宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その3):「世界」は「自己のためにあるもの」だ!「絶対自由」の立場!

2024-08-29 16:02:58 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その3)(290-292頁)
(70)-6 「啓蒙」は、「信仰」との戦いのうちに、バラバラだった3つの主張、①「理神論」と②「唯物論」・「感覚論」と③「功利主義」・「相対論」が統一づけられていくことになる!
★「啓蒙」は、「信仰」との戦いにさいして、①「理神論」と②「唯物論」(or「感覚論」)と③「功利主義」(or「相対論」)との3つをバラバラに主張するだけで統一的に把握していない。(290頁)

Cf. ①「理神論」:「至高存在」はただ「理性」によってのみとらえられうる。(290頁)
Cf. ②「唯物論」or「感覚論」:「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」である。(288頁)
Cf. ③「相対論」:「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
Cf. ③(続)「功利主義」:③「相対論」はおのずからまた③(続)「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)

★しかし「啓蒙」が、相手(「信仰」)のAに対してはBを、相手のBに対してはAを唱えるという頑童にも等しい愚をおかしていることは、「信仰」との戦いのうちに、おのずと自覚され、3つの主張(①「理神論」と②「唯物論」・「感覚論」と③「功利主義」・「相対論」)は統一づけられていくことになる。(290-291頁)
☆そこに「概念の統一」が自覚され、「純粋透見」のまぬがれえなかった「主観性」・「個人性」は(※「啓蒙」において)洗いおとされ、「透見」はより高次の意味において「純粋透見」となり、「啓蒙」はその実を結び、また「信仰」との戦いにおいても勝利をえる。(291頁)

《参考》「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」だという欠陥が是正されなくてはならない。「純粋透見」は、ある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない。(284頁)
☆「純粋透見」の「公共化」について、ヘーゲルはフランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)のことを念頭において、個人個人の「透見」が集大成されることによって「純粋透見」は次第に「成長をとげていく」と考える。(284頁)
☆「純粋透見」が「成長していく」とは、最初は「プライベイト」な、「主観的」なものであった「透見」が、「社会的に普及する」ということも意味するが、これが「啓蒙」にほかならない。(284頁)
☆「啓蒙」は、「純粋透見」をして「公共的」・「普遍的」・「客観的」・「内容的」(⇔「個人的」・「個別的」・「主観的」・「形式的」)なものにまで「成長」させる。「啓蒙」は、「純粋透見」にとって不可欠なものだ。(284頁)

(70)-6-2 「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうるのは、「啓蒙」が、「自己意識の権利」に立脚しているからだ!「自分に対立するものをも包含した具体的な弁証法的な意味」における「自己意識の権利」に立脚する!かくて「啓蒙」は勝利を博する!
★「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうるのは、「啓蒙」が、「表象性」をまぬがれえぬ「信仰」とはちがい、「自我の働き」を重んじ、「自己意識の権利」に立脚しているからだ。(291頁)
★ただし「自己意識の権利」も2つある。第1は「『抽象的意味』における『自己意識の権利』」であり、第2は「『具体的意味』における『自己意識の権利』」だ。(291頁)
☆第2の「『具体的意味』における『自己意識の権利』」とは、「自分に対立するものをも包含した具体的な意味」における「自己意識の権利」であり、つまり「対自」のほかに「即自」をも、「自己」のほかに「対象」をも、「思惟」のほかに「感性」をも、「媒介態」のほかに「直接態」をもというように「反対をも包含した具体的な弁証法的な意味」における「自己意識の権利」だ。(291頁)

★「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうる原因となるべき「自己意識の権利」とは、第1の「抽象的意味」におけるものではなく、第2の「具体的意味」におけるものだ。(291頁)
☆「信仰との戦い」そのものが、「『抽象的意味』における『自己意識の権利』」から「『具体的意味』における『自己意識の権利』」へと移行させる。(291頁)
☆「啓蒙」は、「信仰」が「感性」をあげれば「理性」をあげ(※①「理神論」)、「信仰」が「対自存在」をあげれば「即自存在」をあげる(※②「感覚論」)というような愚をおかす。つまり「啓蒙」は「いつも自らの主張を裏切り虚偽をおかす」のだが、しかし愚をおかすことを通じて愚をさとって、「自己意識の権利」は「具体的なもの」に転じてゆく。(291頁)
☆かかる「『具体的意味』における『自己意識の権利』」は「絶対不可抗のもの」であるがゆえに、「啓蒙」は勝利を博することができる。(292頁)

★しかし「信仰」の主張も「実質的」にはまちがっていたわけではないから、「啓蒙」が勝利をうるといっても、このことは、「信仰」の要求も、「実質的」には「啓蒙」のうちに包含され、それ(「啓蒙」)によって充足されたことを意味する。(292頁)

《参考》「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)
☆だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)

(70)-7 「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する!「『有用なもの』の世界」:「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」だ!「絶対自由」の立場!
★「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。(292頁)
☆だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
★そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。(292頁)
☆かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。(292頁)
☆「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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