※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)
(109) 百田氏の誤り①:日本政府が「メディア問題に鈍感であった」と百田氏は述べるがこれは誤りだ!(425-426頁)
H 「テレビの登場」の項で百田尚樹『日本国紀』は次のように述べる。「公共放送のNHKを除いて、民間のテレビ事業に参入したのは新聞社だった。多くの先進国では新聞社がテレビ局を持つこと(クロスオーナーシップという)は原則禁止されているが、当時、メディア問題に鈍感であった日本政府は禁止しなかった。これにより多くの弊害が生じたが、それらは改善されることなく現在に至っている。」(百田461頁)
《参考》「クロスオーナーシップ」は、同一資本が 新聞・TV・ラジオなど 多種多数のメディアを傘下に置ける制度で、《言論の自由》を狭めると批判される。
H-2 百田氏の誤り①:日本政府が「メディア問題に鈍感であった」と百田氏は述べるがこれは誤りだ。すなわち1953年、民放テレビ局として日本テレビが放送を開始するが、読売新聞社(正力松太郎社長)などが出資し日本テレビを設立した。当初は東京を中心に支局を置く計画だったが郵政省(当時)がストップさせた。(※「放送法」で、民放テレビ局において、中央局が地方局を所有することは許されていない。)(426頁)
(109)-2 百田氏の誤り②:「クロスオーナーシップ」規制について日本政府が《放置》していたように百田氏は述べるが、誤りだ。(426-427頁)
H-3 百田氏の誤り②:「クロスオーナーシップ」について「それらは改善されることなく現在に至っている」と日本政府が《放置》していたように百田氏は述べるが、誤りだ。(426-427頁)
H-3-2 鳩山紀夫(民主党)政権の2010/3/14原口一博総務相が「クロスオーナーシップ」禁止の法制化について発言。「クロスオーナーシップ規制」の見直しを盛り込んだ放送法改正法案が閣議決定される。しかし同年、民主党が参院選で大敗し、「クロスオーナーシップ規制」を削除し、改正放送法が成立した。(426-427頁)
(109)-3 米国CIAが正力松太郎を工作員に仕立てようとしていた(アメリカ公文書館によって公開された外交文書による)!
H-4 百田尚樹『日本国紀』は「『WGPI洗脳世代』が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始める」(百田465頁)と述べ、朝日新聞を「WGIP」と絡めて批判する。(427頁)
《参考》「WGIP」(※GHQの《戦争責任を伝える計画》で1947年にほぼ終了)および「WGIP洗脳論」については既述。参照:(89)~(92)、346-358頁等。
H-4-2 しかし百田氏が「日本では、世論は新聞社とテレビ局によって操作される部分が非常に大きい」(百田462頁)というのであれば、「1947年にはほぼ終わっていた計画(※「WGIP」)を例にするよりも、CIAとメディアの関連を指摘した方が『陰謀論』としては面白かったように思う」と浮世氏が言う。(参照:有間哲夫『日本テレビとCIA』2006年。)(427頁)
H-4-2 -2 「『週刊新潮』2006/2/16号で早稲田大学有間哲夫教授が、正力松太郎の戦犯不起訴後、CIAが正力を工作員に仕立てようとしていたことを、アメリカ公文書館によって公開された外交文書から指摘し、話題になった。」(427頁)
《参考1》「【特別読物】CIA『政界裏工作』ファイル発見!ポダムと呼ばれた『正力松太郎』」早稲田大学教授 有馬哲夫」(『週刊新潮』2006/2/16号)の要旨。
(a) CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎(1885-1969):正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実が明らかになった。その根拠は米国公文書館の公開された外交機密文書である。そのファイルはきわめて量が多い。同じCIAのファイルとして既に研究されている岸信介元首相や重光葵元外相のものと比べても、圧倒的な厚みだ。CIAが正力を徹底してマークしていたことがわかる。CIA は正力を「ポダム」という暗号で呼んでいた。
(b)正力は東京帝大を出て警察庁につとめ戦前、無政府主義者、共産主義者の取締りで名をあげた。その正力が政界の大物から大金を借り、当時わずか5万部に低迷していた読売新聞を買収し、自ら陣頭指揮をとって奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、『毎日』、『朝日』につぐ大新聞に『読売』を成長させた。米国はその正力に目を付け、援助を与えることによって、彼のマスコミに対する大きな影響力を利用しようとした。日本全土に、「親米・反共のプロパガンダ」を流すためだ。
(c)今回、明らかになった事実として、CIAが1000万ドルの借款を正力に与え、「全国縦断マイクロ波通信網」を建設させようとしていた計画がある。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する予定だった。
(c)-2 この工作は直前で破綻した。その原因は「正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・・近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という怪文書がばらまかれ、国会で取り上げられCIAが作戦を見直したからだ。
(d)CIAは、資金、女性問題、麻薬によるコントロールまで、あらゆる情報をファイルし、工作対象者をマークしている。正力のフィル名は「テレビのベンチャーに対するアメリカの資金供与」と記載されていた。
《参考2》有間哲夫『日本テレビとCIA』(2006年)の要旨。
[1]本著の早稲田大学や文部科学省向けのタイトルは「日本のテレビ放送の成立におけるアメリカ合衆国の反共産主義政策の影響」である。その目的はこれまで憶測や伝聞、あるいは企業のPRや個人の自慢話や事実の意図的捏造と隠蔽の集大成だった日本のテレビの「神話」を客観的資料によって裏付けして検証可能な「歴史」とすることだ。
[2]文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが正力はCIAが「自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていた」ことは承知していた。
[3]しかしながら、さまざまな文書を読んでわかることは、正力は「自分の会社の利益を第一に考える」が、かといって「国益に反することはしなかった」ということだ。つまり、「第一に自分の会社のためになり、第二に国益にもかなう場合」はことを進めるが、「自分の会社のためになるが国益に反する場合」は敢えてしなかったということだ。
[4] したがって、正力が「国を売った」という事実は、今のところ見つかっていない。これからもでてこないだろう。彼は彼なりに愛国者であり、国士であり、だからこそ財界有力者や政治家の支持を受けてメディア界の大物にのしあがることができたのだろう。
[5] それに「売国奴」は、アメリカの名門出身者が多いCIA関係者にも蔑まれる。しかし正力は1954年以降の「原子力発電導入」のときは、操られるどころかCIAと虚虚実実の駆け引きをしている。つまり、正力は原子力導入にCIAの支援を得ることで、5年以内の商業発電を目指し、この実績をもとに「総理大臣の椅子」を手に入れようとしていた。CIAは正力を利用して「第五福竜丸事件」(1954年)で高まった「日本の反原子力世論」を讀賣新聞と日本テレビを動員させて沈静化し、これを果たしたのちに「日本への核兵器の配備」を政府首脳に呑ませようとしていた。
[5]-2 結局、CIAとUSIA(合衆国情報局)は「讀賣グループの原子力平和利用キャンペーン」には手は貸すものの、アメリカ政府は「原子炉の日本への輸出」は渋った。「日本やドイツのような科学技術の水準が高く、かつ敵国だった国には原子力平和利用の支援をひかえる」というのが方針だった。その一方でイランやパキスタンやインドなどは積極的に支援した。
[5]-3 アメリカの態度に業を煮やした正力は、讀賣新聞を使ってアメリカの外交を批判し、かつ「イギリスから原子炉を購入する」ことを決めてCIAを激怒させた。(それでも実験炉はアメリカから購入して抜け目なくバランスをとっている)
[5]-4 このような事実に照らしてみると、「正力はCIAに操られていた」というより、少なくとも原子力導入の時期は、「CIA と互角にわたりあっていた」というほうが正しいといえる。正力とCIAの関係は、「持ちつ持たれつの、不思議な共生関係」であって、「どちらかがどちらかを支配するという関係」ではなかった。終戦直後、巣鴨プリズンに押し込められていた時期の正力とGHQの関係とは明らかに異なっていた。
[6]それにしてもCIAやUSIA関係者は、正力の「たかり根性」には往生していた。正力は上院外交委員会(およびその顧問のホール・シューセン)には「マイクロ波通信網」を、CIAには「原子力発電所」と「カラーテレビ」をただでくれとしつこくねだった。
[6]-2 結局、最後のものだけはCIAからもらえたが、他のものはだめだった。とはいえ、正力は「原子力発電所」をねだるときでさえ、「マイクロ波通信網」はもういらないとは決していわなかった。「カラーテレビ」をねだるときでさえ、タイのテレビと放送網と提携するためにやはり「マイクロ波通信網」が必要だと言っている。
[6]-3 また、何でも自分の手柄にしたがり、「原子力平和利用博覧会の成功も自分のおかげだ」と大いばりして、費用と労力をほとんど負担したUSIA関係者をうんざりさせた。にもかかわらず、「どことなく憎めないやつだ」とUSIA、CIA関係者に思われていたふしがある。
[6]-4 自分の欲望や感情に素直で、大物にしては人間としてわかりやすく、ナイーヴですらあるからだ。あの「ジャガイモに目をつけたような顔」で子供じみた自画自賛とおねだりをやるのだからアイヴィーリーグ出身のエリートたちはついつい警戒をゆるめてしまうのだ。
[7] しかし、CIAにとって正力は「思いのままに操れるような人間」ではなく、「気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない油断のならない人間」だった。この意味で正力は、吉田や鳩山や岸よりも手ごわかったといえる。正力の持つ「讀賣新聞や日本テレビ」に対する影響力を利用するためにCIA関係者は正力が死ぬまでこの「タフ・ネゴシエイター」といろいろ取引しなければならなかった。
[8]これまでゆがめられ、矮小化されてきた正力像、とくに柴田秀利の私怨によって捏造された正力像は改められてしかるべきだろう。「プロ野球の父」「テレビの父」「原子力の父」がこれまで書かれてきたような卑小な人物であるはずがない。これだけの多く偉業をなし得た人物は日本の現代史ではほかに見当たらない。
[8]-2 「正力はアメリカに利用された」というかも知れないが、占領期とそれに続く時代では、そうすることによってしか歴史に残るような大業はなしえなかった。吉田茂とて同じではなかったか。だが、吉田を評価するにせよ、批判するにせよ、彼が歴史的に大きな役割を果たしたということは否定しないだろう。正力の場合も同じだ。
[8]-3 少なくとも私(有間哲夫)にとって正力は「昭和の傑物」のナンバーワンだ。いろいろ調べてみてこれほど面白い人物はない。ただし、彼が生きていたとして、彼の下で働こうとは金輪際思わない。
《参考3》有間哲夫「正力の原子力導入推進キャンペーンとCIAの心理戦」2006/11/25発表(於東京経済大学)の発表要旨。
(ア)讀賣新聞・日本テレビの1955年前半の「原子力平和利用使節団」、後半の「原子力平和利用博覧会」などの一連のメディア・キャンペーンは、正力松太郎とアメリカ情報機関(CIA、国務省、合衆国情報局、極東軍司令部)の合作だった。
(イ)正力のキャンペーンの目的はきわめて政治的なもので①産業界なかんずく電力業界の支援のもとに「政界」に打ってでること、②早期に「原子力発電」を実現して「総理大臣」の椅子を手に入れること、③それによって宿願の「マイクロ波通信網」を手に入れることだった。
(ウ)アメリカ側の目的は、①アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を日本で実現すること、②「第五福竜丸事件」(1954)で戦後最高の高まりをみせた反原水禁=反米運動を沈静化させること、③日本に「核兵器」を配備することを日本政府首脳に飲ませることだった。
(エ)両者(正力とアメリカ側)が目的を達成するためには、広島・長崎の原爆投下と第五福竜丸事件によって根強い「原子力アレルギー」を持っている日本の世論を転換する必要があった。この点で利害が一致したために両者は共同で「メディア・キャンペーン」(アメリカの側からすれば「心理戦」)を行った。
(オ)しかしながら、一方で正力は「早期に原子炉を手に入れ原子力発電を実現したい」のに対し、アメリカ側は「日本の原子力発電の実現をなるべく遅らせようとしていた」ので、やがて両者は決裂することになる。このため正力はイギリスから「コルダー・ホール型の原子炉」(※東海発電所1号炉はこの改良型、1966年運転開始、日本初の商業用原子炉)を購入することを急ぎ、のちのちまで尾を引く日本の原子力行政の混迷のもとを作る。
(109) 百田氏の誤り①:日本政府が「メディア問題に鈍感であった」と百田氏は述べるがこれは誤りだ!(425-426頁)
H 「テレビの登場」の項で百田尚樹『日本国紀』は次のように述べる。「公共放送のNHKを除いて、民間のテレビ事業に参入したのは新聞社だった。多くの先進国では新聞社がテレビ局を持つこと(クロスオーナーシップという)は原則禁止されているが、当時、メディア問題に鈍感であった日本政府は禁止しなかった。これにより多くの弊害が生じたが、それらは改善されることなく現在に至っている。」(百田461頁)
《参考》「クロスオーナーシップ」は、同一資本が 新聞・TV・ラジオなど 多種多数のメディアを傘下に置ける制度で、《言論の自由》を狭めると批判される。
H-2 百田氏の誤り①:日本政府が「メディア問題に鈍感であった」と百田氏は述べるがこれは誤りだ。すなわち1953年、民放テレビ局として日本テレビが放送を開始するが、読売新聞社(正力松太郎社長)などが出資し日本テレビを設立した。当初は東京を中心に支局を置く計画だったが郵政省(当時)がストップさせた。(※「放送法」で、民放テレビ局において、中央局が地方局を所有することは許されていない。)(426頁)
(109)-2 百田氏の誤り②:「クロスオーナーシップ」規制について日本政府が《放置》していたように百田氏は述べるが、誤りだ。(426-427頁)
H-3 百田氏の誤り②:「クロスオーナーシップ」について「それらは改善されることなく現在に至っている」と日本政府が《放置》していたように百田氏は述べるが、誤りだ。(426-427頁)
H-3-2 鳩山紀夫(民主党)政権の2010/3/14原口一博総務相が「クロスオーナーシップ」禁止の法制化について発言。「クロスオーナーシップ規制」の見直しを盛り込んだ放送法改正法案が閣議決定される。しかし同年、民主党が参院選で大敗し、「クロスオーナーシップ規制」を削除し、改正放送法が成立した。(426-427頁)
(109)-3 米国CIAが正力松太郎を工作員に仕立てようとしていた(アメリカ公文書館によって公開された外交文書による)!
H-4 百田尚樹『日本国紀』は「『WGPI洗脳世代』が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始める」(百田465頁)と述べ、朝日新聞を「WGIP」と絡めて批判する。(427頁)
《参考》「WGIP」(※GHQの《戦争責任を伝える計画》で1947年にほぼ終了)および「WGIP洗脳論」については既述。参照:(89)~(92)、346-358頁等。
H-4-2 しかし百田氏が「日本では、世論は新聞社とテレビ局によって操作される部分が非常に大きい」(百田462頁)というのであれば、「1947年にはほぼ終わっていた計画(※「WGIP」)を例にするよりも、CIAとメディアの関連を指摘した方が『陰謀論』としては面白かったように思う」と浮世氏が言う。(参照:有間哲夫『日本テレビとCIA』2006年。)(427頁)
H-4-2 -2 「『週刊新潮』2006/2/16号で早稲田大学有間哲夫教授が、正力松太郎の戦犯不起訴後、CIAが正力を工作員に仕立てようとしていたことを、アメリカ公文書館によって公開された外交文書から指摘し、話題になった。」(427頁)
《参考1》「【特別読物】CIA『政界裏工作』ファイル発見!ポダムと呼ばれた『正力松太郎』」早稲田大学教授 有馬哲夫」(『週刊新潮』2006/2/16号)の要旨。
(a) CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎(1885-1969):正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実が明らかになった。その根拠は米国公文書館の公開された外交機密文書である。そのファイルはきわめて量が多い。同じCIAのファイルとして既に研究されている岸信介元首相や重光葵元外相のものと比べても、圧倒的な厚みだ。CIAが正力を徹底してマークしていたことがわかる。CIA は正力を「ポダム」という暗号で呼んでいた。
(b)正力は東京帝大を出て警察庁につとめ戦前、無政府主義者、共産主義者の取締りで名をあげた。その正力が政界の大物から大金を借り、当時わずか5万部に低迷していた読売新聞を買収し、自ら陣頭指揮をとって奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、『毎日』、『朝日』につぐ大新聞に『読売』を成長させた。米国はその正力に目を付け、援助を与えることによって、彼のマスコミに対する大きな影響力を利用しようとした。日本全土に、「親米・反共のプロパガンダ」を流すためだ。
(c)今回、明らかになった事実として、CIAが1000万ドルの借款を正力に与え、「全国縦断マイクロ波通信網」を建設させようとしていた計画がある。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する予定だった。
(c)-2 この工作は直前で破綻した。その原因は「正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・・近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という怪文書がばらまかれ、国会で取り上げられCIAが作戦を見直したからだ。
(d)CIAは、資金、女性問題、麻薬によるコントロールまで、あらゆる情報をファイルし、工作対象者をマークしている。正力のフィル名は「テレビのベンチャーに対するアメリカの資金供与」と記載されていた。
《参考2》有間哲夫『日本テレビとCIA』(2006年)の要旨。
[1]本著の早稲田大学や文部科学省向けのタイトルは「日本のテレビ放送の成立におけるアメリカ合衆国の反共産主義政策の影響」である。その目的はこれまで憶測や伝聞、あるいは企業のPRや個人の自慢話や事実の意図的捏造と隠蔽の集大成だった日本のテレビの「神話」を客観的資料によって裏付けして検証可能な「歴史」とすることだ。
[2]文書には「本人に知られないように」ポダム(正力松太郎)をポダルトン(全国的マイクロ波通信網建設)作戦に使うと書いてある。だが正力はCIAが「自分に支援を与えることで自分を利用しようとしていた」ことは承知していた。
[3]しかしながら、さまざまな文書を読んでわかることは、正力は「自分の会社の利益を第一に考える」が、かといって「国益に反することはしなかった」ということだ。つまり、「第一に自分の会社のためになり、第二に国益にもかなう場合」はことを進めるが、「自分の会社のためになるが国益に反する場合」は敢えてしなかったということだ。
[4] したがって、正力が「国を売った」という事実は、今のところ見つかっていない。これからもでてこないだろう。彼は彼なりに愛国者であり、国士であり、だからこそ財界有力者や政治家の支持を受けてメディア界の大物にのしあがることができたのだろう。
[5] それに「売国奴」は、アメリカの名門出身者が多いCIA関係者にも蔑まれる。しかし正力は1954年以降の「原子力発電導入」のときは、操られるどころかCIAと虚虚実実の駆け引きをしている。つまり、正力は原子力導入にCIAの支援を得ることで、5年以内の商業発電を目指し、この実績をもとに「総理大臣の椅子」を手に入れようとしていた。CIAは正力を利用して「第五福竜丸事件」(1954年)で高まった「日本の反原子力世論」を讀賣新聞と日本テレビを動員させて沈静化し、これを果たしたのちに「日本への核兵器の配備」を政府首脳に呑ませようとしていた。
[5]-2 結局、CIAとUSIA(合衆国情報局)は「讀賣グループの原子力平和利用キャンペーン」には手は貸すものの、アメリカ政府は「原子炉の日本への輸出」は渋った。「日本やドイツのような科学技術の水準が高く、かつ敵国だった国には原子力平和利用の支援をひかえる」というのが方針だった。その一方でイランやパキスタンやインドなどは積極的に支援した。
[5]-3 アメリカの態度に業を煮やした正力は、讀賣新聞を使ってアメリカの外交を批判し、かつ「イギリスから原子炉を購入する」ことを決めてCIAを激怒させた。(それでも実験炉はアメリカから購入して抜け目なくバランスをとっている)
[5]-4 このような事実に照らしてみると、「正力はCIAに操られていた」というより、少なくとも原子力導入の時期は、「CIA と互角にわたりあっていた」というほうが正しいといえる。正力とCIAの関係は、「持ちつ持たれつの、不思議な共生関係」であって、「どちらかがどちらかを支配するという関係」ではなかった。終戦直後、巣鴨プリズンに押し込められていた時期の正力とGHQの関係とは明らかに異なっていた。
[6]それにしてもCIAやUSIA関係者は、正力の「たかり根性」には往生していた。正力は上院外交委員会(およびその顧問のホール・シューセン)には「マイクロ波通信網」を、CIAには「原子力発電所」と「カラーテレビ」をただでくれとしつこくねだった。
[6]-2 結局、最後のものだけはCIAからもらえたが、他のものはだめだった。とはいえ、正力は「原子力発電所」をねだるときでさえ、「マイクロ波通信網」はもういらないとは決していわなかった。「カラーテレビ」をねだるときでさえ、タイのテレビと放送網と提携するためにやはり「マイクロ波通信網」が必要だと言っている。
[6]-3 また、何でも自分の手柄にしたがり、「原子力平和利用博覧会の成功も自分のおかげだ」と大いばりして、費用と労力をほとんど負担したUSIA関係者をうんざりさせた。にもかかわらず、「どことなく憎めないやつだ」とUSIA、CIA関係者に思われていたふしがある。
[6]-4 自分の欲望や感情に素直で、大物にしては人間としてわかりやすく、ナイーヴですらあるからだ。あの「ジャガイモに目をつけたような顔」で子供じみた自画自賛とおねだりをやるのだからアイヴィーリーグ出身のエリートたちはついつい警戒をゆるめてしまうのだ。
[7] しかし、CIAにとって正力は「思いのままに操れるような人間」ではなく、「気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない油断のならない人間」だった。この意味で正力は、吉田や鳩山や岸よりも手ごわかったといえる。正力の持つ「讀賣新聞や日本テレビ」に対する影響力を利用するためにCIA関係者は正力が死ぬまでこの「タフ・ネゴシエイター」といろいろ取引しなければならなかった。
[8]これまでゆがめられ、矮小化されてきた正力像、とくに柴田秀利の私怨によって捏造された正力像は改められてしかるべきだろう。「プロ野球の父」「テレビの父」「原子力の父」がこれまで書かれてきたような卑小な人物であるはずがない。これだけの多く偉業をなし得た人物は日本の現代史ではほかに見当たらない。
[8]-2 「正力はアメリカに利用された」というかも知れないが、占領期とそれに続く時代では、そうすることによってしか歴史に残るような大業はなしえなかった。吉田茂とて同じではなかったか。だが、吉田を評価するにせよ、批判するにせよ、彼が歴史的に大きな役割を果たしたということは否定しないだろう。正力の場合も同じだ。
[8]-3 少なくとも私(有間哲夫)にとって正力は「昭和の傑物」のナンバーワンだ。いろいろ調べてみてこれほど面白い人物はない。ただし、彼が生きていたとして、彼の下で働こうとは金輪際思わない。
《参考3》有間哲夫「正力の原子力導入推進キャンペーンとCIAの心理戦」2006/11/25発表(於東京経済大学)の発表要旨。
(ア)讀賣新聞・日本テレビの1955年前半の「原子力平和利用使節団」、後半の「原子力平和利用博覧会」などの一連のメディア・キャンペーンは、正力松太郎とアメリカ情報機関(CIA、国務省、合衆国情報局、極東軍司令部)の合作だった。
(イ)正力のキャンペーンの目的はきわめて政治的なもので①産業界なかんずく電力業界の支援のもとに「政界」に打ってでること、②早期に「原子力発電」を実現して「総理大臣」の椅子を手に入れること、③それによって宿願の「マイクロ波通信網」を手に入れることだった。
(ウ)アメリカ側の目的は、①アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を日本で実現すること、②「第五福竜丸事件」(1954)で戦後最高の高まりをみせた反原水禁=反米運動を沈静化させること、③日本に「核兵器」を配備することを日本政府首脳に飲ませることだった。
(エ)両者(正力とアメリカ側)が目的を達成するためには、広島・長崎の原爆投下と第五福竜丸事件によって根強い「原子力アレルギー」を持っている日本の世論を転換する必要があった。この点で利害が一致したために両者は共同で「メディア・キャンペーン」(アメリカの側からすれば「心理戦」)を行った。
(オ)しかしながら、一方で正力は「早期に原子炉を手に入れ原子力発電を実現したい」のに対し、アメリカ側は「日本の原子力発電の実現をなるべく遅らせようとしていた」ので、やがて両者は決裂することになる。このため正力はイギリスから「コルダー・ホール型の原子炉」(※東海発電所1号炉はこの改良型、1966年運転開始、日本初の商業用原子炉)を購入することを急ぎ、のちのちまで尾を引く日本の原子力行政の混迷のもとを作る。