※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その3)(280-282頁)
(67)「信仰の世界」(「彼岸」)と「現実の世界」(「此岸」)との「連絡」をつけることが必要だ!「信仰」の立場においては「連絡」のための「媒介づけ」も、「彼岸的」だ!「奉仕」(断食・苦行・喜捨・献納など)と「讃美」(讃歌・祈禱など)!
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)において、「信仰の世界」は「彼岸」であり、「現実の世界」(「現実の国」)は「此岸」だ。(280頁)
☆しかし「彼岸」(「信仰の世界」)も「彼岸」のままにとどまっては無意義だし、まして「信仰の世界」自身が「子の位」において「現実的世界」を肯定したのである以上、「彼岸」と「此岸」との「連絡」をつけることが必要になる。(280頁)
《参考》①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ。なぜなら「国権」は「普遍的」で「つねに自己同一を保つ」ものだからだ。しかし「国権」も「国権」として自分を保つためには、むしろ「財富」として自分を「個別化」して、「臣民」各自に生活上の幸福を享楽させ、彼らをいわば「子」として慈愛をもって遇することが必要だ。かくて②「子の位」にあたるものは「臣民」各自であり、また「財富」だ。☆ところで③(ア)「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない。(イ)「財富」を獲得するにも、世のため、ひとのために、したがってまた「君主」に「奉仕」し、自分を犠牲に供し「国権」と結びつかなくてはならないし、さらに(ウ)「財富」を獲得し保つためにも、恩恵を広く世人に頒かち与えなければならない。ここに((ア)(イ)(ウ))「罪と肉とに死して『霊』にかえる」ことに相応するものがある。かくて①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」、②「子の位」にあたるものは「臣民」また「財富」、③「霊の位」にあたるものはたとえば「廷臣」の「君主への献身」あるいは「財富」の「国権への還帰」だ。(279-280頁)
★しかし「彼岸」と「此岸」との「連絡」を、「現実的世界」(「此岸」)に即して「内在的」に行うことは、「信仰」(「彼岸」)のよくなしえないところだ。というのも「信仰」の立場はどこまでも「彼岸」だからだ。(279頁)
☆「信仰」の立場においては、かくて「彼岸」と「此岸」との「連絡」のための「媒介づけ」も、「彼岸的」であり、「現実」に対しては「外面的」たるのほかない。(280-281頁)
☆かくて「彼岸」と「此岸」との「連絡」のための「媒介の行為」は、「信仰」の立場においては、「奉仕」(断食・苦行・喜捨・献納など)と「讃美」(讃歌・祈禱など)とである。(281頁)
☆これらは「現実の世界」における「廷臣」の「奉公」と「頌辞」とに該当する。(281頁)
(67)-2 ここでの「信仰」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」と解してよい!
★さて「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として意識するもの」、言い換えれば「『絶対精神』の立場において成立するもの」だ。(281頁)
☆ところがここでの「信仰」は「彼岸の世界を『表象』する」ものであるという理由で、ヘーゲルは「宗教」ではないとするが、先述したように、「信仰」は実質上は「宗教」であり、しかも「クリスト教」であることは明らかだ。(281頁)
《参考》ヘーゲルは、ここでの「信仰」はまだ「宗教」ではないと言う。というのは「宗教」が「絶対実在を自己として意識する」ものであるのに対し、「信仰」は「絶対実在を彼岸として『表象』する」にすぎないからだ。しかしヘーゲルにとって、およそ「宗教」は「表象性」をまぬがれえないものであって、最高の「宗教」たるクリスト教でさえそうだ。だから意識発展の段階のいかんに応じて重点の置き方違うだけで、実質から言えば、ただ今の「信仰」も「宗教」であるにちがいない。(278頁)
★しかも「信仰の世界」が「『国権』と『財富』とからなる『現実の世界』」との対応をもっていることも明らかなのだから、ここでの「信仰」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」と解してよい。(281頁)
(67)-2-2 ここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」ではない!「イエナ時代」(1801-1807)のヘーゲルはむしろ「カトリシズム」への同情を示している!
★ただここでの「信仰」の歴史的規定、すなわちこの「信仰の世界」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」だとする(ヘーゲルの)見解については、疑惑がありうる。(281頁)
☆なぜなら次に論ぜられる「透見」が「啓蒙」にほかならないところからすると(Cf. (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」・Ⅱ「啓蒙」)、ここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」をさすのではないかとも考えられる。(281頁)
☆しかしここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」をさすのでは「ない」と言わざるをえない。その理由は以下の通りだ。(281頁)
(ア) ヘーゲル『精神現象学』(C)「理性」(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」の段階は、全部、「フランス」を中心として展開されていることは明らかだが、「フランス」では「宗教改革」は顕著でなかった。(281頁)
(イ)それにヘーゲルが「ルターの宗教改革」に対して「現代への世界史的転換点」として重大な意義を与えるのはベルリン大学教授(1818-1831死)になってからのこと、特に『歴史哲学講義』においてのことだ。(281頁)
(イ)-2 『精神現象学』(1807)を書いたヘーゲルにとって、「現代への世界史的転換点」の意義を持つのは「フランス革命」だった。「イエナ時代」(1801-1807)のヘーゲルはむしろ「カトリシズム」への同情を示している。(281-282頁)
(イ)-3 ルカーチ(1885-1971)は、「イエナ時代」(1801-1807)と「ベルリン時代」(1818-1831死)とで、「ヘーゲルの史観」に変化をきたしたことをしきりに証明しようとしているが、「それは正しい」と金子武蔵氏は言う。(282頁)
★かくてヘーゲルがここで「信仰」(「信仰の世界」)と言うものは、「宗教改革」の有無にかかわりなく、「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなし、支えとなっていた『宗教』」だと言ってよい。(282頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その3)(280-282頁)
(67)「信仰の世界」(「彼岸」)と「現実の世界」(「此岸」)との「連絡」をつけることが必要だ!「信仰」の立場においては「連絡」のための「媒介づけ」も、「彼岸的」だ!「奉仕」(断食・苦行・喜捨・献納など)と「讃美」(讃歌・祈禱など)!
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)において、「信仰の世界」は「彼岸」であり、「現実の世界」(「現実の国」)は「此岸」だ。(280頁)
☆しかし「彼岸」(「信仰の世界」)も「彼岸」のままにとどまっては無意義だし、まして「信仰の世界」自身が「子の位」において「現実的世界」を肯定したのである以上、「彼岸」と「此岸」との「連絡」をつけることが必要になる。(280頁)
《参考》①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ。なぜなら「国権」は「普遍的」で「つねに自己同一を保つ」ものだからだ。しかし「国権」も「国権」として自分を保つためには、むしろ「財富」として自分を「個別化」して、「臣民」各自に生活上の幸福を享楽させ、彼らをいわば「子」として慈愛をもって遇することが必要だ。かくて②「子の位」にあたるものは「臣民」各自であり、また「財富」だ。☆ところで③(ア)「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない。(イ)「財富」を獲得するにも、世のため、ひとのために、したがってまた「君主」に「奉仕」し、自分を犠牲に供し「国権」と結びつかなくてはならないし、さらに(ウ)「財富」を獲得し保つためにも、恩恵を広く世人に頒かち与えなければならない。ここに((ア)(イ)(ウ))「罪と肉とに死して『霊』にかえる」ことに相応するものがある。かくて①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」、②「子の位」にあたるものは「臣民」また「財富」、③「霊の位」にあたるものはたとえば「廷臣」の「君主への献身」あるいは「財富」の「国権への還帰」だ。(279-280頁)
★しかし「彼岸」と「此岸」との「連絡」を、「現実的世界」(「此岸」)に即して「内在的」に行うことは、「信仰」(「彼岸」)のよくなしえないところだ。というのも「信仰」の立場はどこまでも「彼岸」だからだ。(279頁)
☆「信仰」の立場においては、かくて「彼岸」と「此岸」との「連絡」のための「媒介づけ」も、「彼岸的」であり、「現実」に対しては「外面的」たるのほかない。(280-281頁)
☆かくて「彼岸」と「此岸」との「連絡」のための「媒介の行為」は、「信仰」の立場においては、「奉仕」(断食・苦行・喜捨・献納など)と「讃美」(讃歌・祈禱など)とである。(281頁)
☆これらは「現実の世界」における「廷臣」の「奉公」と「頌辞」とに該当する。(281頁)
(67)-2 ここでの「信仰」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」と解してよい!
★さて「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として意識するもの」、言い換えれば「『絶対精神』の立場において成立するもの」だ。(281頁)
☆ところがここでの「信仰」は「彼岸の世界を『表象』する」ものであるという理由で、ヘーゲルは「宗教」ではないとするが、先述したように、「信仰」は実質上は「宗教」であり、しかも「クリスト教」であることは明らかだ。(281頁)
《参考》ヘーゲルは、ここでの「信仰」はまだ「宗教」ではないと言う。というのは「宗教」が「絶対実在を自己として意識する」ものであるのに対し、「信仰」は「絶対実在を彼岸として『表象』する」にすぎないからだ。しかしヘーゲルにとって、およそ「宗教」は「表象性」をまぬがれえないものであって、最高の「宗教」たるクリスト教でさえそうだ。だから意識発展の段階のいかんに応じて重点の置き方違うだけで、実質から言えば、ただ今の「信仰」も「宗教」であるにちがいない。(278頁)
★しかも「信仰の世界」が「『国権』と『財富』とからなる『現実の世界』」との対応をもっていることも明らかなのだから、ここでの「信仰」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」と解してよい。(281頁)
(67)-2-2 ここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」ではない!「イエナ時代」(1801-1807)のヘーゲルはむしろ「カトリシズム」への同情を示している!
★ただここでの「信仰」の歴史的規定、すなわちこの「信仰の世界」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」だとする(ヘーゲルの)見解については、疑惑がありうる。(281頁)
☆なぜなら次に論ぜられる「透見」が「啓蒙」にほかならないところからすると(Cf. (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」・Ⅱ「啓蒙」)、ここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」をさすのではないかとも考えられる。(281頁)
☆しかしここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」をさすのでは「ない」と言わざるをえない。その理由は以下の通りだ。(281頁)
(ア) ヘーゲル『精神現象学』(C)「理性」(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」の段階は、全部、「フランス」を中心として展開されていることは明らかだが、「フランス」では「宗教改革」は顕著でなかった。(281頁)
(イ)それにヘーゲルが「ルターの宗教改革」に対して「現代への世界史的転換点」として重大な意義を与えるのはベルリン大学教授(1818-1831死)になってからのこと、特に『歴史哲学講義』においてのことだ。(281頁)
(イ)-2 『精神現象学』(1807)を書いたヘーゲルにとって、「現代への世界史的転換点」の意義を持つのは「フランス革命」だった。「イエナ時代」(1801-1807)のヘーゲルはむしろ「カトリシズム」への同情を示している。(281-282頁)
(イ)-3 ルカーチ(1885-1971)は、「イエナ時代」(1801-1807)と「ベルリン時代」(1818-1831死)とで、「ヘーゲルの史観」に変化をきたしたことをしきりに証明しようとしているが、「それは正しい」と金子武蔵氏は言う。(282頁)
★かくてヘーゲルがここで「信仰」(「信仰の世界」)と言うものは、「宗教改革」の有無にかかわりなく、「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなし、支えとなっていた『宗教』」だと言ってよい。(282頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」