一つ前の記事に、みなさんが素晴らしいコメントを寄せてくれました。中でもkiyominaさんのコメントは、柔らかく示唆する部分があって、とても刺激を受けましたよ。
建築の仕事をしていると、「資材がもったいないなあ」と感じることが多いです。分かりやすい例として、例えばモーターショウなどの展示会。そのときの設計通りに、木材やアルミパイプを使って展示ブースを作っていくのですが、これは会期が終われば殆どを、ゴミ屋さんに処分させてしまうのです。
合板や垂木(いずれも安価)を使っているとしても、もう少していねいに解体して、また次の現場で使えばいいのにと思ってしまう。しかし、一度使った材料を再利用するには、解体にも再利用にも、非常に手間が掛かるのですけどね。
この“もったいなさ”は何も建築に限ったことではなくて、スピードと能率を求められる仕事では、必ず発生していると思います。ケチケチせずにたっぷりと使うからこそ、いい仕事が出来るのも事実なのです。
しかし、コメントをくれたkiyominaさんは、そういう従来の考え方そのものが何か間違っているんじゃないか、と提案しているのですね。これは環境保全が大事にされ始めた昨今でも、実に奥の深いテーマだと思います。消費文化そのもののアンチテーゼなのです。
ところで、これは何に見えますか?
高級な装飾素材のべっこうと大理石に見えるのだけれど、これは木材に描いたフェイク(にせもの)なのです。
Photograph of effects from Crown with goodwill.
元の素材はベニヤでも何でもいい。いずれも、想像力と追求心をもって塗装を施したのです。いずれ解体してしまうものなら、これでいいと思う。
僕は以前、ドルチェ&ガッバーナの東京本店の工事をやったことがあるのだけれど(そのときのおもしろエピソードは三人のイタリア人参照)、あれだけ手間と時間を掛けて塗り上げた見事なストゥッコ壁が、手入れが大変ということで、二年前に行ったときには上からペンキが塗られていました。
「それなら初めからそうしろよ」とも思ったのだけど、最初から安い作りには出来ないしなあ(ドルチェ&ガッバーナは高級ブティックです)。そんなときにフェイクを使うのも一つの解決法だと思います。
そして建築の世界も、少しずつ変わりつつあります。木材を切り出す規格を変えて、無駄のないようにしたり、使い回しの出来る材料を揃えたり。街の再開発でも、むやみに解体、新築をせずに、昔の美しい瓦屋根家屋が目立つように装飾壁を取り外して、電柱を埋設したり。そういうことでも仕事は出来るし、ちゃんとお金も回りますよね。
追:この記事は廃材などから作品を創り上げるTommyさんの『小沼デザインワークス工房日記
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>なるのは寂しかったのです
これはけっこう心が痛むのですよね。衣類なんかも、たとえボロボロでも、ゴミ箱に入れるのがすごく辛いな。
>ほとんど他の家でまた
>ニコニコと役に立っています
いいですね。読んでいてこちらもニコニコ(^_^)
古い家具や電化製品、時間がかかってもよいから
貰い手を探そうとの~んびり整理中です。
ゴミに出すのは簡単だけれど、ゴミ捨て場で野ざらしに
なるのは寂しかったのです。
昔の家具は丈夫な木を使ってるから、しっかりしたもの
ですね~
幸い、ボチボチと貰い手が見つかり ほとんど
他の家でまたニコニコと役に立っています。
幸せなことです^^
>全国の電気製品で、部品がなくて、廃棄されるのは
>どれくらいあるのだろう、と思ってしまいました
何だか胸が痛いなあ。
私の課で使っている○ングジムの○プラが壊れて
修理に出したのですが、
もう部品が無くて、新しく買わないといけなくなったんです。
部品があれば、修理できたかもしれないのに、
あの○プラはもう廃棄されるかと思うと、
全国の電気製品で、部品がなくて、廃棄されるのは
どれくらいあるのだろう、と思ってしまいました。
日本の電器産業は、新製品をどんどん出して
古い型のを排除していきますが、
外国だと10年くらいは(もっと?)部品を保管していて
修理してくれる、と聞いた事があります。
日本のも修理して長い間使えるようにして欲しいなあ。
>建て替えるときに出てきた廃材を「もったいない」
>と思ったコトがきっかけで、立体作家に転身・・・
素晴らしいきっかけですね。先ほどブログにお邪魔したのですが、材料を貼り合わせて巨大クランプで固定している画像を見て、とても感銘を受けました。
廃材利用とか、リサイクル品とか、それらが今よりもいいイメージ(美的にも)を持ってくれば、物をむやみに捨てる風潮自体も変わってくると思います。
>僕個人が出来るコトなんてたかがしれていますが、
>そんなことを考えています
人の手で作られた物は、大きな感動をもって受け入れられますよね。それがtommyさんの作品のようなものだったら、その感動の度合いも大きいと思います。
大きなムーヴメントも、始まりは個人単位からですよね(^○^)
「いただきます」もそうだっけ? これはあやふや。
>中途半端に余ると他の目的に利用できないので捨てる!
>もちろん切り端も大きくても捨てる!
むむむ。いずこも同じですね。でも
>はしたなど気にしてたら商売にならないのはわかるけど
ということですよねえ。う~むむ...。
>昔の手作りレンガは形が均一でないから仕事がしにくい
だからこそ味があるんだよなあ。どうやらその業界だけでなく、もっと大きな規模で考えないとイケンですね。古いレンガなんてガーデニングに使ったらかっこいいと思うもんね。
>そのため接ぐための細工も発達した
>壁も練り直して使えたし
さすが、詳しいですねえ。大道具さんやってたんだっけ?(^○^)
接ぎの技法は芸術的ですらありますね。しかも強度がある。
>ねじをもむのではなく、釘で止める事で
>材を再利用しやすくしたり、
>袋パネルの壁紙だけかえるとか...
展示会だと、アメリカ企業は殆どトラスで組んでいますね。これだと、おっしゃる通り壁紙とか薄ベニヤの塗装だけで済むなあ。某公営放送の話し、面白いですね。
>バラしてあちこちに持って行って再利用したのも
>当たり前のような気がします
くくくっ♪ それだけエェ材料だったら僕も欲しいな。
僕は元々画家だったのですが、10年ほど前、長年住んでいた家を建て替えるときに出てきた廃材を「もったいない」と思ったコトがきっかけで、立体作家に転身・・・今では廃材等を使って家具を作っています。特に建築物から多くでる普通の柱材をメインに使用。(主に小径木の利用価値を考え間伐材やプレカットの余材等も利用しています。)
もったいないと思うんだったら捨てないで使いたい・・・
そして、全く新しい命をもたらしたい・・・・
僕個人が出来るコトなんてたかがしれていますが、そんなことを考えています。
いきなりのコメント失礼しました。
といってもあやふや記憶だと説得力ないですが。
はしたなど気にしてたら商売にならないのはわかるけど、何千冊分のはしたはでかいです。あれだけの量の紙ってもともと何本の木だったんだろうと考えると胸が痛みます。
あ、あと昔の手作りレンガは形が均一でないから仕事がしにくい(組み合わせにすごく時間がかかる)という理由で、よっぽどでない限りもう再利用されてません。昔のレンガは自然な材料だけで作られてたし、なにより色や見た目が美しいので残念。私も長くなりました。すみません!
考えてみたら木と土で作ってるのだから再生も簡単なんですよね。
しかし、イベントのような仕事は壊す事を前提としてますから手間とか考えるとどうしても使い捨てにならざるを得ないところが有りますよね。しかし、ねじをもむのではなく、釘で止める事で材を再利用しやすくしたり、袋パネルの壁紙だけかえるとか、CPやパラペットだけ張り替えて使い回すのはいつもの手段でしょうが、コスト減かつ有用なリサイクルですよね。某公営放送でも大道具は結構使い回してましたよ。「某若手歌手の放送を勝ち取る番組」で使ってたアーチ型の骨材(約200万也)は、その昔「二人の大物歌手のショー」で制作されたものですが、見事に使い回されてます(爆)
話変わって、京都にいると「伏見城の遺構」と呼ばれるものが結構あちこちにあります。なんせあの"太閤バブリー秀吉"プロデュースのお城、金にモノをいわせてエェ材料を厳選し、一流の職人に作らせてたのですから。それらの構築物をバラしてあちこちに持って行って再利用したのも当たり前のような気がします。
今はそんな事ができるだけの材料も職人も無いのかもしれませんが…
補修をしようにも太い柱材とか手に入らないですもんね。
やはりどの業界でも同じなのでしょうね。大量に消費することで経済が成り立っているのだからなあ。イヤなことだけれど。
これからそれを変えていかないとイケンですね。
kiyominaさん
>もうそういう細かい仕事をする人がいなくなったのか
>はたまた手壊しは採算が合わなかったのか
どっちもあるのでしょうね。昔の都庁舎が解体されたときも、岡本太郎の大きな壁画(陶彫刻)は、きれいに解体・移築が出来ないからと言って、すべてぶっ壊してしまいました。予算がなかったのが本音だろうなあ。
>規則だけが厳しくなって、捨てるところがないのです
>廃棄物を背負わされた解体業社は途方にくれています
不法投棄がなくならないわけです。だからこそ
>建てる側や国も考えなくてはいけないのではないでしょうか
となるですね(^○^) 合板にしても、有害な接着剤を使わないようにしたり、石油系ではない原料の塗料を開発したり。まだまだこれからだよね。
>それに壊してはいけない建物ばかりだし、
>誰も新しい建物なんか建てないよ
ヨーロッパらしくていいですねえ。内装建築ばかりだもんね。
昔は解体したものをきれいに製材しておけば
それを買う人もいました。
まだ使えそうな道具たちも買われていきました。
いつごろからでしょう、
そういうものを買う人がいなくなりました。
解体も手作業よりも大きな機械でポンポンと壊すものが
メインになりました。
昔、京都の古い銀行を壊す時、
角にある建物の顔である古い石造りの部分は残すように希望されました。
そこだけきれいに手作業で残したものです。
最近そのお向かいの銀行の工事も始まっていました。
「あ~、ここも角だけは残すだろうね、
でもうちに仕事こなかったよ。」と母は話しておりました。
数日後、そこを通ってみたら、全部解体されていました。
角の石造りの部分は残されなかったのです。
もうそういう細かい仕事をする人がいなくなったのか、
はたまた手壊しは採算が合わなかったのか。
建築にはまだまだ問題が山ほどあります。
次々と壊して出た廃棄物は環境保全のため行き場が難しくなりました。
規則だけが厳しくなって、捨てるところがないのです。
廃棄物を背負わされた解体業社は途方にくれています。
これは解体業社だけが考えることではなくて、
建てる側や国も考えなくてはいけないのではないでしょうか。
イタリア人の夫に解体業の説明をしたらこう言いました。
「そんな仕事はイタリアじゃ儲からない。
それに壊してはいけない建物ばかりだし、
誰も新しい建物なんか建てないよ。」
すごく長くなりました。ごめんちゃい。
真剣に読んでしまいました。
コンピューター屋も似た世界です。
それでは、また。