走劇のドタバタにスポットが当たれば、最初の監禁・強姦・強盗被害の絶望が消えてしまう。血を吐くような手記にしたためられた思いを踏みつけて、一体どれだけ人を馬鹿にすれば気が済むのだろう。

 再発防止の要請なるものは、容疑者が逃げないことによって実現する。すなわち、自らの行為を反省し、相応の罰を受けるべきこと理解すれば、逃走という結論には至らない。あまりに当たり前のことであり、実際には望めない道徳のようであるが、これが本筋である。このスタートを見失えば、善悪の基本が崩れてしまう。究極の性悪説は、いかなる刑罰をも無意味とする道理である。

(続きます。)

特定秘密保護法

2013-12-08 22:58:40 | 国家・政治・刑罰

 この1週間は、特定秘密保護法案の審議と採決に振り回されて、私の勤務する法律事務所は大忙しでした。「戦前の暗い時代に戻してはならない」の有無を言わせぬ空気の前では、私個人の考えを表面する権利もなく、私はひたすら職務命令に従い、国会議事堂周辺でのデモの待ち合わせ場所の連絡などの雑用に奔走し、目の回る忙しさでヘトヘトになった1週間でした。

 喧騒のさなか、ある依頼者から苦情の電話がありました。担当弁護士が連日の集会のために事務処理が後回しになり、約束の書類作成の期限が過ぎてしまった件です。私は、適当に「急用ができまして」と誤魔化そうとしましたが、全ては見通されていました。事務所のホームページのトップが、法案採決反対への協力を求める激しい口調のものに変わっていたからです。

 「私の相談の件なんて、法案に比べれば下らないと思ってるんでしょう?」との依頼者の怒りの言葉は、私の心にずしりと堪えました。私は立場上ひたすら謝り、「担当弁護士に伝えて早急に進めます」としか回答できませんでしたが、その後デモから不機嫌で戻ってきた担当弁護士から「こんな件は後に決まってるだろう」と激怒され、私は二種類の怒りに挟まれました。

 国会前で怒号の飛び交う様子がテレビで中継される真っ只中、同じように催促を求める別の依頼者からのクレームの電話がありました。この依頼者もホームページを見ており、「首を長くして待っている私の気持ちがわかりますか?」「私の人生にとって法案なんかどうでもいいんです」「私は人生を賭けてお宅の事務所にお願いしたんですよ」という重い言葉を投げつけられました。

 2人の依頼者からの言葉は図星でした。しかし、2人の依頼者は私を名指しで糾弾していましたので、私の内心は同情心や罪悪感よりも、反発心や敵意のほうが優勢でした。私にとって、この1週間の大騒ぎによる疲弊は、何よりも軍国主義を思い知らされるものでした。それは、絶対的正義による価値序列であり、目線の高さであり、個々人の人生の軽視でした。

ある日の刑事弁護人の日記 その89

2013-11-30 22:22:59 | 国家・政治・刑罰

 自動車運転過失致死罪を構成する要素は「死」である。ところが、客観的事実を証拠で認定する法律の言語では、死を語るのに逆説が使えない。ここでの問題は、あくまで刑法第211条第2項本文の「よって人を死傷させた」の文言の解釈である。この解釈如何によって実際に有罪・無罪が変わり、人の運命が左右されるというのが、法律家が自己の職務の重さを自負する所以である。すなわち、法律家は言葉への重責の負担を誇る。

 私は法律家の1人であるが、法律家が言葉に対して重責を担っているとは全く思わない。逆説も使わずに「死」を語ることなど不可能だからである。そして、厳粛な法廷で行われていることは、被告人の前に見ず知らずの裁判官が出てきて、善悪を決めてくれるということである。人定質問、黙秘権の告知、論告求刑といった仰々しい用語は、その手続きの権威付けに一役買っている。ここで、人は善悪の判断を法律と裁判に委ねてしまう。

 「君の論文は被害者側に偏りすぎている。公平な視点に立たなければならない」。大学院の教授からの酷評がふと頭に浮かぶ。「犯罪被害者救済の分野で画期的な論文を書いて一旗揚げたい」。大学院の同級生の野心に満ちた言葉も思い出される。なぜ自分が自分であると簡単に認められるのだろう。学問の権威は、なぜ破壊的な実体験のある者の姿に畏怖せず、逆に上から目線で論評するのだろう。狂気の宿らない学問などクズに等しい。

 犯罪による死の論理を取り巻く現実は狂気だ。その論理を扱う立場にある刑事弁護人が「客観的で理性的な法廷」を本気で信じてしまえば、そこに生じるのは法の壁であり、そこで行われるものは責任能力と精神鑑定を含む茶番劇のみであろうと思う。全ての価値観が崩壊した狂気は、やはり狂気によってしか受け止められない。私は今日も、語り得ぬ沈黙の前に言葉を失い、正気の側に軸足を置きながら、社会の片隅で日々の雑事に励んでいる。

(フィクションです。これで終わりです。)

ある日の刑事弁護人の日記 その88

2013-11-29 22:28:30 | 国家・政治・刑罰

 何事によらず、記録を残すのは大事なことだ。事実が残せないとなれば、その記録は全て言葉によることになる。しかし、正確な議事録の類ほど面白くないものはない。その言葉が発せられたときの発言者の心の内、聞き手の心の内が何も書かれていないからである。物事の「本当のところ」は、その場に立たされてみないとわからない。そしてそれは、第三者による正確な議事録では記すことができない。

 現代社会の言説の混迷の状況において、「事実」「真実」を取り扱うことは非常に難しい。情報公開が声高に叫ばれたかと思えば、情報漏洩が厳しく責められる。個人情報保護の要請が喧伝される傍ら、情報の隠蔽や改竄は道徳的に非難される。プライバシーに名誉権、そして表現の自由を巡る抽象的な議論は、目の前の問題について行けない。所詮は知識でなく情報、倫理でなく道徳を主題とした話である。

 プライバシーや個人情報に敏感となった社会からは、物事の「本当のところ」を語ろうとする言葉が公の場に出てくることは難しい。刑事弁護人の裁判の話でその存在が許容されるのは、現場を知らないコメディの作り話か、画期的な判決を獲得した者の回顧録や武勇伝に限られてくるものと思う。そうでなければ、現場を知りすぎた者の暴露や告発であるが、個人情報を侵してしまえば面倒なことになる。

 私のこの日記には、正確には自分以外の人間のことは1人も書かれていない。全ては自分の頭の中にある他者のことである。本人が言うのだから間違いない。この日記は徹頭徹尾フィクションであり、嘘っぱちである。内省的な日記はただの自己満足であり、社会は1ミリも動かず、行動や実践のほうが重要だとの声も耳に入る。しかし、実在しない概念である社会をどう動かすというのか、私には理解が及ばない。

(フィクションです。続きます。)