宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その8):(ニ)「比重」と「凝集力」とは「比例的」な関係であり、「内面的な関係」、「本当の意味での法則」即ち「概念」でない!

2024-06-26 13:48:01 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その8)(178-180頁)
(38)「外は内の表現である」という命題:(ニ)「比重」と「凝集力」との関係!「『法則』を定立する考え方」は、「無機物」の「観察」にこそみられる!
★「『法則』を定立する考え方」は、「それぞれの『契機』を固定させて、それらの間の『数量的関係』しか見ない」。(178頁)
☆このような「『法則』を定立する考え方」は「有機体」の「観察」(「観察的理性」)にみられるだけでない。それはむしろ「無機物」の「観察」にこそみられるという理由で、ヘーゲルは(ニ)「比重」と「凝集力」との関係を持ち込んでくる。(178頁)
★こうすることによってヘーゲルは、「有機体」のほかに「非有機体」をも考慮して、「有機体」を重んじつつも、ともかくも「自然全体」の「観察」(「観察的理性」)という立場を維持する。(178頁)

(38)-2 「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」という基本法則:「比重」(※「質量」)は物体の「本質」として「内なるもの」だ、他方「凝集力」によって代表される形態・色彩・硬度などは、「内なるもの」が「外」へ発現したところに生ずるところの「外なるもの」だ!
★シュテッフェンス(Henrik Steffens)が1801年『地球の内的な自然史』という論文で「金属」を主要の材料としつつ、自然物の「比重」とその他の「形態・色彩・硬度などの性質」すなわち「凝集力」とは、「比例的な」関係があると考えた。(179頁)
☆シュテッフェンスは「比重」に対立する「もろもろの性質」は、「凝集力」でひとまとめにできるとした。(179頁)
☆そして彼は、「比重」が変わるのに「反比例」して「凝集力」、したがって「凝集力によって一括される他のもろもろの性質」は変わるとした。(179頁)

★ヘーゲルは、シュテッフェンスのこのような見解を採用し、そこに「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」という基本法則のひとつの適用を見る。すなわち「比重」(※「質量」)はそれぞれの物体をそれぞれの物体とするゆえんの「本質」として「内なるもの」だ。これに対して「凝集力」によって代表される形態・色彩・硬度などは、「内なるもの」が「外」へ発現したところに生ずるところの「外なるもの」だ。(179頁)

(38)-3 「物体自身」or「内なるもの」or「本質」は、「それ自身に対して『外的なもの』にすぎぬ『数的制限』」だけをもち、「比重」となる!「比重」(※質量)と「凝集力」(or「性質」)との間に、「比例的な関係」が成り立ちはするが、しかしこれは「内面的な関係」、「本当の意味での法則」即ち「概念」ではない。
★しかしヘーゲルはシュテッフェンス流の考えに対して批判もする。(179頁)
☆「『精神』を『精神』たらしめるものは『自由』である」。それと同じく「『物体』を『物体』たらしめるものは『重力』(※質量)、したがって『比重』である」。だからシュテッフェンスやシェリングが「それぞれの『物体』をそれぞれの『物体』とするところの本質を『比重』とした」のはもっともではある。そのようにヘーゲルは言う。(179頁)

★しかし「物体自身」という「内なるもの」即ち「本質」(※「比重」)が、それの「外」への現象であるもろもろの「性質」(※「凝集力」)から分離され、もろもろの「性質」にたいして固定される。かくて「物体自身」or「内なるもの」or「本質」は、なんとも限定のできないものであり、だからこそ、それ(「物体自身」or「内なるもの」or「本質」)は、「それ自身に対して『外的なもの』にすぎぬ『数的制限』」だけをもち、「比重」となる。(179-180頁)

★そうして(「比重」に対する)もろもろの「性質」も、またこれらが帰着する「凝集力」も、「比重」(※質量)に対して、全く「外面的」な「性質」であるにすぎぬ。(180頁)
☆だからこそ「比重」(※質量)と「凝集力」(or「性質」)との間に、「比例的な関係」が成り立ちはするが、しかしこれは「内面的な関係」、「本当の意味での法則」即ち「概念」ではない。(180頁)
☆換言すれば「外は内の表現」という法則は、この場合にも、「概念」としては十分には成立しえない。(180頁)

《参考1》(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)
☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)

《参考2》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

《参考3》「有機体」における「外は内の表現である」という命題:(イ)「有機体」(「内」)と「環境」(外)との関係!「環境」(「外」)を見れば、おのずと「動物自身」(「内」)が分かる!だが「環境」が原因で「有機体」が結果であるという「因果関係」ではない!ヘーゲルは「環境」と「有機体」の「相互作用」の立場、あるいは「有機体」の「目的論的」立場をとる!(173-174頁)

《参考4》「基本法則」は「『外なるもの』は『内なるもの』の『表現』である」ということだ。(161頁)
☆これには、次のような場合がある。(161頁)
(イ)「有機体」と「環境」との関係
(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係
(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係
(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係
(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)
(ヘ)「人相術」
(ト)「骨相術」
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)

(38)-4 およそ「自然界」には「概念」あるいは「理性」が十分に見いだされえない!
★かくて「外は内の表現である」(Cf. 180頁には「内は外の表現である」と書かれているが誤りか?)という基本命題は《 (イ) 「有機体」と「環境」との関係》、《 (ロ) 「感受性」と「反応性」と「再生」との関係》、《 (ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係》、《 (ニ) 「比重」(※質量)と「凝集力」との関係》のいずれについても本質的には成り立たない。(180頁)
☆いいかえると「真の意味での概念的関係」、即ち「個別-特殊-普遍の概念的関係」は「自然界」には見いだされえない。これは「無機的自然」にかぎったことでなく、「有機的自然」についても同様である。そこでは「『類』を限定して『種』にまで到りうるとしても、『個物』にまで到りえない」。これはおよそ「自然界」には「概念」あるいは「理性」が十分に見いだされえないことを意味する。(180頁)
☆およそこのような結論を下してヘーゲルは「論理的心理的法則」((ホ)「論理学的心理学的法則」)に移って行く。(180頁)

★「観察」の見地((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)からいうと、いままでは「観察」されるものは「自然」であり、そのうちには「概念」は見いだされえないという結論がえられた。(180頁)
☆これからのちは、この結論にしたがって、「自己意識」あるいは「精神」の「観察」に向かい、そこに果たして「概念」あるいは「理性」が見いだされうるかが考察される。(180頁)

《参考1 》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする