宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「脱自的に伸長した時間性としての現存在」への「《時間》の分与」!言明された《いま》は、相互的世界内存在の公開性のなかにある!ハイデガー『存在と時間』「第1部」「第2編」「第6章」「第79節」(その3) 

2020-05-10 13:28:16 | Weblog
※ハイデガー(1889-1976)『存在と時間』(1927)「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第6章 時間性と、通俗的時間概念の根源としての内時性」「第79節 《現存在の時間性》と《時間の配慮》」(その3) 

(7)非本来的実存の無覚悟性は、《私は時間がなくて》と話す!
I 「本来的実存と非本来的実存」を「それぞれをもとづける時間性の時熟様態」という観点から性格づける。(410頁)
I-2 「非本来的実存の無覚悟性は、不予期的=忘却的現持の様態において時熟する。」つまり「あわただしく仕事におのれを紛らせながら、無覚悟の人はその仕事に自分の時間を奪われている。」だから彼は「《私は時間がなくて》と話す」。(410頁)
《参考1》第68節で、本来的時間性と非本来的時間性が対照される。すなわち未来としての「先駆」と「予期」、現在としての「瞬間(瞬視)」と「現持」、過去としての「反復」と「忘却」が対照される!
《参考2》了解における「非本来的既住性(既在性)(※過去)」が「忘却」or「忘却性」である。(339頁)
《参考3》「忘却」という「(※時間的)脱自態」は、「ひとごとでない自己の既住性(既在性)(※過去)からの脱却――しかもおのれ自身にとって閉ざされた脱却――」である。(339頁)

(7)-2「本来的実存」の「覚悟性」において「瞬視が状況を本来的に現持するとき」、その「瞬視的実存」は「運命的に全き伸長(※《間》)として時熟する」!
J 「本来的実存の時間性の特徴は、覚悟性において・・・・《常にゆとりをもつ》ことにある。」(410頁)
J-2 「覚悟性の時間性」のうち、「現在」は「瞬視」という性格を持つ。(410頁)
J-3 「瞬視が状況を本来的に現持するとき、その現持は・・・・既住的将来のうちに抱かれている。」「瞬視的実存は、本来的な歴史的自立性という意味において、運命的に全き伸長として時熟する。」(410頁)
J-4 「覚悟ある人にとっては、開示されたものごとは、・・・・無覚悟のうちに彼の時間をうばわれるというような形で出会うことが決してない」。(410頁)

(7)-3 「脱自的に伸長した時間性(※《間》)としての現存在」に「《時間》が分与されている」!
K 「脱自的に伸長した時間性(※《間》)としての現存在に、その時間性にもとづいて《現》が開示されており、そしてこれとともに《時間》が分与されている」。(410頁)
《参考4》「現存在はおのれ自身を伸張する」。「現存在自身の存在がはじめから伸張(Erstreckung)として構成されている」。「誕生と死との・・・・《間》は、実はすでに現存在の存在に含まれている。」「誕生と死というこの《両端》とそれらの《間》とは、現存在が事実的に実存しているかぎりは、現に存在している。」(374頁)

(8)言明された《いま》は、各人によって、もともと相互的世界内存在の公開性なかで述べられている!
L 「現存在は、開示されてあるゆえに、事実的にはほかの人びととの共同存在の様相で実存している。」(410頁)
L-2 「言明された《いま》は、各人によって、もともと相互的世界内存在の公開性なかで述べられている。」(411頁)

(8)-2 《時間》が帯びる公開性:日常的配慮は自分にかける《時間》が、自然に与えられている時間、世間(das Man)であてにできる時間として受けとる!
L-3 「《時間》が帯びる公開性」:「日常的配慮は自己を配慮された《世界》の側から了解するから、それは、自分にかける《時間》が自己の《時間》であることに気づかず、むしろそれを自然に与えられている時間、世間(das Man)であてにできる時間として受けとり、それを配慮的に借用している。」(411頁)
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