※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1)(230-232頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)
《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)
《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(54)1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1):「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階である!そのⅠ「感覚」の段階はa「光としての宗教」(バビロニア・ペルシアの宗教)だ!(230-232頁)
★(CC)「宗教」A「自然宗教」は、(A)「対象意識」の段階にあたる。しかるに「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として意識する」ことだから、A「自然宗教」は「宗教」としては本来のものでない。しかし「宗教」たる以上、潜在的には、すでに「絶対実在の自己意識」ということを含んでおり、ヘーゲルはその点を展開するという態度でA 「自然宗教」を取り扱う。(230頁)
★(CC)「宗教」A「自然宗教」は、(A)「対象意識」の段階にあたるが、a「光としての宗教」(「感覚」の段階)(バビロニア・ペルシアの宗教)、b「動植物としての宗教」(「知覚」の段階)(インドの宗教)、c「工作者としての宗教」(「悟性」の段階)(エジプトの宗教)にさらに段階づけられる。(230頁)
★(A)「対象意識」Ⅰ「感覚」の段階のa「光としての宗教」はバビロニア・ペルシアの宗教だ。(230-231頁)
☆a「光としての宗教」はⅠ「感覚」の段階だが、「感覚」とは「Sein(存在)」をとらえるものであり、そして①「存在」とは「このもの」のことだ。②しかし「このもの」は「個別的」であると同時に「普遍的」でもある。☆そこで「『このもの』であると同時に『あらゆるもの』でもあるところの存在」、しかし((CC)「宗教」の立場として)すでに(BB)「精神」の立場を通過したのであるから、「『個別性』よりも、むしろ『普遍性』に重きを置いた、『精神』によってみたされたものとしての存在」、すなわち「光」(or「太陽」)を「絶対実在」としてあがめる。これがa「光の宗教」だ。(231頁)
☆「光」はすべてに瀰漫(ビマン)し、すべてを包み、すべてに光被して、それぞれをそれぞれたらしめる。「光」に対する「闇」は、「光のくもったもの」とされ、すべては「光」に解消される。(231頁)
★すべての宗教は、それぞれの「社会状態」すなわち「現実精神」に基づき、またそれを反映したものだが、a「光の宗教」の場合は、バビロニアやペルシアのように、(ア)人間がまだ自然に対して独立性を自覚していず、また(イ)社会的国家的にも個人として独立せず、(ウ)帝(ミカド)を絶対の主人として、隷従し奉仕するという「社会状態」にある。(231頁)
★ペルシャでは「アフラ・マヅダ」は「光」であると同時に「帝」であって王座につき、それに侍る7つの「光霊」は「星」であると同時に7人の「大臣」でもあることは、この「ペルシャの宗教」(※ゾロアスター教)の「社会状態」を示している。(231頁)
☆即ち「光」が「実在」であって、「その他のもの」はすべてこの「実体」(「光」)に「属性」として依存しているが、ちょうどそれと同じように、「帝王」に「他のもの」はすべて「奴」として依存している。(231-232頁)
★しかしそれでも「光」は「アフラ・マヅダ」または「オルムズド」として、「人格神」たる意味を持っているから、「絶対実在の自己意識」であるという「宗教」の意味は保たれている。(232頁)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1)(230-232頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)
《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)
《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(54)1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1):「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階である!そのⅠ「感覚」の段階はa「光としての宗教」(バビロニア・ペルシアの宗教)だ!(230-232頁)
★(CC)「宗教」A「自然宗教」は、(A)「対象意識」の段階にあたる。しかるに「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として意識する」ことだから、A「自然宗教」は「宗教」としては本来のものでない。しかし「宗教」たる以上、潜在的には、すでに「絶対実在の自己意識」ということを含んでおり、ヘーゲルはその点を展開するという態度でA 「自然宗教」を取り扱う。(230頁)
★(CC)「宗教」A「自然宗教」は、(A)「対象意識」の段階にあたるが、a「光としての宗教」(「感覚」の段階)(バビロニア・ペルシアの宗教)、b「動植物としての宗教」(「知覚」の段階)(インドの宗教)、c「工作者としての宗教」(「悟性」の段階)(エジプトの宗教)にさらに段階づけられる。(230頁)
★(A)「対象意識」Ⅰ「感覚」の段階のa「光としての宗教」はバビロニア・ペルシアの宗教だ。(230-231頁)
☆a「光としての宗教」はⅠ「感覚」の段階だが、「感覚」とは「Sein(存在)」をとらえるものであり、そして①「存在」とは「このもの」のことだ。②しかし「このもの」は「個別的」であると同時に「普遍的」でもある。☆そこで「『このもの』であると同時に『あらゆるもの』でもあるところの存在」、しかし((CC)「宗教」の立場として)すでに(BB)「精神」の立場を通過したのであるから、「『個別性』よりも、むしろ『普遍性』に重きを置いた、『精神』によってみたされたものとしての存在」、すなわち「光」(or「太陽」)を「絶対実在」としてあがめる。これがa「光の宗教」だ。(231頁)
☆「光」はすべてに瀰漫(ビマン)し、すべてを包み、すべてに光被して、それぞれをそれぞれたらしめる。「光」に対する「闇」は、「光のくもったもの」とされ、すべては「光」に解消される。(231頁)
★すべての宗教は、それぞれの「社会状態」すなわち「現実精神」に基づき、またそれを反映したものだが、a「光の宗教」の場合は、バビロニアやペルシアのように、(ア)人間がまだ自然に対して独立性を自覚していず、また(イ)社会的国家的にも個人として独立せず、(ウ)帝(ミカド)を絶対の主人として、隷従し奉仕するという「社会状態」にある。(231頁)
★ペルシャでは「アフラ・マヅダ」は「光」であると同時に「帝」であって王座につき、それに侍る7つの「光霊」は「星」であると同時に7人の「大臣」でもあることは、この「ペルシャの宗教」(※ゾロアスター教)の「社会状態」を示している。(231頁)
☆即ち「光」が「実在」であって、「その他のもの」はすべてこの「実体」(「光」)に「属性」として依存しているが、ちょうどそれと同じように、「帝王」に「他のもの」はすべて「奴」として依存している。(231-232頁)
★しかしそれでも「光」は「アフラ・マヅダ」または「オルムズド」として、「人格神」たる意味を持っているから、「絶対実在の自己意識」であるという「宗教」の意味は保たれている。(232頁)