宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その3):(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!

2024-07-18 10:05:43 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その3)(224 - 頁)
(52)-3 『ヘーゲルの精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!
★((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)

★終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)

☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、
最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは「観察」であり、
また②「対他存在」の側面は「啓蒙の有用性」の立場であり、
さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは「啓示宗教」((CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心道徳」((BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)

★一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)!
(BB)「精神」(Ⅵ)A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、
B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、
C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」(Ⅶ)A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」(Ⅷ)

Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)!
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

(52)-3-2 (C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動(ヘーゲル):「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)と(CC)「宗教」は独立に相互に並行して進み、最後に(DD)「絶対知」において両者が綜合される(金子武蔵)! 
★(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

★(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
★「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
★そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

★これを図示すると次のようになる。(225-226頁)
☆「客体性」・・・・(CC)「宗教」・・・・A「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」・・・・(四)1「古代」(226頁)
☆「主体性」・・・・「道徳」・・・・(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」・・・・(四)2「近代」(226頁)
☆《これら2つの系列》すなわち《(四)1「古代」的系列と(四)2「近代」的系列》を綜合する(DD)「絶対知」・・・・(四)3「現代」(226頁)

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