※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第4章 時間性と日常性」「第69節 世界内存在の時間性と、世界の超越の問題」「(c)世界の超越の時間的問題」(その2)
(7)いかなる現存在も実存していないならば、いかなる世界も《現に》存しないのである!
R 「世界は客体的に存在するのでも用具的に存在するのでもなく、時間性において時熟するのである。」(365頁)
R-2 「世界は三つの脱自態の《脱自》(※時間)とともに《現=存する》。」(365頁)
R-3 「いかなる現存在も実存していないならば、いかなる世界も《現に》存しないのである。」(365頁)
(7)-2 《外に》ある客観すなわち「客他の総体」の、もっと《外に》世界(※超越論的主観性)がある!
Q 「いかなる客観が《外に》あるにしても、世界はいわばもっと《外に》ある。」(366頁)
Q-2 「《超越問題》」は、「客体の総体を世界の理念と同一視」し、「主観はどうして客観のところへ出ていくのか」と問うことではない。(366頁)
(7)-3 《主観》を存在論的に・・・・現存在として把握するならば、その時には世界は《主観的》(※超越論的主観性)である!
R 「実存する現存在の存在は時間性にもとづいている。」(366頁)
R-2 「もしもわれわれが《主観》を存在論的に・・・・現存在として把握するならば、その時には世界は《主観的》(※超越論的主観性)である、と言わなくてはならない」(366頁)
R-3 「この《主観的な》世界(※超越論的主観性)は、時間的=超越的な世界(※超越論的主観性)として、およそいかなる《客観》よりもなお《客観的に》(※超越論的に)存在する。」(366頁)
S 「世界内存在」が「脱自的(※時間的)=地平的統一態」へ「還元」された。(366頁)
《感想1》ハイデガーの「世界」は、超越論的主観性と等価である。超越論的主観性は「現存在」=「世界内存在」と等価である。
《感想1-2》現存在=世界内存在(ハイデガー)は、超越論的主観性(フッサール)である。
《感想2》超越論的主観性(フッサール)は、モナド(ライプニッツ)である。
(7)いかなる現存在も実存していないならば、いかなる世界も《現に》存しないのである!
R 「世界は客体的に存在するのでも用具的に存在するのでもなく、時間性において時熟するのである。」(365頁)
R-2 「世界は三つの脱自態の《脱自》(※時間)とともに《現=存する》。」(365頁)
R-3 「いかなる現存在も実存していないならば、いかなる世界も《現に》存しないのである。」(365頁)
(7)-2 《外に》ある客観すなわち「客他の総体」の、もっと《外に》世界(※超越論的主観性)がある!
Q 「いかなる客観が《外に》あるにしても、世界はいわばもっと《外に》ある。」(366頁)
Q-2 「《超越問題》」は、「客体の総体を世界の理念と同一視」し、「主観はどうして客観のところへ出ていくのか」と問うことではない。(366頁)
(7)-3 《主観》を存在論的に・・・・現存在として把握するならば、その時には世界は《主観的》(※超越論的主観性)である!
R 「実存する現存在の存在は時間性にもとづいている。」(366頁)
R-2 「もしもわれわれが《主観》を存在論的に・・・・現存在として把握するならば、その時には世界は《主観的》(※超越論的主観性)である、と言わなくてはならない」(366頁)
R-3 「この《主観的な》世界(※超越論的主観性)は、時間的=超越的な世界(※超越論的主観性)として、およそいかなる《客観》よりもなお《客観的に》(※超越論的に)存在する。」(366頁)
S 「世界内存在」が「脱自的(※時間的)=地平的統一態」へ「還元」された。(366頁)
《感想1》ハイデガーの「世界」は、超越論的主観性と等価である。超越論的主観性は「現存在」=「世界内存在」と等価である。
《感想1-2》現存在=世界内存在(ハイデガー)は、超越論的主観性(フッサール)である。
《感想2》超越論的主観性(フッサール)は、モナド(ライプニッツ)である。