宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その4):(C)(AA)「理性」C「社会」の段階c「査法的理性」!「立法的理性」(「常識」)が定立した「道徳法則」の吟味・検査!

2024-07-11 16:30:58 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」3「社会」(その4)c「査法的理性」(※「理性による掟の吟味」)(213-216頁)
(49)「立法的理性」は「査法的理性」に移る:「立法的理性」(「常識」)が定立した「道徳法則」の吟味・検査!
★さて「理性」(「立法的理性」)が――けっきょくは「常識」が――「道徳法則」を定立するのだが、しかしそのさいの「法則」(「道徳法則」)がはたして「法則」かどうか、吟味し検査しなくてはならない。こうして「立法的理性」は「査法的理性」(※「理性による掟の吟味」)に移る。(213-214頁)
★ヘーゲルが批評しているとおり、カントが「道徳的法則」であるかないか見分ける規準としたものは、「あるものはあるもの自身であって矛盾しない」という「自同性」であり、すべての場合に通ずる「形式的一般性」にほかならない。(214頁)

(49)-2 カントの「道徳法則」はよくわかるが、しかし我々はしばしばこの「法則」に反する:[A] 「傾向」(Neigung)(わがままな欲望)![B]「道徳法則」内において「他人に対する義務」と「自己に対する義務」との「衝突」がある![C]さらに「道徳法則」内において「他人に対する義務」間の「衝突」もある!
★ところが実際上の「道徳的生活」にはいろんな「矛盾」がある。確かに我々凡人にも「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的(※誰にもあてはまる)立法の原理として妥当しうるごとく行為せよ」というカントの「道徳法則」はよくわかるが、しかし我々はしばしばこの「法則」に反する。(214頁)

★[A]カントは我々がしばしば「道徳法則」に反するのは、我々には「理性」のほかに「傾向」(Neigung)があるからだと言う。「傾向」(Neigung)とは「理性の指示するまっすぐな(道徳)法則をかたむかせ、偏らせ、曲げるわがままな欲望」だ。
★[B]しかしよく考えてみると、「法則」(「道徳法則」)に違反させるものは「傾向」だけではない。そもそもカントがいっている「義務」(「道徳的義務」)には「他人に対する義務」(Ex. 「愛」や「敬」などの義務)のほかに「自己に対する義務」もある。例えば「困っている友人を助ける」ことは「他人に対する義務」だ。他方でカントも認めるように「自己に対する義務」もある。(Ex. 知識・技能を磨き、自分の健康を保つなど、自分に宿る人間性を維持し成長させる義務!)「他人に対する義務」を実行しがたいのは、[A]「傾向」(Neigung)だけによるのでなく、「道徳法則」内において「他人に対する義務」と[B]「自己に対する義務」との「衝突」があるからでもある。(214-215頁)
★ [C]さらに「道徳法則」内において「他人に対する義務」間の「衝突」もある。例えば一方で「親が病気になって手当をしないわけにいかない」という「親」に対する「義務」、他方で金がないので「返すと言って友人から金を借りるが返せない」という「友人」に対する借金返済の「義務」との衝突。このように「親への義務」と「友人への義務」との「ジレンマに陥って悩む」というような状況がむしろ「道徳生活上の実状」だ。「道徳法則」内において[B]《「他人に対する義務」間の「衝突」》がある(215頁)

(49)-3 カントは「道徳的義務」(「道徳法則」)の間に「衝突はない」と言う!ヘーゲルは「義務(道徳法則)」間には「衝突がある」と言う! 
★ところがカントは「道徳的義務」(「道徳法則」)の間に「衝突はない」と言う。「他人に対する義務」、「自己に対する義務」、またこれらの各々の「区分」というようなそれぞれの「義務」(「道徳法則」)を別個に考えたときは、いずれの「義務」も「絶対的拘束力」をもつが、カントはこの拘束力だけを「抽象」して、「義務」(「道徳法則」)を「抽象的」に考えているから、「衝突はない」と言えるのだ。(215-216頁)
☆カントに反対してヘーゲルは「義務(道徳法則)」間には「衝突がある」と言う。金子武蔵氏は「ヘーゲルの方が正しい」とする。(216頁)
☆カントの「道徳」についての考え方は、「他人に対する義務」・「自己に対する義務」というような「義務」(「道徳法則」)がそれぞれ孤立された場合にもっている「絶対的拘束力」を、「抽象的全般的」に考えているところに成立するにすぎない。(216頁)
☆ヘーゲルは鋭くもまさにその点を突いた。カントは、そういうふうに「形式的」に考えるからこそ、即ち「矛盾がないという自同性」をもって「法則であるかないかを見分ける規準」とするのだ。またカントは「『常識』だって『道徳法則』を自分で立てることができるんだ」と言うが、それは実際には「特殊的・個別的のもの」を「絶対的・普遍的のもの」にのし上げるもので、「非常に傲慢な、むしろ道徳を破壊するやり方」だとヘーゲルは批評する。(216頁)

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