宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その4):「主人」の意識は「本質的」、「奴隷」の意識は「非本質的」との区別はなくなり、「両者」は価値において同等だ!

2024-06-01 15:47:37 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」2「主と奴」(その3)(143-145頁)
(26)-6 「『無限性』をもって特徴とする『自己意識』」の見地からすると、「主人」の意識は「本質的」、「奴隷」の意識は「非本質的」だ!だが「本質的」意識と「非本質的」意識の区別はなり立たず、「両者」は価値において同等だ!《「ヘーゲルのやり口」1》
★へーゲルは「主が奴になり、奴が主になる」ということが限りなく繰り返されるのが「人間関係」の実相だという。(143頁)

《参考1》「一つの自己意識」と「他の自己意識」の「相互承認」というという「無限性」の関係は、「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。まず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)である。
《参考2-2》金子武蔵氏は(B)「自己意識」も3段階にわける。(B)「自己意識」:イ「生命あるいは欲望」個別性(Cf. 「感覚」)。ロ「主と奴」特殊性(Cf. 「知覚」)。ハ「自由」普遍性(Cf. 「悟性」)。(126-127頁)

★この「主と奴」の相互転換は「本質的意識」(「主」)と「非本質的意識」(「奴」)の間のものともいうことができる。(143頁)
☆「『無限性』をもって特徴とする『自己意識』」の見地からすると、「主人」の意識は「本質的」、「奴隷」の意識は「非本質的」だ。(143頁)

★だが「自己意識」における「本質的意識」(「主」)と「非本質的意識」(「奴」)の区別は、「知覚の段階」において「本質的性質」(ある物それ自体に帰属している性質)と「非本質的性質」(ある物がそれ自身でもつのではなく、他物との関係においてもつ性質)とを区別するのと同じことだ。《「ヘーゲルのやり口」》!(143頁)

(26)-6-2 「知覚の段階」において「本質的性質」と「非本質的性質」という区別はなりたたない!《「ヘーゲルのやり口」0》(143頁)
★すでに見たように、「知覚の段階」において「本質的性質」と「非本質的性質」という区別はなりたたなかった。(143頁)《「ヘーゲルのやり口」0》!

《参考》ロックの「第一性質」と「第二性質」!だが非本質的性質と本質的性質は「同時に」成立する、つまり「物」はどこまでも矛盾したものだ!(107-108頁)
☆「物」の矛盾(「知覚」の段階)は「一と多との矛盾」であるだけでなく、さらに「自と他との矛盾」だ。ある「物」は「即自的」であると同時に「対他的」だ。(107頁)
☆「物」が「自と他との矛盾」or「即自と対他との矛盾」を含むことを否定するため、「知覚が本質的属性と非本質的属性とを区別――ロックの第一性質と第二性質――して頑張ろうとしても」だめだ。(107頁)
☆本質的属性と非本質的属性というのは、「物」をそれ自身として考えれば「物は一」で、その限りでは「物」は本質的属性をもっているけれども、「他の物」との関係を考えるときには「その同じ物」が非本質的属性をえて「たくさんの物」になるとする。(107-108頁)
☆しかし本質的属性と非本質的属性も互いに関連したものであって、「非本質的なもの」があって初めて「本質的なもの」あるのであり、「本質的なもの」があって「非本質的なもの」もあるのだ。「非本質的なもの」と「本質的なもの」の差を設けて価値の区別をしても結局むだだ。(108頁)
☆非本質的性質と本質的性質は「同時に」成立するのだ。そのようにしてどんな区別をもうけて逃げようとしてもだめで、「物」はどこまでも矛盾したものだ。(108頁)

Cf. 「第一性質」・「第二性質」(primary qualities, secondary qualities):「性質」に関するイギリスの哲学者ロックの認識論的用語。(『人間悟性論』第2巻第8章)「第一性質」は認識とは独立に客観に備わる性質で、「延長」・「形」・「運動と静止」・「固体性(固さ)」・「数」などがあるが、対照的に「第二性質」は「第一性質によりわれわれのうちに多様な感覚を生ずる力」にすぎない。つまり「色」・「音」・「香り」・「味」のように対象それ自体にはない主観的性質である。前者は客観的,数学的,物理学的であり,後者は主観的,心理学的な性質である。ロックは前者を物質の本質をなすものと考えた。

(26)-6-3 「自己意識」において、「主人の意識」が「本質的意識」であり、「奴隷の意識」は「非本質的意識」であると抽象的にいうことはできない!《「ヘーゲルのやり口」1》(続)
★「知覚」における「本質的性質」と「非本質的性質」という区別がなりたたない(《「ヘーゲルのやり口」0》)のと同様に、「自己意識」において、「主人の意識」が「本質的意識」であり、「奴隷の意識」は「非本質的意識」であると抽象的にいうことはできないとヘーゲルは言う。
☆「主人的意識」が「本質的」意識であるごとく、「奴隷的意識」も「本質的」であり、「奴隷的意識」が「非本質的」であるごとく、「主人的意識」も「非本質的」だ。(143頁)
☆これは「非本質的意識」と「本質的意識」とが価値において同等のものとなるということだ。(143頁)《「ヘーゲルのやり口」1》(続)!
★この関係は、「主」と「奴」の場合(「ヘーゲルのやり口」1)だけでなく、今後、しばしばでてくる「ヘーゲルのやり口」(※2、3、4)だ。(143頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、
B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
A「観察的理性」、
B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、
C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
((C)「理性」)(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、
B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、
C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
((C)「理性」)(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、
B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、
C「啓示宗教」、
((C)「理性」)(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

(26)-6-4 《「ヘーゲルのやり口」2》「本質的」な「高貴なる意識」と「非本質的」な「下賤なる意識」が、後に価値において「両方」が同じことになる!「両方」共に「本質的」であるとともに「非本質的」だ!
★((C)「理性」)(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のところでa「教養と現実の国」とあるが、「現実の国」を構成するものは「国権」と「財富」だ。(143頁)
☆ヘーゲルは「意識」を「普遍的」と「個別的」とにわける。「普遍的」意識は「国権」に服従する。「個別的」意識は「財富」に執着する。(144頁)
☆「普遍的」意識を実現するのは「高貴なる意識」であり、「個別的」意識を実現するのは「下賤なる意識」だ。(144頁)
☆ここへさきほどの「主と奴の関係」(《「ヘーゲルのやり口」1》)をもってくると、「高貴」と「下賤」との間にも同じことが成立する。最初は「本質的」なものは「高貴」であり、「非本質的」なものは「下賤」であるのに、後には「両方」共に「本質的」であるとともに「非本質的」であるということになり、価値において「両者」が同じことになる。(144頁)

(26)-6-5 《「ヘーゲルのやり口」3》「普遍性」(※「本質的」)の方面の「善いもの」である「批判的良心」と、「個別性」(「非本質的」)の方面の「悪いもの」である「実行的良心」が、後に価値において「両者」(善い「批判的良心」と悪い「実行的良心」)とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!
★また((C)「理性」)(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のc「良心、美魂、悪とその赦し」では、「批判的良心」が「普遍性」(※本質的)の方面、「実行的良心」が「個別性」の方面であり、「批判的良心」は「善いもの」、「実行的良心」は「悪いもの」というように一応考えられる。しかし実際には「批判的良心」も「個別的」であり、「実行的良心」も「普遍的」であるとういうことになって、「二つの良心」は同価値になり、「本質」と「非本質」の区別がなくなる。(144頁)


(26)-6-6 《「ヘーゲルのやり口」4》「本質的」(※「普遍的」)である「善」と「非本質的」(※「個別的」)である「悪」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!
★((C)「理性」)(CC)「宗教」のC「啓示宗教」(クリスト教)のところでは、「善」は「本質的」、「悪」は「非本質的」だとされる。しかしやがて「善」・「悪」ともに「普遍的」(※「本質的」)であるとともに「個別的」(※「非本質的」)であることになり、「本質的」と「非本質的」との表面的な区別はなくなってしまう。

(26)-6-7 「主」と「奴」との「相互転換」によって、「相互承認」の関係が実現する、即ち「自己意識」は「無限性」に到達する!かくて「自己意識の自由」の段階となる!
★かくて「主」と「奴」との「相互転換」という「やり方」(「へーゲルのやり口」)は『精神現象学』全体に通ずるものだということがわかる。(144頁)
★このようにして「主」「奴」いずれの「自己意識」も「普遍的」と同時に「個別的」であり、そこにはじめて「相互承認」の関係が実現する。即ち「自己意識」は「無限性」に到達する。(145頁)
★これによって「自己以外になにものもない」ということから、「自己意識の自由」の段階となる。  

《参考》「ヘーゲルのやり口」まとめ!
《「ヘーゲルのやり口」0》「知覚」における「本質的性質」と「非本質的性質」という区別がなりたたない!
《「ヘーゲルのやり口」1》「主人」の意識は「本質的」、「奴隷」の意識は「非本質的」だという区別がなりたたない、すなわち「両者」は価値において同等だ!
《「ヘーゲルのやり口」2》[(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のa「教養と現実の国」]「本質的」な「高貴なる意識」と「非本質的」な「下賤なる意識」が、後に価値において「両者」が同じことになってしまう!
《「ヘーゲルのやり口」3》[(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のc「良心、美魂、悪とその赦し」]「普遍性」(※「本質的」)の方面の「善いもの」である「批判的良心」と、「個別性」(「非本質的」)の方面の「悪いもの」である「実行的良心」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!
《「ヘーゲルのやり口」4》[(CC)「宗教」のC「啓示宗教」(クリスト教)]「本質的」(※「普遍的」)である「善」と「非本質的」(※「個別的」)である「悪」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!
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