宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その5):《 (C)(AA)「理性」A「観察的理性」、B「行為」、C「社会」》!「理性」は「人倫」に安住し (BB)「精神」が誕生する!

2024-07-14 16:15:37 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その5)(217-219頁)
(50)A「観察的理性」は「対象」あるいは「存在」のうちにも、「理性」ないし「法則」のあることを発見した!
★《 (C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)A「観察的理性」、B「行為」、C「社会」》の段階についてまとめよう。(217頁)
★最初、「理性」は「あらゆる実在である」という「確信」をすでに持ってはいたが、この「確信」は、まだ「確信」たるにとどまって「客観的な真理性」を持つものではなかった。(217-218頁)
☆そこで「理性」はこの「確信」を確認するためにA「観察」を行う。(218頁)
☆これによって、「対象」あるいは「存在」のうちにも、「理性」ないし「法則」のあることを発見した。(218頁)

《参考1》ここでは(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階を扱う。この段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)
☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
☆当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、この「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである。(157頁)

《参考2》さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)

《参考3》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」、「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

《参考4》「法則」は「対立するものの統合」として本来的には「概念」だが、しかし「概念」自身ではなく、「観察的理性」の「対象的」把握によって「対象」化されたものだ。「対象」化されるから「概念」の諸「契機」は、生命を失い固定される。そこで「法則」においては、「固定された契機」の「綜合」、したがってそれら「固定された契機」の「数量的関係」のみが問題になる。(167-168頁)
☆「観察」とは、「記述」が「標識の指示」(本質的なもの)を通じて「法則」を得ることだが、①「記述」の段階では、たとえば、陽電気はガラス電気、陰電気は樹脂電気というようにイメージを描いて「表象」されるが、②「標識の指示」(本質的なもの)をへて、③「法則」が定立されるようになると、かかる「表象」から純化されて、「概念」的に思考せらるべき陰電気と陽電気となり、これらの相対立した「契機」の間に「法則」が立てられる。(168頁)
☆また「自由落下の法則」(落下距離=時間の2乗×重力加速度×1/2)では、「時間」と「空間」という相対立した「契機」の間に「法則」的関係が定立せられる。(168頁)
☆さてこのさい、「法則」がじつは「概念」であるところからすれば、「陽電気と陰電気」、「空間と時間」など「対立した契機」は相互に他に転換して帰一し、そうして「統一」がまた「対立」に分裂するという「無限性」の生ける精神的運動が行われるべきはずだ。(168頁)
☆だが「観察的理性」なるものは、「理性」が「対象意識」の形式をとったものであるために、それぞれの「項」がそれぞれ「独立のもの」として固定せられてしまい、したがって「内面的な質的な規定」がではなく、ただ「量的な規定」だけが問題になり、かくて「数量的関係」を提示することが「法則」定立の課題となる。(168頁)
☆ヘーゲルは、「近代科学」における「法則」が、諸契機の間の「数量的関係」を規定することをもって課題とするという事実を、以上のように解釈している。(168頁)

《参考5》この「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)

《参考6》「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)

(50)-2  B「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)!「理性」はただ「働き」においてのみ成立し、自分を「行為」的に実現しようとする!
★A「観察的理性」は、「対象」あるいは「存在」のうちにも、「理性」ないし「法則」のあることを発見した。しかし「理性」はこれと同時に、自分自身はただ「働き」においてのみ成立しうるものとして、「対象」や「存在」とはちがったものであることに気づき、自分を「行為」的に実現しようとする。(218頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』(C)(AA)「理性」の《B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」》は、a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」の順で論じられる。(201頁)
☆「心胸(ムネ)の法則」の境地は、「法則の必要を心胸(ムネ)では感じている」が、その「法則」は「客観的な世界」において「ちゃんと行われている」ような「客観的普遍的な法則」ではなく、その「法則」(「心胸ムネの法則」)は「自分一個の胸のうちにある」にとどまる。(200頁)
☆「心胸(ムネ)の法則」は「主観性・抽象性」に深く纏綿(テンメン)された(まとわりつかれた)法則だ。(200頁)
☆たとえば「革命家」は「自分で考えていたこと」(Ex. 「しかじかの法律・制度」)が、世の中に実現されてくると、こんどは「ちがう」と言い出し、いろんな「文句」をつけて「反抗」をはじめる。そこには「自負の狂気」(「うぬぼれの狂気」)がある。(200頁)
☆(「革命家」の)「自負の狂気」or「うぬぼれの狂気」とは、「自分の主観的な一個人の意見や意志」にすぎないものを「法則」だとし、「世間に行われ実現している法則」、その方がむしろ「客観的・普遍的」であるのに、そういう「法則」にけちをつけ罵倒し、果てはメチャクチャのことをやりだす。そこに「うぬぼれの狂気」がある。(200頁)

《参考2》どうしてb「心胸(ムネ)」からc「徳」に移るかというと、自分自身が「錯乱の狂気」(「自負の狂気」・「うぬぼれの狂気」)に陥っていることを自覚し始めると、その限り人間は「個別性」を剥奪され、もっと「普遍的」になる。「普遍的」になると人間はc「徳」を具えるようになる。(201頁)
☆しかしそのc「徳」はまだ、b「心胸(ムネ)」の立場から出てきたばかりのものなので「主観的」「個別的」であることをまぬがれない。(201頁)
☆b「心胸(ムネ)」の立場から出てきたばかりのc「徳」は、かくておのずから「世の中」(「世路」)と対立する。c「徳」の段階の人間は、自分は「清廉高潔な人間」、「誠心誠意をもって道徳を実践している人間」であると思い、「人生行路の世路」は「濁世であって私利私欲やインチキがはびこっている」というように「悲憤慷慨する気持ち」が残っている。すなわちc「徳」の段階の人間は「徳のナイト(騎士)」と名づけられ、「徳」を武器として「世路」に挑戦する。(201頁)

《参考3》「欲望の体系」としての「市民社会」が、「世路」(「世の中」)である! 
☆ところがよくよく考えてみると、「世人が私益を追求している」に違いないにしても、「自分の利益を獲得する」には必ず「他人にも利益を与え、他人の望みもかなえてやる」必要があるから、「世間」は「徳のナイト(騎士)」の嘆くように悪いものではない。(201-202頁)
☆「市民社会」の根本的な規定は「欲望の体系」ということだ。すなわち「市民社会」の人間はたしかに「欲望の満足」ばかり求めているにしても、そこでは「自分の欲望を満たす」ためには「他人の欲望を満たす」必要があり、いわゆる「分業交換の体系」においてしか「欲望を満足させる」ことができない。「世路」とは「市民社会」のこのような側面をさす。(202頁)

(50)-3 「行為」を通じて「理性」は「社会」生活を営むことができるようになる:C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階(ヘーゲル)=C「社会」の段階(金子武蔵氏)!
★そうして「行為」を通じて「理性」は、「個人としての直接態」を洗いおとして「社会」生活を営むことができるようになる。(218頁)

《参考》(C)(AA)「理性」におけるB「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」のc「徳と世路」において、「世路」(「市民社会」・「世の中」)と一体化した人間は①「個別的」(「徳」)でありながら「普遍的」(「世路」)であり、「普遍的」なものも「個別的」であることを、また②「個別的」なもの(「徳」)はむろん自分を否定して「普遍的」なもの(「世路」)に参与しなくてはならないが、「普遍的」なものも自分を否定して「個別的」なものに存在を許してくれることを、チャンと自覚している。かくてそうした人間は、もう「社会」のうちになんらの抵抗をも不安をも感ぜずに、気楽にその一員として生活し活動していくことができる。(205頁)
☆このことをC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階とヘーゲルは呼んだ。この段階を金子武蔵氏はC「社会」と言い換えた。(205頁)
☆要するに(C)(AA)「理性」C「社会」の段階とは、「『徳』を具え、しかもこれが『世路』(世の中)と背馳しないものであることが自覚せられて初めて、人間は社会生活をなすことが可能になる」ということだ。(206頁)

(50)-4 「理性」は「人倫」のうちに安住することができるようになり(BB)「精神」が誕生する!
★「理性」は、さらに「個人としての直接態」が一層「純化」されるに及んで「人倫」のうちに安住することができる。そこに「理性の確信」は「真理性」にまで高められて、本来の意味における「精神」すなわち、((C)(AA)「理性」)(BB)「精神」あるいはⅥ「精神」が誕生する。(218頁)

《参考1》ヘーゲルは「カント的な道徳観」を批判する。ヘーゲルは「習俗」Sitte(ただし「国法」を含む広い意味のもの)に深い意義を認める。ヘーゲルは、「習俗」(Sitte)は、幾多の世代にわたる幾多の人々が「理性」を働かせて、それぞれの場合の「義務」を「客観的普遍的」なやり方で規定し、またもろもろの「義務」を統一づけたものであるから、カントの場合の「道徳」よりもはるかに深い意義を蔵していると言う。(217頁)
☆ヘーゲルは「習俗」(Sitte)に深い意義を認め、そこから「人倫」(Sittlichkeit)の立場に移行する。かくて「人倫の国」という実体性が恢復される。(217頁)

Cf. ヘーゲルの「人倫」とは人間の社会関係における「客観的な『法』」と個人の「主観的な 『道徳』」とを(止揚的に)統一したものだ。「人倫」は「家族→市民社会→国家」と弁証法的に発展し、「国家」において「人倫」は完成し、「個人」は「自由」で「理性的」な自己を実現する。

《参考2》「『人倫の国』という実体性が恢復されること」について詳述するのが、以下の諸章の課題だ。(217頁)
☆すなわち(ヘーゲルの目次では)《 (C)「理性」(BB)「精神」(CC)「宗教」(DD)「絶対知」》or(金子武蔵氏の目次では)《(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」3「現代(あるいは絶対知)」》の諸章において、「『人倫の国』という実体性が恢復されること」についてヘーゲルが詳述する。(217頁)

(50)-5 「古代のポリス」において実現されていた「人倫の国」!
★歴史哲学的に言うと、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」という段階では、①その理論面において「ルネッサンス以後の科学的認識」――ただし有機体の認識に偏しているが――を、②実践面においては「ルネッサンスに始まる活動」をヘーゲルは論じてきたが、このような行論において到達されたものは、じつはすでに「古代のポリス」において実現されていた「人倫の国」なのだ。したがって行論は実際の歴史的経過とは逆になっている。(218頁)
★そもそもヘーゲル『精神現象学』の目的は「実体性を恢復し、実体を主体たらしめる」ことだ。(218頁)
☆(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」が「反省」によって、諸段階――とくにそのB「行為」とC「社会」――にまで分析されるにあたって、「表象」の立場においてひそかに前提されていたものは実は「古代のポリス」の「人倫の国」であった。(このことはB「行為」の始まる箇所において、ヘーゲルが感激をこめて、古代ギリシアのポリスを描いていることで明らかだ。)(218-219頁)

Cf.  ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

《参考1》歴史的に言えば、(C)(AA)「理性」A「観察」の段階が「ルネッサンスに始まる科学研究」を背景とするように、(C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)」の段階は、「中世クリスト教の禁欲主義から解放された当時の人間が地上的快楽に目覚めたこと」を材料としている。例えば、ボッカッチョ『デカメロン』(1348-1353執筆)は当時の人間が「愛欲」に身を委ねたことを示す。(196-197頁)

《参考2》とにかく(a)「人間の行為」を問題とするならば当然「生産」の問題、したがってまた「技術や道具や機械」の問題も取り上げてしかるべきだ。だがヘーゲルはとり上げていない。(190-191頁)
☆これについては(b)「観察的理性」の段階において、ヘーゲルが「ルネッサンス以後の近代的理性の理論的方面」を論じるにあたり、「数学的自然科学」の問題が取り扱われるはずにもかかわらず、ほとんど全く取り扱われていないことと平行する。これら((a)(b))は「ヘーゲルの制限」を示すものであり、(a)「生産・技術・道具・機械・分業など」の問題をとり上げていないというヘーゲルの欠陥に対して、その欠陥を補うため「マルクスその他の人々」がどうしても出てこざるをえなかったのだ。(191頁)

《参考3》《精神》の(イ)「実体性の段階」では、「絶対的・普遍的・全体的なもの」のうちに「個別的・相対的・有限的・分別的なもの」は埋もれていた。(64頁)
☆これに対してしだいに「個人」が自覚をえ、独立してくる。その自覚は「反省」あるいは「悟性」によってなされる。「彼岸」よりも「此岸」に人間の注意が向けられ、「此岸つまり現世」における労働とか幸福とかが人間生活の主要な問題となる。これが《精神》における(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」だ。それが「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代だ。(64頁)
☆ところが「相対的・有限的・時間的なもの」に人間が自分の注意と努力とを向けるという態度がまた、極限にまで行ってしまうと、もはや人間はそういう立場に倦怠を感じ、そうして再び「永遠的・絶対的なもの」を恢復したいと思うようになる。そこでヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。『精神現象学』(1807)を書いている時代が「精神史的に非常な変革期」にあるとヘーゲルが考えているゆえんは、ここにあると思われる。(金子武蔵)(64-65頁)

《参考4》「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)(62頁)
☆要するにヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。(62頁)

《参考5》ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!(65頁)

(50)-5-2 ヘーゲルにおける「クリスト教的な人生観・世界観」、および古代ギリシアの「人倫の国」!
★より押しつめて言えば、ヘーゲルにおいて「表象」的に前提されていたものは「クリスト教的な人生観・世界観」だったが、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」において、とくにそのB「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」において前提されていたものは、差しあたって古代ギリシアの「人倫の国」だった。(219頁)
☆だが今や「反省」の分析を通じることによって「人倫の国」は「実体」たるにとどまらず「主体」的に把握されることになる。(219頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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