宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『公共哲学:政治における道徳を考える』第1部、マイケル・サンデル(1953生)、2005年、ちくま学芸文庫

2011-12-24 12:15:34 | Weblog
   はじめに
 2004年のブッシュ再選では、ブッシュ側の道徳的価値の問題の提示が、勝利をもたらした。道徳や精神性を求める国民!
 民主党では、かつて誠実さと道徳を政府に取り戻すと訴えたジミー・カーターが当選。ビル・クリントンは政治における宗教・精神性・魂の問題の重要性を認識しており当選した。
 第1部のテーマ:「共通善は何か?」など、道徳の問題がアメリカの政治を動かしてきた。
 第2部のテーマ:個人の「権利」と「選択の自由」の主張だけでなく、「善き生」の問題が政治で取り上げられねばならない。
 第3部のテーマ:道徳的宗教的議論と不寛容・抑圧の問題。

   第1部 アメリカの市民生活
第1章 アメリカにおける公共哲学の探究(1996年)
 ※公共哲学とは我々の平和的共同性・公共性・連帯性の根拠を示す哲学
 A 「リベラルの自由」VS「共和主義の自由」
  1 「リベラルの自由」
 自由とは目的を自ら選択出来ること。政治の道徳への介入は間違っている。これが今日の支配的な公共哲学。「中立」と「自由な選択」の哲学。現在のアメリカは「リベラルの自由」が公共哲学として勝利した時代である。
  1-2 「中立」へのあこがれ
 リベラル派は、学校での祈り、妊娠中絶の制限、公の場へのキリスト教原理主義の持ち込みは、「中立」でないと言う。
 保守派は、市場経済こそ「中立」で、労働者保護、環境保護、配分的正義という道徳的拘束は「中立」でないと言う。

  2 リベラル派の「手続き的共和国」VS「共和主義の自由」
 リベラル派は「手続き的共和国」を主張。美徳を育むことより、自らの価値観を選べることを重視する。
 共和主義は、「自己統治の能力を可能とする特性」(=「美徳」)の形成が自由のためには必要と主張する。連帯感、市民参加の感覚の「形成」(※=教化)が自由のために必要。

  3 「共和主義」的な「市民性の政治経済学」
 ジェファーソン(1787年)は大規模な製造業に反対。農村こそ自己統治(※=民主主義)に必要な品格を育む。無産階級の依存は、従属・金銭的無節操を産み、共和主義の美徳、自己統治の美徳を破壊する。
 政治は自己統治に必要な品格を育むべきとの「共和主義」的な「市民性の政治経済学」が、アメリカ政治の伝統である。

  4 大きさの呪い:巨大企業と巨大都市
 20世紀への変わり目から20世紀初頭の時代は、自己統治(※=民主主義)が脅威にさらされる。一方で、巨大企業への権力の集中。他方で、巨大都市の「無秩序・移民・貧困」による伝統的コミュニティの破壊。
 鉄道、電話、電報、新聞は大規模な相互依存システムを作ったが、一体感が生まれたわけではない。

  4-2 「革新主義」(1):巨大企業の解体=「分散化」の立場
 自己統治(※=民主主義)の破壊を守るため「革新主義」が生まれる。
 一方で、巨大企業を解体し競争を復活させ、民主的コントロールに服させる:ルイス・D・ブランダイス。自己統治を支える市民の形成のため。

  4-3 「革新主義」(2):「ニュー・ナショナリズム」(セオドア・ローズヴェルト)=「全国化」の立場
 連邦政府の強化によって大企業を規制する。全国レベルの新たな国民意識の形成(※=教化)が必要。これが「ニュー・ナショナリズム」である。国民としてのさらなる一体感を呼び覚ます「形成的・啓蒙的な政治変革」が必要:ハーバート・クローリー。

  4-4 「共和主義の自由」・「市民性の政治経済学」の伝統:「革新主義」の2潮流
 「革新主義」の2潮流、(1)分散化の立場と(2)全国化の立場は、双方とも「市民」について心配する点では同一だった。ジェファーソン以来の伝統。「共和主義の自由」あるいは「市民性の政治経済学」の伝統に立つ。これらは「リベラルの自由」あるいは「手続き的共和国」の考え方と対立する。

  5 ニューディールにおける革新主義的立場:ニューディール(A)構造改革派
 「革新主義」の2潮流、(1)分散化の立場:反トラスト派と(2)全国化の立場:(全国規模の)経済計画派。これらはともに産業資本主義の構造を変えて大工業を変えようと考えた。
 これらは構造改革派(産業資本主義をどう改革するかを問題にする)であるがニューディールの主流とならなかった。

  5-2 ニューディールの主流:ニューディール(B)ケインズ主義派
 政府支出による景気回復。何よりも第2次世界大戦の政府支出による景気回復。
 「市民性の政治経済学」(ジェファーソン、革新主義(1)分散化・(2)全国化)から、「成長と配分的正義の政治経済学」へ。
 これは自由に関して、「共和主義の自由」(「自己統治の能力を可能とする特性」=「美徳」の「形成」(※=教化)を目指す)から「リベラルの自由」(「手続き的共和国」の主張)への移行に対応する。

  6 ケインズ主義とリベラリズム:「市民的な自由」(=「共和主義の自由」)の消滅
 「成長と配分的正義の政治経済学」=ケインズ経済学の出現は、アメリカ政治において「共和主義」的要素の消滅、「現代的リベラリズム」の登場を意味する。
 ケインズ経済学は、善き社会を巡る(1)巨大企業を解体する立場(ブランダイス)=分散化と、(2)連邦政府の強化の立場(ローズヴェルトの「ニュー・ナショナリズム」)=全国化の対立を休戦させた。
 ケインズ経済学は、政府が国民の徳性に口を出すことを否定。
 国家政治の中立的な道具としての「新しい経済学」(ケインズ経済学)の信念を、明確に表明したのがケネディ大統領(1962年)。
 政治理論は「共和主義」的「形成」(※=教化)の概念を失った。

  6-2 ジョンソンの社会保障制度(=「偉大な社会」):「リベラルの自由」の保障
 「リベラルの自由」の立場からジョンソン大統領は社会保障制度を弁護した(=「偉大な社会」)。それは、コミュニティの義務でなく、人々に自らの目的を選ぶ力を与えるため。

  7 「リベラルの自由」が前提する「自由に選ぶ自己」が崩壊する:1960年代末
 アメリカの自信の喪失。1968年:ヴェトナム戦争、スラムの暴動、大学紛争、キング牧師暗殺、ロバート・ケネディ暗殺。
 政府への幻滅。リベラル派の「手続き的共和国」への不満。
 自らの価値観を選べることを重視する「リベラルの自由」が、前提となる「自己」への確信を失う。
 美徳を育むこと(「市民的な自由」=「共和主義の自由」)が再び、重視される。

  8 レーガン大統領:(1)市民的保守主義でない、(2)市場的保守主義者である
 レーガン大統領は共同体的価値観の重要性((1)市民的保守主義の立場)を訴えて支持を広げた。
 アメリカの保守主義はリバタリアン(自由至上主義、自由放任主義)(※=市場至上主義)的要素((1)市民的保守主義)と、市民的要素(「自己統治の能力」=「美徳」の形成をめざす)((2)市場的保守主義)とを持つ。(40頁)
 レーガンはしかし実は、(1)市民的保守主義でなく、(2)市場的保守主義者である。信仰や愛国心といった共同体的価値観は選挙のレトリックに過ぎない。
 レーガンは、小さな政府について語るが、巨大企業の解体について語らない。資本逃避の侵食作用、大規模経済による コミュニティの無力化についてレーガンは語らない。レーガンは(1)市民的保守主義でない。
  
  8-2リベラル派の失敗:中間的コミュニティにおける自己統治の重要性に注目できず
 個人と国家の中間にある中間的コミュニティ(家族、地域、都市や町、学校、信徒団)の衰退が、当時の不安の源泉。
 民主党はこれに気づかなかった。自己統治、コミュニティについて、あるいは「共和主義の自由」(⇔「リベラルの自由」)についての議論をしなかった。
 連帯感、市民参加の感覚の「形成」(※=教化)、「自己統治の能力」(=「美徳」)の形成、あるいは「共和主義の自由」の重要性に、民主党は気づかない。
 リベラル派(民主党)は、中間的コミュニティの偏見、不寛容、多数派の横暴を、連邦の力を利用して排除すること、つまり地域社会が守らなかった個人の権利を守ることに集中していた。

  9 共和政治(あるいは「共和主義の自由」)のリスク①:非現実的である
 現代世界の大きさと複雑さのもとでは、自由の市民的要素は非現実的。自給自足が可能な狭い地域での自己統治という「共和主義の自由」の非現実性。
 実際、アメリカ政治の共和主義的要素はいつもノスタルジックだった。
 Ex1. ジェファーソンの自作農。(アメリカはすでに工業国となろうとしていた。)
 Ex2. ジャクソンの熟練工。
 Ex3. リンカーンの時代の自由労働者。
 Ex4. ブランダイスの小売店主・薬剤師。

  9-2 共和政治(あるいは「共和主義の自由」)のリスク②:人間形成の強制的側面
 ルソーが言う:民主共和国では、全体としての共和国(コミュニティ)に個人を依存させねばならない。つまり一般意思を受け入れさせねばならない。一般意思が浸透すれば市民は自分たちを一体と考える。他の市民に同調するだけの無としての市民の形成が最高の地点。ルソーは共通善が一つと考えた。
 トクヴィルの穏健な立場:主体性や判断力を養い、共通善についてきちんと議論できるような共和主義的人間形成を主張。トクヴィルはやかましい主張、意見の対立が民主主義の土台だとする。中間的コミュニティ(=公的機関)が、人々の意見の相違をまとめ、また公的な事柄に参加する習慣を市民に植え付ける。権力の分散と多様な場での市民形成。

  9-3 共和政治(あるいは「共和主義の自由」)のリスク③:リベラル派の反論
 政治共同体がそこに属する市民の品性を形成するとすれば、低劣な共同体が低劣な品性を形作る。(※=偏見、不寛容、多数派の横暴。)

  10 リベラル派:道徳的エネルギーを扱えないor道徳的空白
 自由を形成的プロジェクトから切り離すリベラル派。
 自由の主意主義的理論。理性(※=道徳的理性)でなく、意志を自由の根本とする立場。自由とは、人間が自ら目的を選べること。
 市民道徳の形成という課題をリベラル派は避ける。
 「手続き的共和国」の理論。
 他人への寛容と尊敬という形式的道徳のみが必要(Ex. カント)。自己選択権の尊重。
 リベラル派が脚を踏み入れるのを恐れる領域がある。
 ①自分が選んでいない家族、民族、文化、宗教、伝統への忠誠や連帯。
 ②善き生についての構想(Ex. 道徳、宗教)なしに、政治の領域の正義が語りうるのか?
 リベラル派は道徳的エネルギーを扱えないので、偏狭で不寛容な原理主義が跋扈する。
  
  10-2 「リベラルの自由」・「手続き的共和国」の理論の無力感
 多くの権利を獲得したのに、アメリカ人は自分たちの生活を律する力にどう立ち向かってよいかわからない。
 自分ひとりで世界と立ち向かう無力感。
 共通善が提示されていない。

  11 1980年代半ば以降:「自己統治」(=民主主義)に必要な品格・道徳・魂の問題
 保守派は今や、「自己統治」(=民主主義)に必要な品格について論じる。
 福祉について、保守派は、1980年代半ば以降、リバタリアニズム(自由至上主義、自由放任主義、市場至上主義)的に批判しなくなった。受益者の甘えと無責任を助長し、完全な市民となるための独立心を奪うと、保守派は、福祉を批判。
 クリントン(1993年)は、道徳・魂の領域に踏み込み、スラム街で仕事が必要なのは、人格を形成する効果、家族生活にもたらす規律、誇りのためであると述べた。

  12 グローバル経済の国際的政治制度による制御
 民主主義への不満の改善のため、グローバル経済を国際的政治制度で制御できるようにする必要がある。
 またその政治制度を支える道徳的権威が必要。
 Cf. アメリカの社会保障制度がうまくいかないのは、強力な全国的政府を支える国家的な連帯感の創出に失敗したため。アメリカは分権的である。
 
  12-2 国際機関への忠誠心:人類一般の連帯は不可能
 国際的政治制度は国家にとらわれない政治機関(国際機関)である。国際機関の権限強化が必要。
 グローバルな世界主義の市民感覚・連帯感はどうしたらはぐくまれるか?
 世界主義的コミュニティは不可能。世界市民は不可能。あるいは人類一般の連帯は不可能。
 主権の分散が必要。主権国家と並んで、主権を分かち合う多様なコミュニティを通してのみ、国際機関への忠誠は可能となる。国際機関に道徳的権威が付与される。
 国家の下位にあるコミュニティ(Ex. ケベック人のコミュニティ、クルド人のコミュニティ)、国境を越えた機構(Ex. EU、NAFTA)などを通して国際機関への忠誠心ははぐくまれる。
 広漠とした遠くの存在に忠誠を誓うことはない。

  13 国民国家:集団的アイデンティティを失いつつある
 国民国家は集団的アイデンティティを失いつつある。
 一方で、資本・財・情報の国境を越えた移動など経済のグローバル化。
 他方で、国家の下位の集団が、自律と自己統治にあこがれる。

  14 様々な忠誠心を引き受ける自己&主権を分かち合う多様なコミュニティ
 分割された主権に応じて様々な位置づけを持つ自己。重なり衝突する義務、様々な忠誠心を引き受ける自己。その緊張感に耐えて生きる能力が現代に特有の市民道徳。
 グローバルなメディアと市場に打ち勝つ市民的資源は、主権を分かち合う多様なコミュニティ(固有の場所、物語、記憶や意味、出来事、アイデンティティを持つ)にこそある。

  《評者の意見》
 自然法的倫理を探求すべきである。
 共通善を提示すべきである。
 公共哲学は「中立」・「自由な選択」・「リベラルの自由」・「手続き的共和国」にとどまってはならない。
 公共哲学は、道徳・共通善について論じなければならない。

第2章 個人主義を超えて:民主党とコミュニティ(1988年)
   1 レーガンの後:民主党が勝てなかった
 レーガンの後、1988年、共和党のブッシュ(父)が大統領選挙で当選した。民主党のマイケル・デュカキスは敗北。
   2 リベラル派:市民道徳の涵養の問題を扱わないと選挙に勝てない
 民主党は公共哲学についてレーガンから学ばなければならない。
 保守主義は、一方で自由放任主義と、他方でコミュニティ、伝統主義者、モラル・マジョリティ(保守派の政治的宗教団体)からなる。
 例えば、レーガンは、リバタリアン(自由至上主義)の経済学者M.フリードマンとキリスト教原理主義者のJ.ファルエルを同志にした。
 アメリカのリベラリズムは、保守思想が持つコミュニティ的要素を、学ばなければならない。現代のリベラリズムにはコミュニティ的要素がかけている。
 リベラル派は市民道徳の涵養の問題を扱わないと選挙に勝てない。
   3 民主党:中間的コミュニティとのかかわりを放棄
 民主党員は国家をコミュニティだと言う。しかし国家は遠すぎる。
 地域への愛着に注目すべきだ。自己統治とコミュニティへの憧れが生まれている。コミュニティが実際には崩壊しつつあるから。
 民主党は中間的コミュニティとのかかわりを放棄し、ロナルド・レーガンと宗教右派に敗北した。
   4 リベラル派:道徳や宗教の問題から逃げてはいけない
 家族、地域、コミュニティ、宗教が、そもそも初めから保守的というわけではない。
 中間的コミュニティを崩壊させたのは、経済力の集中、自由な資本の移動、大企業への力の集中である。保守主義のリバタリアン(自由放任主義)的要素はコミュニティの破壊を促進するだけ。
 公共心の涵養の問題、道徳や宗教の問題からリベラル派は逃げてはいけない。民主党は道徳と政治を革新する政党に立ち戻るべきだ。
 民主党の公共哲学。「中立」・「自由な選択」・「手続き的共和国」の哲学では人々の心をつかめない。

第3章 「手軽な」美徳の政治(1996年)
   1 「美徳の政治」、「人間形成」の政治で主導権を握る:ビル・クリントン
 ビル・クリントンは、1996年の大統領選挙で、F.D.ローズヴェルト以来、初の再選を勝ち取った民主党の大統領となった。
 リチャード・ニクソンが法と秩序を支持し、対抗文化に反対して大統領の座について以来、民主党は価値を巡って守勢に立たされた。
 ロナルド・レーガンはこの点を良く理解し、家族・地域・宗教・愛国心に訴え成功。ただし実際は、伝統やコミュニティを蝕む自由な資本主義を推進した。
 今や、ビル・クリントンが「美徳の政治」、「人間形成」の政治で主導権を握る。
   2 大人でなく、子供に道徳的規制を課す:「手軽な」美徳の政治
 「コミュニティを渇望する」が束縛を嫌い、「道徳的目的をほしがる」が犠牲を払う気がない国民に対し、「美徳の政治」、「人間形成」の政治を実現するため、クリントンは「手軽な」解決策を見出した。
 大人でなく、子供に道徳的規制を課す。Vチップ、青少年の夜間外出規制、学校での制服着用、ティーンエイジャーの妊娠・未成年の喫煙への反対運動など。
   3 民主党=リベラル派:「美徳の政治」の拒否で高い代償を払う
 政府が道徳を法制化したり、市民の徳性に口を出したりするのは誤りだ、政治は人間形成を行ってはならないと、リベラル派はこれまで主張してきた。
 (1)政治が道徳や宗教の問題に中立であるべきとの主張は、原理的・哲学的に正しいわけでない。政府がその時代の差し迫った道徳的問題に中立でいることが正しいわけではない。例えば、公民権諸法は道徳を法制化した。Ex. 食堂での人種分離の禁止。
 (2)現実面でも、民主党=リベラル派の「美徳の政治」の拒否は高い代償を払った。1968-1988の6度の大統領選挙で民主党は1勝5敗だった。

第4章 大きな構想(1996年)
   1 「大きな構想」が示されなかった:1996年の大統領選挙
 1996年の大統領選挙は、クリントン再選で終わるが、21世紀に向けての価値ある「大きな構想」が示されなかった。
   2 「大きな構想」の戦い(1912年):ウィルソンとセオドア・ローズヴェルト
 1912年の大統領選挙は、異なる「大きな構想」をめぐるウィルソンとセオドア・ローズヴェルト(進歩党)の戦いだった。
 時代は、鉄道・電話・電信網・日刊新聞、また巨大企業・全国市場が小さなコミュニティを越えて展開。人々は制御できない力を前に無力感にとらわれた。農民と小売り商人の国の分権的政治体制が機能不全に陥る。
 ウィルソンは大企業の解体・分散化を構想。これに対しセオドア・ローズヴェルトは連邦政府の強化とそれを支える「ニュー・ナショナリズム」(全国的な新たな国民意識)を構想した。
 選挙に勝ったのはウィルソンだったが、将来を勝ち取ったのはセオドア・ローズヴェルトの「大きな構想」だった。
 ニューディールから「偉大な社会」、さらにレーガンの時代まで、この全国化プロジェクトが政治論議を主導した。
   3 グローバルな市民の問題:グローバル経済のもとでの民主主義
 現代の人々の無力感は20世紀の初めにアメリカ国民が直面した無力感に似る。現代のサイバースペース、CNN、グローバル市場が、既存の民主主義制度の枠組みを超えた。
 グローバル経済の内部における民主主義が可能になるためには、NAFTA、GATT、国際司法裁判所など国境を越えた枠組みが、忠誠心を獲得しなければならない。
 学校、信徒団、職場と言った身近なコミュニティで育まれる市民道徳が、どうしたらグローバルなスケールの市民を育成できるだろうか?
 新たな「大きな構想」が提示されなければならない。

第5章 礼節をめぐる問題(1996年)
   1 礼節は本質的な問題ではない
 民主政治は本来、論争に満ちているから多少の暴言など、どうでもいい。礼節は本質的な問題ではない。
   2 市民道徳の枠組みが壊れている
 市民道徳の枠組みが壊れていることが、問題。
 よき市民は、①全体の利益とは何かを考える。(※各人の利益が様々だから。)
②他人への責任とは何かを考える。(※他人とともに生きねばならないから。)
③利害の対立にどう対処するかを考える。
④他人の意見を尊重しながら自分の意見を守るにはどうすればよいかを考える。
⑤自分本位の私事から離れ共通善について考える。
   3 コミュニティの道徳的枠組みの再建
 家族、地域、学校などコミュニティの道徳的枠組みを建て直さねばならない。
   4 市民道徳を壊す原因
 ①ラップや低俗な映画など大衆文化。
 ②自立心を失わせる大きな政府。:これらは保守派の主張。
 ③市場経済の腐食力。コミュニティの破壊。
 ④貧富の差の拡大と富裕層の特権的領域への閉じこもり。共通善が視界から消える。(※中間層が消える。)

第6章 大統領の弾劾:当時と現在(1998年)
   1 クリントンは弾劾されなかった
 1998年、下院はクリントン大統領の弾劾の訴追を決めたが、上院は無罪とした。
   2 1974年、ニクソンは辞任した:1998年のクリントンとの対比
 ①議員たちが今ほど党派的でなかった。1974年には、北部の共和党議員はニクソン弾劾に賛成した。
 ②大統領の不正の性質が違う。ニクソンは「統治システムに対する重大な罪」を犯した。ウォーターゲートビルへの侵入の隠蔽、政敵追い落としのため、ニクソンはFBI、CIA、IRS(国税庁)を利用した。クリントンのスキャンダルは私事的に嘆かわしいだけ。
 ③1974年には、まだ大統領職の威厳・オーラ・尊敬がありニクソンの不正への憤怒が大きかった。1998年のクリントンは、人気はあるが威厳・尊敬はなかった。

第7章 ロバート・F・ケネディの約束(1996年)
   1 黒人、マイノリティからの支持
 ロバート・F・ケネディは貧しい人々を支援した。黒人、マイノリティの圧倒的な支持。
   2 白人労働者階級からの支持
 しかしロバート・F・ケネディは気性、イデオロギーがリベラル派ではない。
 リベラル派は個人の自由な選択を至上とする。
 これに対しロバート・F・ケネディは保守的で、道徳的エネルギーと公共目的を重視。
 A.大きな政府は疎遠。権力が分散されねばならない。
 B.福祉は「内政の最大の失敗」と批判。自己責任が重要!
 C.経済成長が万能薬ではない。
 D.犯罪への厳しい態度。
 これらによってロバート・F・ケネディは白人労働者階級の支持も得た。
 彼は「対極に位置する二つの無力な人々に同時に語りかける」ことができた。
   3 「失業」と「犯罪」を市民的テーマに結びつける:ロバート・F・ケネディ
 自由とはコミュニティの自己統治を分かち合うこと。ロバート・F・ケネディはコミュニティ、市民性の再建を訴えた。
 国家や都市は大きすぎ、無力感が生じる。
 1960年代、民主党は失業を問題にし、共和党は犯罪を問題にした。
 これに対しロバート・F・ケネディは「失業」と「犯罪」を市民的テーマに結びつけた。
 犯罪は地域・コミュニティを破壊する。犯罪のため「ドアの後に隠れていては自由ではない。」「市民が通りを歩くのを怖がる国は健全でない。」
 失業は、収入がないだけでなく、市民としての共同生活を分かち合えないことである。
   4 福祉:受給者を依存と貧困の奴隷にする
 ロバート・F・ケネディは福祉に関し、リベラル主流派と異なる。
 彼は福祉が、受給者の市民的能力を損なう、同胞意識を破壊すると批判。個人の独立と個々の努力への尊敬が、市民性を支える。福祉は受給者を、依存と貧困の奴隷にする。
 ロバート・F・ケネディの理想主義、つまり市民性の再建をリベラル派は目指すべき。   
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