宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

現存在は「終末(Ende)に達している」存在でなく「終末(Ende)へ臨んでいる」存在だ! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第48節」

2019-11-22 10:55:17 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第48節 未済(Ausstand)、終末(Ende)ならびに全体性(Ganzheit)」

(3)「現存在が存在している」かぎり、それには「未然」、「不断の未済」がそなわっている!
E 「現存在は終末に至る」が、「かような『終わり』がどのようにして、実存する存在者の全体存在を構成しうるのかを示すこと」が眼目である。(242頁)
E-2 死に関する三つのテーゼ。(1)「現存在が存在している」かぎり、それには「未然」、「不断の未済」がそなわっている。(2)現存在という存在者が「終末にいたること(未済分の存在上の除去)」は、「もはや現に存在しなくなる」という性格をもつ。(3)「終末にいたること」は「代理不可能」である。(242頁)

(3)-2 現存在の「不全性」つまり「未然」は、「未済」(Ausstand)(つまり「総額」の「未済分の回収」)といったものでない!
E-3 「死にいたってはじめて終わりを告げる不断の『不全性』」を現存在は持つ。(242頁)
E-4 現存在のこの「未然」(Noch-nicht)は、「未済」(Ausstand)と異なる。つまり「総額」の「未済分の回収」といったものではない。(242-3頁)
E-5 現存在は「未然が充たされる」と「総額」となるのでなく、「そのときはもはや存在しなくなる。」(243頁)
《感想3》現存在の「不全性」とは、現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」であるということだ。「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。(221頁参照)

(4) 現存在の「未然」は、果実の「未熟」に似る!
F 現存在の「未然」は、果実の「未然」である「未熟」に似る。(243-4頁)
F-2 「成熟しつつある果実」は、「成熟していくことにおいて未熟である。」果実において「未然は、その果実自身の存在のなかへすでに取りこまれている。」(244頁)
F-3 「現存在も、存在している間は、いつもすでにおのれの未然を存在する。」(244頁)
F-4 要するに「果実も現存在も・・・・いつもすでにおのれの未然を存在している。」(244頁)

(4)-2 「終末」(Ende)において「果実は完熟に達しておのれを全うする」が、現存在は「完成なしに終わる」!
G 「『終末』としての(※果実の)完熟」と「『終末』としての(※現存在)死」は存在論的な終末構造が異なる。(244頁)
G-2 「終末」(Ende)において、「果実は完熟に達しておのれを全うする。」しかし現存在は「完成なしに終わる」。(244頁)

(5)現存在は「終末(Ende)に達している」存在でなく「終末へ臨んでいる」存在(「終末へ臨む存在」)だ!
H 現存在は「おのれの未然を存在しており・・・・おのれの終末をも存在している。」(245頁)
H-2 そして「死という言葉が指している終わりは、現存在が終末に達していること(Zu-Ende-sein)をいうのではなく、この存在者が終末へ臨んでいることをいう」。(245頁)

(6)「現存在の全体性(Ganzheit)」
I 「終末へ臨む存在」が実存論的に解明されてはじめて、「(「終末」(Ende)としての死によって構成されるといわれる)現存在の全体性(Ganzheit)」の意味も明らかになる。(245頁)
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