大転換すべき北海道の農業・酪農 7月24日

日本の酪農・乳業は、正しい方向に向かって歩んでいるのだろうか。私はいつも、疑問に思っている。給食という仕組みを利用して、飲むことを強要してきた牛乳の栄養価と安全性に、問題はないのだろうか。「病気にならない生き方」の著者・新谷弘実医師は、牛乳を「錆びた脂」と評する。牛乳は、そもそも子牛の飲物である。人間が飲むために粒状の乳脂肪を攪拌する際、乳脂肪は過酸化脂質へと酸化して、人体にとって「毒」になってしまっていると新谷医師は指摘する。

アトピーや小児喘息などのアレルギーの患者が、牛乳や乳製品の摂取を止めると、見事に症状が改善すると、新谷医師は経験を語る。単にカルシウムが豊富であることだけをとらえて、牛乳を絶対的栄養価の高い飲物に仕立て上げることは、骨にカルシウムが豊富だからと言って、腐った魚を食べさせることとなんら変わりはない。牛乳を飲むと通じが良くなるのも、単に、腐った脂で下痢をしているにすぎないのだ。

余剰牛乳を廃棄処分するほど市場の低迷にあえぐホクレンだが、お茶や豆乳など他のペットボトル飲料が台頭したことだけがその原因では決してない。牛乳を受け入れないことは、人間の自然の摂理なのだ。現代人に花粉症が多いのは、勿論、戦後無差別に植林された人工杉林が第一の原因ではあるが、1960年代、学校給食に牛乳が導入されたことも、重要な要因ではないかと言われている。

広大な土地を活用した北海道の酪農や農業は、今、間違いなく岐路に立たされている。日本の酪農業界がWTOの農業交渉に危機感を募らせているが、それはまさしく、日本の酪農に国際競争力がないことを意味する。「関税の引き下げで、乳製品の輸入が増加すれば、牛乳の受給調整が困難になり、酪農経営に壊滅的な打撃となる」との酪農団体の認識は、努力と工夫をせずして、可能性を自ら摘んでいるようなものだ。牛乳神話は、今や過去の話だ。政府が買い取った1,000万トンの牛乳も、果たして本当に途上国に支援物資として提供されるかどうかは、甚だ不透明だ。北海道の酪農は、いよいよ行き詰ってきた。

北海道の酪農と農業は、発想を大転換しなくてはならない。農薬や化学肥料を使用しない無農薬あるいは有機栽培の農作物の生産に、速やかにシフトすべきだと私は思う。政府は、これまでのミスリードを反省し、全面的にそのサポートをしなければならない。WTOにも揺るがない強い国際競争力を備えるには、日本の農業ならではの「安心・安全」な農作物の生産をおいて他にない。今や、無添加の限りなく自然に近い食材への関心は、日増しに高まっている。食材の向こう側にある、生産者の顔や厳しい農作業の姿を伺い知ることのできる農産物であれば、少々価格が高くても消費者は選択する。未来の健康への投資だと、思えるからだ。

日本の農業が国際競争に勝ち抜いていくには、質の高い農作物の生産以外に方法はない。他の国が出来ないことを、緻密な日本の民族性は、やってのけることができるのだ。これまでは、北海道の酪農が、飼料を海外からの輸入に頼っていたことが、結果的に、日本の食糧自給率低下の大きな要因となってきた。北海道の問題を抜きにして、食糧自給率の向上も、言ってみるだけだなのだ。明らかにこれまでの北海道の酪農・農業のあり方は間違っている。酪農はもとより北海道全体が、速やかに無農薬や有機栽培の質の高い農業へと転換していくことが、北海道が生き残る唯一無二の方策なのだ。

広大な国土を持ち質の低い農畜産物の大量生産を行う米国や中国と同じ土俵に立ち、関税の引き下げで右往左往するような日本の農業では、まったく光明は見出せない。他の追随を許さない無農薬・有機栽培の農業こそ、21世紀の日本が進むべき道だ。「食育」の真髄は、日々囲む食卓を通して、日本の社会の仕組みを見つめ直すことだ。とれたての新鮮な無農薬野菜は、甘くて美味しい。1人でも多くの子どもたちが、家族とともにそんな野菜を頬張りながら笑顔の絶へない食卓を囲む社会を、私たちは目指さなければならないのだ。何よりも、北海道の酪農と農業が新たな一歩を踏み出すことが、日本の農業の将来を占う試金石であり、食育の原点であることを、私たちは肝に銘じなければならない。
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靖国参拝「親の心子知らず」 7月23日

公表されることが想定されてはいなかったとは思うが、極めて信憑性の高い元宮内庁長官・富田朝彦氏のメモには、昭和天皇の「親の心子知らず」という言葉が残されていた。当時の靖国神社宮司・松平永芳氏が、父である最後の宮内大臣・松平慶民の平和への強い意志を裏切り、靖国神社へのA級戦犯合祀に踏み切ったことをさしての昭和天皇の言葉だ。

「親の心子知らず」の言葉は、誰の胸にもズシンと突き刺さる言葉だろう。国家の象徴たる天皇ともなれば、誰よりもその見本でなければならないはずだ。内外の多くの人々の命を奪った戦争への昭和天皇の思いは、富田メモが物語るように非常に深い。その心を、現在の天皇陛下は、十分に受け継がれている。昨年のサイパン訪問が、昭和天皇にまさるとも劣らない今上天皇の戦没者への哀悼の思いを、顕著に表している。

今上天皇陛下は、サイパン島に慰霊に行ったのであって、決して日本国の軍人の戦没者を顕彰に行ったわけではない。小泉総理や安倍官房長官がこだわる靖国神社参拝と、そこが決定的に異なる点だ。東条英機元帥の孫娘東条由布子氏は、A級戦犯は、靖国に祀ってある246万柱の英霊のうちのごく一部にすぎず、わずか14名のA級戦犯合祀のために、天皇陛下や総理大臣が靖国参拝を躊躇することはおかしいと述べているが、それでもなお靖国神社に参拝することはできないという昭和天皇の心を、それは全く理解していない独善的な解釈だ。

泣く泣く散っていった戦士たちは、軍国主義をあおり戦争を指揮し、数えきれない人々を殺して、日本を敗戦国に追い込んでしまったA級戦犯と言われる人々とともに合祀されることを、果たして望んでいるだろうか。昭和天皇も今上天皇も、戦争の犠牲になった多くの無名戦士や民間人の心に寄り添おうとしている。そしておそらく、今の皇太子殿下が天皇になられたときも、戦没者へ寄せる心は変わることはないだろう。皇太子殿下は、昭和天皇が言う「親の心」のわかる天皇にきっとなられるに違いない。

「親の心を知る」今の皇太子殿下が、わが子にもその心を伝え、国内外の民間人を含む戦没者を慰霊する温かい心を持った天皇として、将来は愛子様が皇位を継承し、内外の人々の心に働きかける象徴となることを、私は願ってやまない。

それぞれの「心」の問題だと主張する小泉総理は、昭和天皇の「心」が明らかになった今、それを無視して「私の心は違う」と言って、この夏再び、靖国神社参拝に踏み切るのだろうか。昭和天皇の深い心の内が判明した以上、小泉総理は、それを謹んで重く受け止めなければならない。内外への影響力を考慮した上で、真に最善の選択は何か、謙虚に判断しなければならない状況にいよいよ追い詰められていることを、小泉総理は自覚しなければならない。
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