宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その3):「奴」の方が自己の「無限性」・「真の自由」を実現する!「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」!

2024-05-31 18:56:27 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その3)(140-143頁)
(26)-4 「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」!
★ところで「自己意識」と「自己意識」の関係は本来「相互的」でなければならない。(140頁)
☆「人格関係」は「相互的」だ。(140頁)
☆かくてこちらから「なにかしてもらたい」と思っても、相手にその気がなければ、けっきょくのところ「いかなることもしてもらえない」ということもそこから生じる。(140頁)

★「奴」が「権力のおそろしさのため主を尊敬している」といっても、「尊敬するかしないか」はやはり「奴」の自由だ。(140頁)
★したがって「主」は「独立的のもので、なにものにも依存していない」ようであっても、じつは「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」。(140頁)
☆「主人として承認するや否や」は、けっきょくは「奴の自由意志」によっている。(140頁)
☆この点からいうと、「奴よりむしろ主の方が奴隷的である」、つまり「主」は「奴の奴隷的であるよりさらに奴隷的である」といえる。(140頁)

(26)-4-2 「主もかえって奴に依存している」、いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」!
★このことを理論的にいうと、「主人」は「精神的無限性ないし普遍性」を実現し、「奴」は「欲望」にとらわれて「個別性」にとどまっている。(141頁)
☆ところがじつは「主人」も支配される方の「奴」の「個別性」に依存している。(141頁)
☆そこで「奴が主に依存する」と同様に、「主もかえって奴に依存している」。いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」。(141頁)

(26)-5 ヘーゲルは「自由」を「奴」の方から説こうとする!むしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」! 
★かかる理由(「主もかえって奴に依存している」or「主は奴になり、奴は主になる」)から、ヘーゲルは「自由」をむしろ「奴」の方から説こうとする。(141頁)
☆これについて、ヘーゲルは①「畏怖」と②「奉仕」と③「形成」との3点をあげる。(141頁)

(26)-5-2 ①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
★①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
☆これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)
☆「奴隷」はがんらい「生命」に執着したものだが、しかし「おそれとおののき」(「畏怖」)のうちにあることによって、その執着を震駭(シンガイ)(Cf. 侵害)されている。(141頁)
☆「奴隷」は「主人」が恐ろしい(「畏怖」)から服従して、「飲み食い眠るという欲望」さえおさえているが、この服従はかえって「個別性への執着」をたちきるものだ。(141頁)

(26)-5-3 ②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
★②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
☆「畏怖」(「主人」をおそれる)(「権力によって殺される」という「死」の「絶対的な恐怖」)(「おそれとおののき」)だけではまだ内面的主観的だ。この「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」が「奉仕」だ。「奉仕」によって、「食いたい眠りたい」という具体的の(※主観的な)「欲望」を「現実的に客観的に」のりこえている。             (141頁)

(26)-5-4 ③「形成」(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
★③「形成」(「労働」)(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
☆「奉仕」もまだ「個別的断片的」であり、また「自分の身にそくしたもの」であるという意味で「主観的」だ。これがもっと「客観的」にあらわれたものが「形成」(「労働」)だ。(141-142頁)
☆「主人」は「対自存在」であり、「享楽」においてあり、「無限性」を実現している。(142頁)
☆しかし「主人」の「享楽」は消えていく。しかるに「奴隷」はせっせと働き、他物に働きかけてこれを「形成」してゆくことによって、自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換してゆく。(※「労働」or「労働」の対象化!)(142頁)

(26)-5-5 ③(続)「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!
★したがって「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)

(26)-5-6 「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
★しかし③「単なる『労働』と『形成』」とではだめで、やはり①「畏怖」(「奴隷」は「主人」をおそれる)と②「奉仕」(「畏怖」のそとに客観的にあらわれ実証されたもの)が必要で、ことに「絶対的な主人である死の恐怖」(①「畏怖」)があることが必要で、これによりあらゆる「個別的のものへの執着」をたちきり、「自己の無限性や普遍性」を実現してゆくことができる。(142頁)
☆そこで「奴隷」は単なる「我欲」にとらわれず、「普遍的、客観的にものを考える力」をもつようになるから、「無限性の概念」をうる。(142頁)
☆これに対して、「主人」の「無限性」は「享楽」におけるものだから「存続」できないし、また「享楽」の「個別性」にとらわれている。(142頁)
☆かくてむしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となる」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆「奴」の方が自己の「無限性」を、つまり「真の自由」を実現する。「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」。

(26)-5-7 「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」:昔の「殿様と家来」、「主人と番頭」、今日の「社長と社員」など!
★このあたりの叙述(※(26)-5~(26)-5-6すなわち「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」)はマルクスやサルトルを感心させた。(142頁)
☆ヘーゲルはよく人間関係の機微を具体的に知っている。(142-143頁) 
☆表現はヘーゲルらしく晦渋だが、いっていることは昔の「殿様と家来」、「主人と番頭」、今日の「社長と社員」などのあいだにもいつも行われていることだ。(143頁)
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