宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その3):このA「自然宗教」はⅢ「悟性」の段階のc「工作者としての宗教」だ!

2024-07-23 15:43:05 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その3)(234-237頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」

(54)-3  1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その3):「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階である!そのⅢ「悟性」の段階はc「工作者としての宗教」(エジプトの宗教)だ!
★「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階であるが、そのⅢ「悟性」の段階はc「工作者としての宗教」(エジプトの宗教)だ。(234頁)
☆Ⅲ「悟性」の立場では「自と他とを、特殊と特殊とを越えたなにか『普遍的なもの』」すなわち「内なるもの」がつかまれる。この「内なるもの」が「絶対実在」としてあがめるようになったとき生じるのがc「工作者の宗教」であり、歴史的には「エジプトの宗教」だ。(234頁).

☆「エジプトの宗教」がc「工作者の宗教」であるというのは「自と他とを、特と特とを越え包む『内なるもの』」が把握されるようになったとき、人間はもはや「禽獣のように相食む」(インドのb「動植物としての宗教」b②「動物的宗教」)ことなく、またすでに「内なるもの」が自然物の本質であることを把握しているから、いたずらに「自然に隷従する」ことなく、「工作に従事する」からだ。(234頁)

《参考》(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)

(54)-3-2  (A)「対象意識」Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)は、「芸術」(Cf. B「芸術宗教」)とはちがって、まだ「自由」ではなく、ぎごちない「対象的な形式」をとる!
★しかしⅢ「悟性」の立場は(A)「対象意識」だから、そこで「内なるもの」がつかまれるといっても、その「内なるもの」が「自己」(Cf. (B)「自己意識」)であることはまだ自覚されていないのに応じて、「工作」(Cf. A「自然宗教」c「工作者」)もまさに、「工作」として「芸術」(Cf. B「芸術宗教」)とはちがってまだ「自由」ではなく、ぎごちない「対象的な形式」、即ち「幾何学的な線や面」を使用せざるをえないが、これがエジプトのピラミッドとかオベリスクの建築・彫刻にあらわれている。(234頁)
☆いいかえると、エジプト人が「幾何学的な線や面」を使用したピラミッドやオベリスクを「工作」して「絶対実在」の象徴としたのは、ひとえに「まだ『対象的』たるをまぬがれえない『内なるもの』」が「絶対実在」としてあがめられるからだと、ヘーゲルは言う。(234頁)

(54)-3-3 ( A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)における変化!「内なるもの」は、やがて「主体的な内なるもの」に転換し、ほのかながら「人間が自然の主人である」という意識がわいてくる!
★しかし「内なるもの」は、やがて「主体的な内なるもの」(Cf. (B)「自己意識」)に転換し、ほのかながら「人間が自然の主人である」という意識がわいてくる。かくてエジプトでも「建築」は次第に「円柱式」となり、「彫刻」も「生きた植物や動物」を表現するようになる。(234-235頁)
☆もちろんエジプトでは「『内なるもの』が『主体的な自己』であること」が十分に自覚されていない。かくて「メッカの神殿」(?)にはただの「石」がまつられている。(※「石」の崇拝はイスラム教の興隆よりも前から存在した。エジプトにおいても「石」の崇拝があった!)「石」崇拝はちょうどⅢ「悟性」という(A)「対象意識」によって把握された「内なるもの」が、「感覚され知覚される『特殊』と『特殊』とが入り乱れて交錯し転換するところの現象」の「かなたにあるもの」と考えられるとき、「全然無内容であるほかはない」のに応ずることだ。(235頁)

《参考1》メッカのカアバ神殿の「黒石」:神殿の東隅の外側、地上から160cmほどのところに据えられた「黒い石」。「ハッジ」(巡礼)の儀礼には、黒石に7度(カアバを1周するごとに1度)接吻することが含まれる。ただし今は大群集が訪れるので黒石に接吻するのは不可能で、巡礼者は建物の周りを巡る度に黒石の方向を指差すだけでよい。なお「石」の崇拝はイスラム教の興隆よりも前から、したがって古代エジプにも存在したと思われる。
《参考2》エジプト神話において「パワーストーン」は特定の神々と結びつけられ、その力を宿すとされた。Ex. 1.「ルビー」 太陽神ラーの象徴であり勇気や活力を与える。Ex. 2.「ラピスラズリ」豊穣の女神イシスの象徴であり知恵や真実をもたらす。Ex. 3.「ターコイズ(トルコ石)」不死や再生を象徴し、死者の神オシリスと関連付けられた。

(54)-3-3-2  c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)の極限としての「スフィンクス」:「内なるもの」がつかまれながら、この「内なるもの」がまだ「自己」であることが十分に自覚されていない!
★さて(A)「対象意識」Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)において、「作品」に「生きたもの」(「生きた植物や動物」)が表現されるようになると、その極限において「スフィンクス」が出てくる。(235頁)
☆「スフィンクス」は「人面獣身」であるが、これはエジプトでは、「内なるもの」がつかまれながら、この「内なるもの」がまだ「自己」であることが十分に自覚されず、「自己」はまだ「対象」あるいは「自然」のうちに封じ込められており、そこから現れ出ようともがいている状態を表現しているのだとヘーゲルは考える。(235頁)
☆「内なるもの」が「自己」にほかならず、「人間が自然の主人である」ことが自覚された時には、「感覚」の太陽に対して「自己意識」の太陽がのぼり、「東方」に対して「西方」が勝利をうることになると、ヘーゲルは言う。(235頁)

(54)-3-3-3  c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)のあがめる「内なるもの」は「『対象的』な内なるもの」でなく、じつは「『主体的』なる内なるもの」であり「自己」であるのを、「ギリシャ人」が看破した!そこに「『自然』に対する『人間』の勝利」、「『東方』に対する『西欧』の勝利」があった!
★この移行を、ヘーゲルは『美学講義』において、「オイディプスがスフィンクスの謎を解いた神話」に表現されていると考える。スフィンクスはテーベの町で通行人に謎をかけ、解けないとその通行人を殺した。「初めに4本足、中頃に2本足、終わりに4本足のものは何か?」オイディプスは「それは『人間』だ」と答え謎を解いた。スフィンクスは岩から河に落ち姿を消す。(235-236頁)
☆ヘーゲルは、「スフィンクス」は「まだ『自然』のうちに埋もれている『人間』」を表現したものだと言う。そして「『スフィンクス』がじつは『人間』にほかならない」とオイディプスが看破したとき怪物が岩から河へ落ち姿を消したというのは、((A)「対象意識」)Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)のあがめる「内なるもの」は「『対象的』な内なるもの」でなく、じつは「『主体的』なる内なるもの」であり「自己」であるのを、「ギリシャ人」が看破したことを意味すると、ヘーゲルは解釈する。(236頁)

☆いいかえるとc「工作者の宗教」(エジプトの宗教)の最高作品である人面獣身の「スフィンクス」は「『自己』が『自然』から解放されようとするもがき」を表現したものにほかならないが、この作品にうながされて、「『人間』が『自然』の主人である」ことを宣告したのがギリシャ人であり、そこに「『自然』に対する『人間』の勝利」、「エジプトないし一般に『東方』に対する『西欧』の勝利」があったと、ヘーゲルは解釈する。(236頁)

《参考1》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
《参考1-2》「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)
《参考1-3》このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

《参考2》「無限性」の立場では「自己が『対象』を意識する」ことは、じつは「自己が『自己』を意識する」ことだ!「自我は自我である」ことが(B)「自己意識」の段階の原理である!
☆(B)「自己意識」(Cf. (A)「意識or対象意識」)の段階で基本的に重要な意義をもってくるのは「無限性」の概念だ。(B)「自己意識」の段階は、(A)「意識(対象意識)」のⅢ「悟性」の段階の終わりでえられた「無限性」の概念を展開していくものにほかならない。(128頁)
☆ところでこの「無限性」の立場では「自己が『対象』を意識する」ことは、じつは「自己が『自己』を意識する」ことだということになる。だから「自我は自我である」ことが(B)「自己意識」の段階の原理である。(128頁)

(54)-3-3-4  ネイト(Neith)女神:「ある人がこの女神のヴェイルを取ることに成功したが、彼の見たものはなにか、彼は不思議のうちの不思議を見た、おのれ自らを見た」(ノヴァーリス)!
★エジプトのサイスにあるネートorネイト(Neith)女神の神殿に次のような銘文が書かれていた。「我は現にあり、かつてあり、今後もあらんとするものなり、我が覆いを取りたるものなし」。これについてノヴァーリス(1772-1801)は「ある人がこの女神のヴェイルを取ることに成功したが、彼の見たものはなにか、彼は不思議のうちの不思議を見た、おのれ自らを見た」と言うが、ヘーゲルの解釈も全くそのとおりである。(236-237頁)

《参考》「ネート(ネイト)」(Neith)女神:ナイル川三角州西部にあるサイスの守護神として祀られておりエジプト第1王朝のころから信仰されていた。ネイトは「戦いと狩猟の女神」であり、軍神として戦士の武器を作り、戦士が死んだ時その遺体を守るとされた。またネイトは知恵の女神でもあり、ホルスとセトの争いの仲裁も行った。ネイトは「水神」でもあり、ナイル川を司る「クヌム」の妻、クロコダイルの姿の「セベク」の母であり、またナイル川の水源とも結び付けられた。  

《参考2》「セト」(Set):エジプト神話における「戦争の神」。大地の神「ゲブ」を父に、天空の女神「ヌト」を母に持つ。両神の間に生まれた四柱の神々の三男が「セト」であり、冥界の神「オシリス」を兄に、豊穣の女神「イシス」を姉、葬祭の女神「ネフティス」を妹に持つ。配偶神は妹でもあるネフティス、彼女との間に「アヌビス」、女神ネイトとの間に「セベク」(鰐ワニが神格化された強大で畏怖される神)をなした。「オシリスとイシスの伝説」(オシリスはセトに殺害され、死体はバラバラに切り刻まれ、エジプト全土にばら撒かれました。妻のイシスは、死体を集め魔法で復活させたが、オシリスは完全には復活できず、冥界を支配する王となった)において、「セト」は「兄殺し」の汚名を受け、オシリスとイシスとの間の息子「ホルス」と王位を争い敗れた。「セト」は嫌われ者の神となり、悪神とされる。

(54)-4 (A)「対象意識」Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教):「工作者」として辛苦するエジプト人の場合は、まだ「精神」が「自然」から自由とはなっていない!
★ヘーゲルが『美学講義』などで言っているように、「ピラミッドは『墓』だが、およそ『墓』をつくり、そこに亡骸を安置し、永遠を期そうとするのは、『魂』がなにか自然物以上のものであることを自覚しているからだ」。といっても「工作者」として辛苦するエジプト人の場合は、まだ「精神」が「自然」から自由とはなっていない。(237頁)
☆「現実精神」のこのような状態が、「自然物」でなく「工作物」をあがめる(A「自然宗教」)c「工作者としての宗教」を生んだといってよい。(237頁)

(54)-5  (CC)「宗教」A「自然宗教」a「光」(メソポタミア・ペルシアの宗教)、b「植物と動物」(インドの宗教、c「工作者」(エジプトの宗教)!A「自然宗教」は、「宗教」として最も根本的なものである!
★以上で(C)「理性」(CC)「宗教」A「自然宗教」は終わるが、それは(A)「対象意識」に相応じるもであって、 (CC)「宗教」としては最も低いものだ。Cf. B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」。(237頁)
★しかし「対象性・直観性・表象性」(Cf. (A)「対象意識」に相応じる)は「宗教」全般のまぬがれないものだから、A「自然宗教」は、「宗教」として最も根本的なものであることも忘れてはならない。(237頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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