宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その5-2):「判断」は「弁証法」的!「高貴なる意識」と「下賤なる意識」!

2024-08-09 21:18:59 | Weblog
(61)-3 ヘーゲルにおける「判断」はいつも「弁証法」的なので、必ずしも《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》とは限らず、むしろその反対、《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》も成立する!
★いかにして「主体」の側面で《「善」が「悪」になり、「悪」が「善」になる》のか?(264頁)
★ヘーゲルにおける「判断」はいつも「弁証法」的なので、必ずしも《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》とは限らず、むしろその反対、《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》も成立する。(263頁)

《参考1》「教養の世界」には、①「客観的」(「現実意識」)には「国権」と「財富」との対立、また②「主体的」(「純粋意識」)には「善」と「悪」との対立という2つの対立がある。しかしこれら(①②)は「教養の世界」の「概念」における2つの対立である。ヘーゲルの「論理学」では「概念」はいつも「判断」に、そして「判断」は「推理」に発展していく。かくて「判断」の段階と、「推理」の段階とが考えられなくてはならない。(263頁)
《参考1-2》この場合の「判断」はどのようなものか?「判断」はむろん「客体」と「主体」との関係、したがってここでは「客体的対立」(「国権」と「財富」)と「主体的対立」(「善」と「悪」)との関係だ。(263頁)
☆「判断」として最初にあげられるのは、③「国権」は「善」であり、これに対して「財富」は「悪」ということだ。すなわち「国権」(「風」)は「普遍的」でいつも「自同性」を保つので「善」だ!これに対し「財富」(「水」)は《「個別」あるいは「対他」・「対自」》でいつも「自己とちがったもの」になるので「悪」だ!(263頁)

★さて最初にあげられる「判断」は(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》だ。(264-265頁)
☆「国権」が絶えず「自己同一を保っているもの」(「善」)であるのに対し、「財富」は「『水』のごとくつねに『おのれ自身と異なるもの』になり、いかなるものによってもどのようにも使われ享受されうるものであり、我執我欲の対象」(「悪」)だ。(264頁)

《参考2》☆「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。(262頁)
☆さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

★ところがドッコイ、「判断」は(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》だけだとは、そう簡単にはいかない。(264頁)
☆すなわち(イ)《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》との「判断」もある。なぜなら「主体」自身が《「即自存在」と「対他存在」》、《「普遍性」と「個別性」》という相反した両面を具えているからだ。(264頁)
☆最初は簡単に(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》と「判断」されたが、なぜそう「判断」されたかというと主体の「即自存在」を基準とした時、これには「国権」が適合し「善」だが、「財富」は適合せず「悪」だからだ。(264-265頁)
☆これに対し「主体」には「対他存在」もまた具わっている。これを基準とすれば、(イ)《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》となる。(265頁)

《参考3》ヘーゲルは、「実体」(※「反省」以前の全体)が「自然的直接的」であるという理由で、「自然界」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素になぞらえて「実体」の構造を説明する。(259頁)
☆「風」は、「いかなるところへも浸透」し、「どこでも自己同一性を保っている」ので、「風」の特徴は「普遍性」に、「即自存在」にある。(259頁)
☆これに対して「水」は「いかようにも形成」され、いつも「自分自身とちがった他のものになる」ので、「水」の特徴は「個別性」に、「対他存在」にある。(259頁)
☆「風」と「水」との2つが「相反する」元素であって、「相互に他に転換する」ところに「自然界」は成立する。(259頁)

(61)-4 (あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」:《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する!(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」:《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する!
★「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
☆しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
☆要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)

(61)-5 「教養の世界」の3つの対立:①「国権」と「財富」との対立、②「善」と「悪」との対立、③「高貴なる意識」と「下賤なる意識」との対立!
★かくて「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)には3つの対立がある。①「国権」と「財富」との対立、②「善」と「悪」との対立、③「高貴なる意識」(「素直な態度」)と「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)との対立だ。(265頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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