※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学:哲学と精神医学からのアプローチ』北斗出版、1982年所収
(1)他者理解の出発点は、私は常に他者の身体運動(表情身振り)の中に(※例えば)怒りを見いだしているという事実だ!&「他者の表情身振り」から「自己の表情身振り」への「類推」!
A 「出発点は、私は常に他者の身体運動の中に(※例えば)怒りを見いだしているという事実、すなわちその(※他者の)表情身振り知覚であり、もし類推を言うのであれば、他者の表情身振りから自己の表情身振りへの類推が問題なのである。」(121頁)
《感想1》「私の怒りの感情における表情」から出発して、「他者の表情」を見て、そこから「他者の内面の怒り」を類推するのでない。
《感想1-2》まず「他者の表情」があり、さらにその「他者の表情」を含む「他者をめぐる一定の状況(私も含まれる)」にたいして「他者の怒り」という名称が与えられる。
《感想1-3》「他者の怒り」という「状況」には、それに相応する一定の他者の「内面」の出来事がすでに含まれている。ここで他者の「内面」とは、「他者の怒り」という「状況」(「他者の表情」を含む)とともにある「何か」だ。
《感想1-3-2》この「何か」(内面)は、モナドの全領域から《間モナド的な物世界(触覚領域の間モナド的世界)》を除いた領域のことだ。
《感想1-3-3》Cf. 現象学は、超越論的自我(モナド)の共同体について語る。モナドとは《世界そのもの(世界の開け)としての超越論的な心的=主観性的な現象(感覚・感情・欲望・意図・夢・意味世界・意味世界の展開としての思考・虚構・想像)》である。モナドが初めから(つまりモナドの成り立ちそのものの内に含まれているものとして)共同体を成しているがゆえに、「我―汝」は必然的に出会うことができる。かくて《超越論的に間主観的な客観的世界》(Cf. 最も基礎的には「物」の世界だ)が出現する。(※湯浅泰雄(1925-2005)「精神医学と現象学的方法」《感想8》)
《感想1-4》この「他者の怒り」という「他者をめぐる一定の状況(私も含まれる)」=「他者の表情身振り」が出発点となって「自己をめぐる一定の状況」=「自己の表情身振り」にともなう「自己の内面の怒り」が類推される。
(2)「他者理解」とは、「役割連関」が相互的な「役割行為」として実現されることだ!
B 「他者理解」とは、まず(a)「役割連関」としての「状況」の意味理解にもとづき、その上で(b)その「役割連関」が相互的な「役割行為」として実現されることだ。(130-131頁)
C 「◎私がどのように《他者を理解する》かは、私がどのように《行為する》かにかかっている。
◎《私が一定の役割行為を行なう》ことは、《他者をその役割連関のもとで解釈する》こと、すなわち《他者に一定の意味を付与する》ことに他ならない。
◎この意味で役割連関は一つの『解釈図式』なのであり、《役割行為》は同時に《役割解釈》である。」(131頁)
《感想2》「他者理解」とは、他者の内面を理解することでなく、「役割連関」(状況)の下で、相互的な「役割行為」を遂行することだ。
(1)他者理解の出発点は、私は常に他者の身体運動(表情身振り)の中に(※例えば)怒りを見いだしているという事実だ!&「他者の表情身振り」から「自己の表情身振り」への「類推」!
A 「出発点は、私は常に他者の身体運動の中に(※例えば)怒りを見いだしているという事実、すなわちその(※他者の)表情身振り知覚であり、もし類推を言うのであれば、他者の表情身振りから自己の表情身振りへの類推が問題なのである。」(121頁)
《感想1》「私の怒りの感情における表情」から出発して、「他者の表情」を見て、そこから「他者の内面の怒り」を類推するのでない。
《感想1-2》まず「他者の表情」があり、さらにその「他者の表情」を含む「他者をめぐる一定の状況(私も含まれる)」にたいして「他者の怒り」という名称が与えられる。
《感想1-3》「他者の怒り」という「状況」には、それに相応する一定の他者の「内面」の出来事がすでに含まれている。ここで他者の「内面」とは、「他者の怒り」という「状況」(「他者の表情」を含む)とともにある「何か」だ。
《感想1-3-2》この「何か」(内面)は、モナドの全領域から《間モナド的な物世界(触覚領域の間モナド的世界)》を除いた領域のことだ。
《感想1-3-3》Cf. 現象学は、超越論的自我(モナド)の共同体について語る。モナドとは《世界そのもの(世界の開け)としての超越論的な心的=主観性的な現象(感覚・感情・欲望・意図・夢・意味世界・意味世界の展開としての思考・虚構・想像)》である。モナドが初めから(つまりモナドの成り立ちそのものの内に含まれているものとして)共同体を成しているがゆえに、「我―汝」は必然的に出会うことができる。かくて《超越論的に間主観的な客観的世界》(Cf. 最も基礎的には「物」の世界だ)が出現する。(※湯浅泰雄(1925-2005)「精神医学と現象学的方法」《感想8》)
《感想1-4》この「他者の怒り」という「他者をめぐる一定の状況(私も含まれる)」=「他者の表情身振り」が出発点となって「自己をめぐる一定の状況」=「自己の表情身振り」にともなう「自己の内面の怒り」が類推される。
(2)「他者理解」とは、「役割連関」が相互的な「役割行為」として実現されることだ!
B 「他者理解」とは、まず(a)「役割連関」としての「状況」の意味理解にもとづき、その上で(b)その「役割連関」が相互的な「役割行為」として実現されることだ。(130-131頁)
C 「◎私がどのように《他者を理解する》かは、私がどのように《行為する》かにかかっている。
◎《私が一定の役割行為を行なう》ことは、《他者をその役割連関のもとで解釈する》こと、すなわち《他者に一定の意味を付与する》ことに他ならない。
◎この意味で役割連関は一つの『解釈図式』なのであり、《役割行為》は同時に《役割解釈》である。」(131頁)
《感想2》「他者理解」とは、他者の内面を理解することでなく、「役割連関」(状況)の下で、相互的な「役割行為」を遂行することだ。