宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「存在可能」つまり「実存」としての現存在にとって、死とはひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない可能性である! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第50節」

2019-11-24 15:57:02 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第50節 死の実存論的=存在論的構造の素描」

(1)「死」もしくは《終末へ臨む存在》において、③実存(※《おのれに先立って》)と②事実性(※《内にすでに存在する》)と①頽落(※《・・・・・・のもとに存在する》)とがどのように姿を現してくるか?
A 「死の現象は《終末へ臨む存在》として、現存在の根本的構造にもとづいて解釈される必要がある。」(249頁)
A-2 「現存在の根本的構成は関心(気遣い、die Sorge)である。」
A-2 「関心(気遣い)」は「①《(世界の内部で)出会う存在者のもとにある存在として、②(世界の)内にすでに、③おのれに先立って(※投企的or可能的に)存在すること》」と定義される。(249頁)
A-3 「③《おのれに先立って》のなかには実存が、②《内にすでに存在する》のなかには事実性が、そして《・・・・・・のもとに存在する》のなかには頽落が、それぞれ表現されている。」(249-250頁)
A-4 死の現象(《終末へ臨む存在》)において、「③実存と②事実性と①頽落とがどのように姿を現してくるか」?(250頁)

《感想1》ハイデガーは既に述べている。「《おのれに先立って(※③実存)――内世界的存在者のもとにあることとしての(※①頽落)――世界の内にすでに存在すること(※②事実性)》」という関心の構造は、現存在の開示態をうちに含んでいる。」(220-1頁)

(1)-2「存在可能」としての現存在、つまり「実存」(《おのれに先立って》、③)としての現存在と死:死とはひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない可能性である!
B 「存在可能として、現存在は死の可能性を追い越すことができない。死は、現存在が絶対に不可能になることの可能性だからである。このようにして、死とはひとごとでない、係累のない(※「ほかの現存在へのあらゆる連絡が解かれてしまう」こと)、追い越すことのできない可能性である。」(250頁)
B-2 「死へ臨む不安は、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない存在可能を『目前に控えた』不安である。」(251頁)

(1)-3「事実性」(《内にすでに存在する》、②)としての現存在と死:《終末へ臨む存在》は・・・・気の持ち方として・・・・生ずるものでない!
C 「《終末へ臨む存在》は・・・・気の持ち方として・・・・生ずるものでない。それは本質的に現存在の被投性(※②「事実性」)に属す」。(251頁)
C-2 ただし「事実的には、さしあたってたいていは死に無関心でいる人びとが多い」。(251頁)

(1)-4「頽落」(《・・・・・・のもとに存在する》、①)としての現存在と死(その1)
Ⅾ「現存在は、実存(※③)し続けるかぎり、事実上(※②)、死に臨んでいる。しかし、さしあたりたいていは頽落(※①)の様相において、死に臨んでいる」。(252頁)
《感想1-2》ハイデガーは既に述べている。「現存在の存在構成には頽落がそなわっている。」頽落は自己喪失である。つまり「存在可能性への投企としての了解」は「世間das Man」に融けこみ、「公開的既成解釈」によって支配されている。「存在者」は「歪められている」、つまり「存在者」は「仮象の様態で現れている」。(221-2頁)

(1)-5「頽落」(①)としての現存在と死(その2):不気味さからの「逃亡」!
D-2 「この《・・・・のもとに頽落する存在》のうちに、無気味さからの――すなわちここでは《死へ臨むひとごとでない存在》からの――逃亡がうかがわれる。」(252頁)

《感想1-3》「頽落」とは、「世間das Man」に融けこみ、「公開的既成解釈」によって支配されていることだが、ハイデガーは、人々(現存在)が死から「逃亡」していると言う。だが、人々は、自らが《死へ臨むひとごとでない存在》であることについてよくわかっている。人々は普通、死を主題としないが、副主題として常に意識し、しかも当然の出来事と考えている。人々(現存在)は、死を恐れつつも不可避と受け入れる。現存在は死から「逃亡」しているわけでない。
《感想1-3-2》「メメント・モリ(memento mori)」つまり「死を忘るなかれ」と人々はよく知っている。《死について覚悟せよ》、《死の意味を考えよ》、《死の形而上学を考えよ》、《天上・彼岸を信じよ》、《この世は無常だ(諸行無常)》等々と、人々は「世間das Man」に融けこみつつ「公開的既成解釈」においてすでに、死に立ち向かっている。
《感想1-3-3》「メメント・モリ(memento mori)」は、もちろん、「公開的既成解釈」において「この世を楽しめ」とも提示される。
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