宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その2):「欲望」の立場で、二つの「自己意識」が「戦い」、「独立の自己意識」を持った方が「主」で、他方が「奴」だ!

2024-05-30 13:57:41 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その2)(138-140頁)
(26)-3 「一つの自己意識」と「他の自己意識」との関係における「主と奴」という関係!
★「一つの自己意識」と「他の自己意識」の「相互承認」というという「無限性」の関係は、「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。(138頁)
☆まず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)である。
《参考2》金子武蔵氏は(B)「自己意識」も3段階にわける。(B)「自己意識」:イ「生命あるいは欲望」個別性(Cf. 「感覚」)。ロ「主と奴」特殊性(Cf. 「知覚」)。ハ「自由」普遍性(Cf. 「悟性」)。(126-127頁)

★「自己」が満足するには、(「他者(※対象)」に対する)単なる「欲望」だけではなく、「他の自己意識」との関係においてあることを要するが、最初は(「相互承認」の立場に至らず)まだ「個別性」、つまり「欲望」の立場が強く残っている。(138頁)

《参考1》へーゲルは「無限性」について2通りのもの区別する。すなわち①「無限性であるにとどまる」場合と、②「無限性であることを自覚している」場合だ。即ち①「客観的な即自的な無限性」(普通に「生命」とか「生きもの」とかいわれるもの)と②「対自的自覚的な無限性」(Cf. 「相互承認」)だ。(129-130頁)

《参考2》「生命」の世界はたしかに「無限性」を実現しているが、しかし「ただ無限性である」ことにとどまって、「無限性であることを自覚する」までに至っていない。そこに「生命」の立場の限界がある。(132頁)
《参考2-2》かくて「無限性」は、「対象的」には実現されず、「主体的」にのみ実現される。(132頁)

《参考3》ヘーゲルは問題を「主体」(Cf. 「対象」)の方向に転じて、「『主体』において『無限性』はどうして実現するか」を考える。ヘーゲルは「一つの『主体』と他の『主体』との関係においてのみ、いいかえると一つの『自己意識』と他の『自己意識』との関係においてのみ、『無限性』は真に成りたちうる」ことを証明しようとする。(133頁)

《参考4》まず「欲望」から考えると、「対象」は「無力」のものであるから、「自我」は「対象」を取って食う。だから「自己確信」は「主観的」ではなく「客観的な真理」だ。(133頁)

《参考5》「『欲望』は人間のもつ『無限性』を実現するもの」といいうるが、「単なる欲望」では「無限性」は本当の意味では実現しない。なぜかというと、「欲望」はいつも「否定すべき相手」をもち、「一つの欲望が満足すると次の欲望が起こる」というように「欲望はかぎりのないもの」であり、「満足」にはつねに「否定すべき他者(※対象)」が必要だからだ。したがって「単なる欲望」の立場には、「悪無限」はあっても、「真無限」は実現されない。(133頁)
《参考5-2》「欲望」はつねに「否定すべき他者」を要するから、いつも「相手」が残る。この意味で、ヘーゲルは「欲望」をギリシア神話の「シシュフォスの徒労」にたとえる。シシュフォスは石を麓から推し上げ頂上まで持って行こうとするが、頂上の直前で石はガラガラと落ちる。ヘーゲルは「欲望の悪無限」を「シシュフォスの徒労」にたとえる。「欲望」の「無限性」は、「悪無限」だ。(133-134頁)

(26)-3-2 最初は(「相互承認」の立場に至らず)まだ「個別性」、つまり「欲望」の立場が強く残っている!相手を「生命」としてみ、真の意味の「人格」としてみない!
★「欲望」の立場(Cf. 「相互承認」の立場)における「一つの自己意識」と「他の自己意識」との関係をみると、「欲望」の対象は「生命」であるから、相手を「生命」としてみ、真の意味の「人格」としてみない。(138頁)
☆「自己意識」はその概念からいうと、「無限性」(「相互承認」)を実現すべきであるのに、二つの「自己意識」はまだ「個別性」の段階、つまり「欲望」の立場を離れない。(138頁)
☆そこでかかる「自己意識」と「自己意識」とが相対すると、互いに「相手」を「欲望の対象」にし「食いもの」にしようとする。(139頁)
☆二つの「自己意識」は「生死を賭しての戦い」を行う。(139頁)

(26)-3-3 「欲望」の立場において、二つの「自己意識」が「戦い」を行い、「相うち」になると「自己意識」の「統一」は実現するが、「無限性」(「相互承認」)は実現しない!
★「欲望」の立場において、二つの「自己意識」は「生死を賭しての戦い」を行うが、「相うち」になると、確かに「二つの自己意識の『統一』」は実現するが、その統一は「存在的な、死んだもの」であり、これではほんとうの「無限性」(「相互承認」)は実現しない。(139頁) 

(26)-3-4 「欲望」の立場において、二つの「自己意識」は、「お互いに相手を殺してはいけない」!「相手をなきものにしてはほんとうの『統一』はできないので、相手を生かしておいて、そこに『統一』をはかろう」とする!「精神的否定」or「止揚」という否定!
★二つの「自己意識」は、「欲望」の立場において、「生死を賭しての戦い」を行うが、「お互いに相手を殺してはいけない」。「相手をなきものにしてはほんとうの『統一』はできないので、相手を生かしておいて、そこに『統一』をはかろう」とする。(139頁)
☆対立するものを「否定的に統一づける」といっても、その否定は「精神的否定」だ。つまり「一方で肯定して他方で否定する」こと、へゲールのいわゆる「止揚」という否定だ。(139頁)
★「相互承認の関係が完全に実現された」場合と異なり、「欲望」の立場において、二つの「自己意識」は、「生死を賭しての戦い」を行うが、「相手を生かしておいて、そこに統一をはかろう」とするので、一方の自己意識は否定面、他方は肯定面を実現する。(139頁)

(26)-3-5 「独立の自己意識」として成り立った方が「主」で、他方が「非自立的意識」としての「奴」である!
★即ち「二つの自己意識」の間に「生死を賭した戦い」があるとき、一方(※奴)は「『生命』(イノチ)がおしくなって屈服し『生命』を保つ」が、他方(※主)は「最後まで戦いぬいて『精神』を実現する」のだ。(139頁)
☆このようにして「二つの自己意識」に「生命」と「精神」が分割されて実現される。(139-140頁)
☆ところが、これではいずれの「自己意識」も「否定肯定の両面」をもつのではないから、「相互承認」は「一方的」になる。(140頁)
★「独立の自己意識」として成り立った方が「主」で、他方が「奴」である。このようにして「主奴」の区別がでてくる。(140頁)
☆「主人」(「主」)の方は「自己意識の無限性(Cf. 相互承認)」を現実に実現する。「主人」は「他の自己意識」をおのれの「奴隷」にすることによって、制限されずにおのれの「欲望」を満足し享楽している。それに対して「奴隷」の方はまだ「無限性(Cf. 相互承認)」を実現していないので、「主人」において「他者」を持ち、「生命」に執着し、「物」に依存しているが、これは「非自立的意識」だ。(140頁)

★このように「主奴」の関係では、「承認」が一方的に成り立っている。「主」の方では「奴」を「独立の人格」として認めていないのに、「奴」の方は「主」を「独立の人格」として認めている。(140頁)
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