宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

中島義道『晩年のカント』「第7章」(続)『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』:われわれが創造したのでもない「質料」(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのであろうか?

2021-01-31 20:08:39 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第7章(続)カント『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』:「質料」の中に分け入る!(208-209頁)
(9)《自然科学の形而上学的原理》から《物理学》への移行というテーマ! 
J カントは1786年(62歳)『自然科学の形而上学的原理』を刊行。それ以後、カントは「《自然科学の形而上学的原理》から《物理学》への移行」という大きなテーマに挑む。(208頁)
(9)-2 カントの超越論的観念論:世界は、人間理性の構築物にほかならず、『現象』にすぎない!
J-2 「カントの《超越論的観念論》という壮大な体系において、その『そと』に位置する『物自体からの触発』が、はじめから『躓きの石』であった。」(208頁)
J-3 「たしかに、世界は、人間理性の構築物にほかならず、『現象』にすぎない。あらゆる学問が描き出すのは《絶対的真理》ではなく、あくまでも《人間にとっての真理》なのであって、《人間理性の限界》をわれわれ人間は超えられない。」(208頁)
(9)-2-2 世界の「質料」:われわれには「質料」(物質)が「与えられている」!
J-4 「とはいえ、世界は単なる形式(概念)にのみではなく、質料(世界の実質を成しているもの、ここでは『物質』としておく)によっても成り立っている。」(209頁)
J-4-2 「われわれ人間が世界の質料(物質)を創造したのでない。」(209頁)
J-4-3 「われわれには質料(物質)が『与えられている』のであって、そのもとで人間理性は形式(概念)によって世界を現象として描き出すのだ。」(209頁)
(9)-2-3 われわれが創造したのでもない「質料」(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのであろうか?
J-5 「こうして、《現象としての世界》もまた質料(物質)を取り込んで成立している。」(209頁)
J-5-2 「そうだとすると、われわれが創造したのでもない質料(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのであろうか?」(a)「このことは単なる偶然なのだろうか?」それとも(b)「質料(物質)の中に人間理性と呼応する何かがすでに潜んでいるのであろうか?」(209頁)

(9)-3 「『質料』(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのかの秘密」が「化学」に隠されていると信じて、カントは晩年、化学に取り組んだ!
J-6 「およそ、こういう思考過程((9)-2, (9)-2-2, (9)-2-3)を経て、カントは『自然科学の形而上学的原理』を刊行したときから、さらに質料(物質)の中に分け入ろうとした。」(209頁)
J-6-2 「カントは物質を扱う『化学』の中にその秘密が隠されていると信じて、晩年とくに化学に取り組んだ。」この試みは断片にとどまり、膨大な『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』に収められている。(209頁)

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中島義道『晩年のカント』「第7章」:『人間学』は「事実学」であって、ア・プリオリな「規範学」でない!文学者は哲学者でない!カント『自然地理学』におけるカントの理性主義・理性信仰!

2021-01-31 19:55:21 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第7章「地上のあらゆるものへの興味――『人間学』『自然地理学』」(185-211頁)
(8)カント『実用的見地における人間学』(『人間学』)(1798年):「事実学」であって、ア・プリオリな「規範学」でない!(186頁)
I カント『実用的見地における人間学』(『人間学』)が1798年(74歳)に刊行された。
I-2 「実用的」(pragmatisch)とは「事実学」であって、ア・プリオリな「規範学」でないということだ。
I-3 「人間学」は事実学であり、「倫理学」は規範学だ。
I-3-2 「倫理学」に属する著書は、「実践的」(praktisch)の語が使われる。Ex. 『実践理性批判』。
I-4 『実用的見地における人間学』(『人間学』)は一般市民相手の通俗講義であり、面白く人気があった。

(8)-2 カント『人間学』における(a)女性論!(b)芸術に哲学は不要!(c)文学者は哲学者でない!
I-5 (a)カントが「女性」について言う。「男性は恋している時は嫉妬深い。婦人は恋していなくても嫉妬ぶかい。」 あるいは「『世間の言うことが真理で、世間のすることが善だ』というのが女性の原則である。」(188頁)
I-6  (b)カントが「芸術」について言う。「みずから美しい作品(Ex. 音楽、絵画。彫刻)を生み出すことのできるひとは、それについて哲学することなどしないで、作品一本に打ち込んだ方がよい。」(190頁)
I-6-2 なお「カントは美に対する感受性をほとんどもっていなかった。」(ショーペンハウアー)(190頁)
I-7 (c)カントは「文学者は哲学者でない」と言う。(191頁)
I-7-2 哲学者は「世界とは言語によって構築されている幻想かもしれない、いやそうでないかもしれない」という疑いに、あるいは「言語が真実を正しく表現しているのか、そうでないのか」という問いにとらわれた者のことだ。(191頁)
I-7-3 文学者は「いったい世界はあるのか」という存在論にコミットしない。彼はその限りで哲学者でない。(192頁)

(8)-3 カント『自然地理学』(1802年、78歳):高慢と偏見に満ちた人種・民族論!だが他方でカントの理性主義・理性信仰!
I-8 カント『自然地理学』(1802年)は、1756年(32歳)から1796年(72歳)まで40年間の講義録だ。その人種・民族論は高慢と偏見に満ちる。カントは言う。「人類は白人の人種において、最大の完成に達している。黄色のインド人はすでにより少ない才能しかない。ニグロはさらに低い。」(195-196頁)
I-8-2 「東洋の諸民族は、理念・・・・を解する力を持たず・・・・美の精神をまったく欠いている。同じように彼らは、悟性の概念をもって事物を観察することがなく、あるいは道徳に関する事柄において、心術の純粋な原則の概念をもつこともまたない。」(197頁)
I-8-3 ただし、こうした高慢と偏見に満ちた人種・民族論はヨーロッパ人に共通だ。リンネ(1735年)はアフリカ人が「奇形」であり人間の「最下位」だとした。ヒューム(1711-1776)は「ニグロや一般にその他すべての人種・・・・は白人に比べると当然劣っている。・・・・白人以外に有色民族の文明国家は存在したことがない」と述べた。(199頁)
I-8-4 だが他方でカントの理性主義・理性信仰は強固だ。異人種も白人(西洋人)と完全に同じ「理性」を持つが、環境・状況がその発現を妨げている。適切な教育を施せば、西洋人と同じ「道徳法則」を承認するはずだとカントは考える。(200頁)!
I-8-5 カントはドイツ人医師エンゲルベルト・ケンプファーの旅行記(1690-92に日本滞在)を読み、日本に好意的だ。「日本人は躾が非常によく、きめが細かく、知識があり、すべての芸術はシナ人よりすぐれて洗練されている。」(カント)(203頁) 

(8)-4 カント『自然地理学』(続):カントの知識欲は旺盛だ!動物、植物、鉱物について述べる!(204-208頁)
I-9 カント『自然地理学』には多様な動物について述べられている。カバ、ロバ、ナマケモノ、モグラ、ネズミ・・・・。またカントはクジラに相当、興味を持っていた。また貝類、害虫(ナンキンムシ、カetc. )・・・・さらに植物、鉱物についても述べる。カントの知識欲は旺盛だ。

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