Dr. 鼻メガネの 「健康で行こう!」

ダンディー爺さんを目指して 日々を生き抜く
ダンジーブログ

誰かが どこかで

2008-01-31 | 想い・雑感
不思議なことであります
なんだか違和感があります
冷凍食品は工場で大量生産されるはず
だからその生産ラインで毒物が混じれば
被害はある程度広範に及ぶはず
でも今のところ被害報告は
限られたものとなっています

中国製の冷凍餃子が問題になっています
ニュースから判断すると
かなり高濃度の薬剤が混入していたと思われます
とすると製品完成後に
限られたパッケージに
毒物を入れた誰かがいるような気がします

それは誰か
そしてどこで行ったのか

これがはっきりしないと
本当に問題となっている製造元の商品だけに注意していれば良いのかどうか
わからないから恐ろしいです

表情

2008-01-31 | 想い・雑感
最低一日2回
朝と帰宅前には患者さんのもとを訪れる
できれば笑顔で訪れる
私は長年 怒ったような顔に見える
と言われ続けてきたが
そのお陰で
多少は笑顔が出るようになってきた
もともとの顔の造作を変えるわけには行かないが
表情筋を動かし
機嫌の良い顔にすると
私が単純なこともあって実際に機嫌がよくなる

そんな具合で病室を訪れると
患者さんもほっとした穏やかな表情になってくれる
でも注意が必要
医師に気を使って無理に元気な表情を作ってくれる方もおられるから

だから
病室に入った瞬間の表情
病棟を歩いているときの姿
看護師さんの記録などなど
機会を逃さず
その方の調子を観察しておく必要がある

だけど理想は
気兼ねなく体の調子のことを語ってくれるような
関係が作り上げられること ですね

家庭医

2008-01-30 | 想い・雑感
ある食道癌手術の数日前
その患者さんの紹介もとの医師から電話があった

「手術の見学に行ってもよいですか?」とのご質問
「どうぞどうぞ」

どの医師でも
紹介した患者さんは気になるものだが
開業していて見学までするというのは
まずめったにお目にかからない

手術が始まる前から来られたのにもびっくり

食道の手術は
胸 腹 首
の3領域に渡るもので
途中体位を変えたりもするから
長時間にわたる

胸の操作に区切りがついて
状況を説明させていただいたところ
「ではこれで失礼します」と帰って行かれた

これほどまでに熱心な先生に
家庭医をしてもらえると
患者さんは安心だろうなあ

順番待ちの間に・・・

2008-01-29 | 医療・病気・いのち
外科の患者さんのなかには
人工呼吸器の装着が必要な方も居られる
術後の呼吸が安定しないかた
呼吸不全を起こしてしまった方などさまざま
私が働き始めた頃
担当患者さんに呼吸器がつけば2、3日は帰らずに病院に泊まれ!
などと先輩にいわれたものだった
随分無茶な話だったと今は思うのだが
当時はそれが当たり前と思っていた
人工呼吸器に今ほどの信頼が無かったというのもあったと思う

ただつきっきりで管理をしたからと言って
それが給料に反映されるわけではなかった
少しでもいい方法がないかを探り
三途の川をわたりかけた患者さんを
何とかこちらの岸へ連れ戻したときの達成感と
患者さんや家族からの感謝の言葉が
その勤務意欲を支えてくれていた

外科を進む道として選んだとき
きついのは先輩をみてわかっていたが
やりがいある道と選択した

しかし今の時代
懸命の努力のあと
結果が悪いといって
簡単に刑事被告人にされてしまう
医学的にみれば
裁判で問題にされていることが
予後に大きな影響を及ぼしたと到底考えられないようなことで
刑事罰が与えられてしまう

このような状況で
今の研修医に外科に来いとは言えない
少なくとも私が今の研修医だったら
外科を選ぶかどうか
自信がない

現在産科救急や小児科診療が問題にされているが
外科も確実にその医療を支える力がなくなってきている
このままでいけば
癌が見つかったからと言ってすぐに手術の順番が来ず
見つかったときにはまだ十分根治手術が可能と思われた人が
順番が来たときには体中に転移巣という事態が
大げさでなくやってくる

がん哲学外来

2008-01-26 | 医療・病気・いのち
人の生き死になんて 頭の片隅にあるかないか
というような状態で私たちの多くは生きている
死について考えるのは
癌などの病に倒れたときということが多いようだ

統計によると1/3くらいの人が
癌で亡くなっているので
死因が癌ではないけれど 癌を経験した人まで含めると
ひょっとすると現代日本人の半数くらいは
癌を通して死を実感するのかもしれない

世界の 宇宙の 真理を問う哲学
生きるとは何か という問も哲学となる
ということは現代に必要な哲学的視点の一つは
癌を如何に生きるかという問いかけであろう

もうすぐ順天堂大学に
がん哲学外来
なるものが開設されるらしい
担当が分子病理学の教授ということなので
実際の癌の臨床にどこまで関わってこられたのか疑問であるが
逆に言うと分子レベルの眼を通して
真剣に癌と向き合ってきた経験から
深い深い思索をされてきたものと思われる

すべての哲学者がそうであるはずは無いが
頭の中だけで
さまざまな言葉を突っつきまわす
というイメージが哲学者にはついて回る
そういう人たちが語る哲学は
あまり私たち一般の人間には
響いてこない

がん哲学外来を開くという
実際の行動を通して
さらに思索を深められていくであろう
この人こそ 哲学者と呼ぶにふさわしいのかもしれないし
多くのことを私たちに考えさせてくれるのかもしれない

ぜひ世に向かっても
多くの問いかけをしていただきたいと思う

そしてその外来に
医療関係者だけでなく
様々な人々が結集していくことを期待する

満点パパ

2008-01-25 | 想い・雑感
リストカットという言葉をご存知でしょうか
和製英語だが
手首(wrist)を切る(cut)ということで
自傷行為(自分自身の体を傷つける)の一つを表している
当直をしていると
時折そのような方がやってくる

自傷行為は自殺企図とは区別して考える必要があるそうで
実際リストカットの傷というのは
多くの場合浅く 幾筋かついており
縫合の必要が無いような場合もある
つまり命に関わるようなことは滅多に無い

同じような場所を
何回も切る人が多く
一つの面として皮膚が硬くなっているような人までいる

自傷行為に及ぶ原因は多岐にわたっているそうで
素人の私にはよくわからない
しかし救急外来にやってくる人の多くは
一人住まいではなく家族などに付き添われてくる印象があるので
やはり周りに対して何かを伝えたいとする心の反応という面はあるのだろう

自傷行為のことを言うと
私には関係ないというひとがほとんどであろう
確かに自分の身体を傷つけるということにかぎればそうかもしれないが
私たちの多くは
自分の心を自分で傷つけるという自傷行為をしがちなのではないだろうか

いつまでも過去を悔やむ
あの時こうすればよかったと自分を責める
今の自分を自分が受け入れようとしない
自分で欠点と思うところにばかり目がいく
などなど
毎日のように自分を傷つけていないだろうか

昔 三波伸介が司会をする
「減点パパ」というのがあった
有名人の父親の家族に父の特徴を語らせ
三波伸介が大きな似顔絵を書く
父親が登場した後で
家族が父親に直してほしいところを言ったりという間に
似顔絵の上には○がついたり×がついたり
最後に家族から父親への手紙が朗読され
父親の似顔絵に大きな丸がつけられるというものだった
最終的には
いろいろあるけど 今のままでも十分素敵なパパじゃないかという流れ
そのままのその人を受け入れ満点をあげる

私はつい最近まで
その番組のタイトルを減点ではなく 満点パパと覚えていたのも
三波伸介の
みんなそのままですばらしい
というメッセージを感じていたからかもしれない

自分で自分の心を傷つけることなんか
自分自身を採点して減点していくようなことなんかやめたほうがよい
今の自分を自分が受け入れ
先ずは大きな丸を自分自身にあげた上で
より大きな丸を目指せばよいだけではないだろうか

拒食症

2008-01-24 | 想い・雑感
 時々カーペンターズのCDを聞く。美しく澄んだメロディーと歌声に心が和む。その歌声の主であるカレン・カーペンターが、拒食症が原因でなくなったことは有名である。一旦は回復したかに思えたが、結局は拒食症から心不全で亡くなった。

 拒食症と聞けば、多くの人は食べさせればいいじゃないか、と思うのだが、無理に食べさせても吐くし、一人にすれば結局食べないので治療はきわめて困難なことが多いようだ。

 また、いよいよ体調が悪くなれば、点滴などで強制的に栄養をつければ良いじゃないかとも思うであろう。しかし、飢餓で衰弱した体は、ある時点を過ぎると、様々な酵素なども枯渇し、いくら栄養を補給しても、体がそれを利用できなくなってしまう。例えば、ラインがずたずたになった工場に、いくら材料が運び込まれても、その工場ではもはや何も作り出せないのと似ている。

 その拒食症という病気について、あるいはその治療の難しさについてなど、今の時代インターネットで検索すれば、かなりの情報が得られる。報道の立場の人は、それくらいの情報収集くらい最低はしてほしいものである。

 以下の報道について、私が疑問に思う点は、

1:2006年の11月の事例が、今になっていくつもの新聞で出るのはなぜか。
2:ニュースタイトルの多くが、搬送の遅れが死亡につながった印象を与えるが、そこには報道の意志が働いているのではないか。報道者はその因果関係を、自分なりに検証したのか。
3:搬送依頼から病院到着までが57分、心停止までが2時間、死亡までが11時間くらい、ということからして、病院到着までが10分であっても、もはや命を維持する術は無かったのではないか。
4:この拒食症患者はそれまで何回も治療を拒否していた点や、状態が悪化すれば死亡することもまれでない点などを鑑み、報道のなすべきことは、拒食症という病気の難しさなどを啓蒙し、医療に問題があるならそこを追求することではないのか。

などという点です。

では、記事の一つをどうぞ。

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7病院受け入れ断られ、拒食症少女が死亡…大阪
 大阪市などで2006年11月、救急搬送された同市都島区の少女(16)が、周辺の7病院に受け入れを断られ、翌朝に死亡していたことがわかった。
 市消防局などによると、11月30日午後10時20分ごろ、少女の意識がもうろうとしているのに母親が気づき119番通報した。
 救急隊の到着時は意識があったが、約1時間後に8番目の大阪府守口市内の病院に搬送されたときには少女はショック状態で、約1時間後に心停止状態となった。
 少女は翌日午前9時ごろ、心不全で死亡した。
 病院側は「搬送の遅れと死亡との因果関係は分からない」としている。
 少女は拒食症で、過去にも救急搬送されたことがあったという。
(2008年1月19日 読売新聞)

予測可能?

2008-01-23 | 想い・雑感
「あーした てんきに なあーあれ」
と言いながら
履いている靴をポーンと足から放り出す
落ちた靴が裏返ったら雨
 表を向けば晴れ
  横を向いたら曇り
と決めて明日の天気を占う
なんてことを子供の頃やっていた記憶がある
まあ予報なんてその程度のものだという意識があったのだろう
自然と密接なつながりのある職業人は
それよりもずっと高い確率で翌日の天気を当てていただろうが
相手は自然
そんなに正確さを求めても無理だろうと思う

ところが最近では
天気予報が少しはずれると
お叱りの電話やメールがかなりやってくるらしい
昔に比べて随分と予報的中の確度が高くなっていると思うのだが
それでも許せないらしい
そういう人たちは
自然現象はすべて把握可能であり
データから予測もできると考えているのかもしれない

多くの気象データを高性能コンピューターに入力し
多くの予測式を総合して
天気予報を行っているのだろうが
現在データとして取られていない要因が
気象に影響することだってあるだろう
予想につかう計算式が
実際の動きを必ずしも正確には表現できていない面もあるだろう
自然というのは要因が多すぎて
そのすべてを把握できるわけが無いのである

人の体も同様である
自然というものを人間と対峙して考えるむきもあるが
人間も自然の一部である
その体の中に自然が具現化されているのである
複雑な化学変化が
体の隅々で起こっており
そのすべてが統合されて
今私たちは生きているわけである

基本的に医療というのは
人体から得る様々なデータを分析して
統計的によさそうだということをやっているわけで
ある個人にとって
絶対良いかどうかについて
完全な保証があるわけではないのである
個人の体の中で起こっているすべてがわかる分けないのだから
それは当然である

しかし人体に起こることに
予期し得ないことがある
ということを許せない人たちがおり
それを糾弾することが正義だと思っている人たちがいる

やはり現代人は
自然とあまりにも乖離した生活をおくりすぎているのだろう
人類は自然を飼いならしていると勘違いしているのだろう

お名前は忘れたが
東京大学の地震学者で
しゃべる途中で声が裏返っているように聞こえる外国人が居る
そのひとが
「地震の予測なんてデキマセェーン」
というと人は笑ってしまうが
自然を相手に研究をすれば
わからないことのほうが多いということが
実感として わかるのだと思う

自分では面食いだと思っている

2008-01-22 | 想い・雑感
面食いじゃないね
などと友達に言われたことがある
どうも一般的に美人と言われる人でないひとと
ご縁があったからなのだろう
私だって美人といわれる人は
やはり美しい!!と思うわけだが
たまたま美人とまではいかない人と縁があったと言うだけだ
そしてそういう人の中に
自分と合うところや 美しさを見つけたと言うだけだ
自分が良いと思えば
それが真実であり現実なのだから
人からとやかく言われる筋合いの物ではない
私はあくまで面食いである

どうも現代日本では
均一性が尊ばれるようである
美の基準があるようなことを言う人もある
工業製品が均質であることは大切であろうが
人の感じ方や考え方まで均質であったりすると
それは気持ちが悪いというか
恐ろしいことである

新聞の記事など
どの新聞を読んでも同じ
であることは珍しくない
情報や情報に対する考え方までも
均質でなければならないかの如くである

マニュアル化社会というのは
均質性を求めると共に
手間を少しでも省き
そこに合理性を見ようとする社会なのだろう
一人一人のことはおいといて
さっさと次に進みましょう
という社会なのだろう

あまりにも均質さを求める社会になってきたからこそ
言葉の上では個性の重要性を訴えるのかも知れない

肉体年齢

2008-01-22 | 医療・病気・いのち
心身に関しては様々な個人差があります
加齢の度合いにもかなり個人差があります
50代後半くらいからは
肉体年齢は人によってどんどん違ってきます

えっ!!70歳!!!と思うような
60歳くらいにしか見えない方から
80歳にはなっているだろうとしか考えられないような方まで
その差は驚くほど大きなものです

胃癌のために84歳で手術をした方(Sさん)がおられます
手術をするときも70代前半という印象でした
進行胃癌にも関わらず無事5年以上経過しました
途中で大腸ポリープを内視鏡下に切除する治療も受けました
今年の2月には90歳です
息子さん二人は遠方に住んでおり一人住まいです
病院にも一人で来られます
日常生活はすべて自分でやっています

こういう方を拝見すると
人を年齢で区分けして
受けられるサービスに差をつけるというのは
全く実態を見ていない発想だろうと思います

75歳以上の後期高齢者に対する医療に制限を加えることになるであろう
後期高齢者医療制度はまさにその典型でしょう
一人ひとりが違うのだから
その人に必要な医療を一人ひとり違うはず
そこを考えずに
全部平均値でみる発想ですべてを判断するのは
あまりに医療のあり方と相容れない思考と思います

Sさんにとって
胃癌の手術も
ポリープの切除も
必要な医療でしたし
意義あるものだったと思います
このような方に対し
年齢だけで提供する医療に制限を加えることが
正しいことなのでしょうか

1次2次3次

2008-01-20 | 想い・雑感
センター試験が行われていますね
私の頃は存在しなかった制度なので
よく理解しておりませんが
1次試験という位置づけなのでしょうか
それぞれの大学の試験が2次試験かな

就職活動の際もいろいろと試験があるのでしょうね
書類審査
二次審査
三次審査(面接)とかなんとか

最近問題となっている救急医療の場面でもあるんです
それは救急病院の区別
一応1次から3次までの区別があるのです

1次救急:軽症の救急疾患に対応
2次救急:入院を要する患者を受け入れる
3次救急:2次よりさらに重篤な疾患に対応する

その境界線は厳密ではないにしろ
ぼんやりとその言葉の上での区別は分かります
でも実際には
多くの場所で1次も2次も無い状況です

通常1次救急は開業医さんや小病院などで対応するものですが
そのようなところは夜はやっていません
少人数で働いているので当然
夜まで仕事をする事など無理です
私がその立場なら
夜まで働こうなんて思いませんからね

私の住んでいる市では
夜間・休日急患センターが
1次救急の受け入れ先とされています
ところが4~5年前から突然
夜間の営業を23時で終了してしまうことにしてしまったので
結局それ以降1次救急を受け入れるところは無くなりましたし
そのセンター自体の数がもともと少ないので
その時間まででも十分1次救急を見ることのできる体制など
存在していないのです

そうなると
2次救急病院に患者は流れることになります
基本的に入院を要する患者を診る病院で
1次救急を受け入れていると
それに手を取られて
本来の救急搬送対応が不十分になるのはある程度仕方がなくなります
1週間前からの腰痛で夜中の2時3時にやってくる人までいるのですから

1次救急体制をきっちりくみ上げると
かなり救急病院は余裕が出てくると思いますけどね

2次救急病院が十分対応できなくなると
最後の砦である
3次救急病院に負荷がかかることとなり
なかなか次々と救急車を受け入れることなどできなくなります
そして救急車を受け入れられませんということになります

これらは病院の問題ではなく
システムの問題である
ということをしっかり認識する必要がありますね

医療報道

2008-01-20 | 想い・雑感
 昔は腹膜炎を起こせば、かなり重症であり救命が難しいようなイメージがあった。お相撲さんなどが虫垂炎をこじらせ死亡するなどということも、そのイメージを作り上げる要因ともなったであろう。様々な抗生物質が開発、使用されるようになって、ある程度までの腹膜炎は治療できるようになってきた。そのせいか腹膜炎がそれほど怖いものではないかのような印象をもたれはじめているようだが、やはり致死的になることは少なくない。

 消化管穿孔(消化管に穴が開く)は、腹膜炎を引き起こす原因の一つである。消化管と言っても、胃、十二指腸、それに小腸などに比べて、大腸ははるかに多くの細菌が住み着いているので、腸管の下流に行くほど、穿孔の際に重症な腹膜炎になる傾向がある。

 特にS状結腸や直腸の穿孔ということになると、便がそのままお腹の中に出て行くこととなり、手術をし、抗生物質を使い、全身管理をしても救命できないことがある。腹膜炎から、肺血症、敗血症性ショックそして多臓器不全となり死にいたるわけである。

 以上のようなことは、少し調べたり、聞いたりすれば、わかってくることであると思うのだが、調査する努力すらしてないような記者が最近は多いような気がする。身の回りに情報が多すぎて、丁寧に事実を積み上げていくという努力が軽視されているのだろうか。

 最近メディアでは、医療の問題を取り上げることが多い。そんな中、医学的に見て、何が問題なのかわからないような報道が多い。こうしてこうなったのだったら、残念ながら患者さんが死に至るというのは、普通に起こることだなあと思うようなことでも、何か間違いがあったから死に至ったというような書き方をする場合が多い。そのほうが受けると思っているのだろうか。

 私自身、様々な報道を見ていて、こんな取り上げ方をされるのなら、外科なんてやってられないという想いが、年々強くなってくる。同じように考えている外科系(当然産科医も含む)の医師は多いはずである。実際、日本外科学会の会員数はすこし減少傾向である。医師全体の数は増えているのに、である。

 医療の問題を取り上げるのなら、漏れ聞いた情報から記事を書くようなことはしてほしくない。医療問題に精通したデスクを育て、その責任の下で記者に記事を書かせるくらいのことはしてほしいものである。世論の感情に迎合したような記事でなく、事実に基づいた抑制の効いた記事をだしてほしいものである。

 ということで、「医療報道」というカテゴリーを追加することにしました。

術後の坐骨神経痛

2008-01-17 | 医療・病気・いのち
 術後2ヶ月ほど経った患者さんに、片側のお尻から下腿にかけての痛みが出現した。その具合から、腰に問題がありそう。こういう場合、注意しておかないといけないことがある。背骨周囲に膿がたまっていないかである。

 お腹の手術のときには、ほとんどの場合硬膜外チューブを入れてもらう。手術のとき、全身麻酔をかける前に、背骨近くに細くてやわらかいチューブを入れておくのです。術後の痛みをなるべく取り除くためにそのチューブから、持続的に痛み止めを入れておくと、随分と楽になるわけです。

 それはいいのですが、チューブ(カテーテル)は体にとって異物ですから、長く入れておくと細菌が感染してしまうことがある。ひどい場合には膿がたまり、それが脊髄を圧迫して麻痺症状が出ることまである。そんなことにならないように、術後は3~4日目にはカテーテルを抜くようにしている。

 その方の場合、術後時間が経っており、感染の可能性はまず無いと思ったのだが、やはり心配なので整形外科の医師に診てもらった。診断は椎間板ヘルニア。手術とは直接関係のない話ではあるが、術後の筋力低下から腰に負担がかかったのでしょうか。原因はよくわかりませんが、術後にはいろいろなことが起こりますね。

2008-01-16 | 想い・雑感
「鳥」 と聞いて怖がる人はそれほどいないでしょう
すずめ、白鳥、トキ、孔雀、鴎に鷺、鶏
バードウォッチングに焼き鳥
あまり怖い印象はありませんなあ

怖いといえば
ヒッチコック監督の映画 鳥 くらいでしょうか

ところが最近では
鳥という言葉が新聞に出るたびに
少しどきどきする

鳥の偽装問題ではありません
そう 鳥インフルエンザ(高病原性鳥インフルエンザ)
が気になるのです

人への感染症例が増加してきているのとともに
人から人への感染症例も報告されている

鳥インフルエンザはユーラシア大陸全体とアフリカ大陸の一部
それにオーストラリア大陸で報告されており
人への感染報告もその分布と一致している

つい最近中国は南京市で
人から人への感染が確認された
人を宿主とするような遺伝子変異は確認されなかったようだ
(朝日では変異なし、ロイターでは変異を心配する専門家がいるとの報道)

南京と北京は800~1000Kmくらい離れているかもしれないが
北京オリンピックというのは
世界中にウィルスを蔓延されるイベントになることはないのだろうか

感染爆発は すぐそこまで迫っている

現在
国の医療費削減のあおりを受け
救急医療が立ち行かなくなっている
この状況でもし感染爆発が起これば
全くのお手上げ

国は 厚生労働省は
この危機に対してどうするというのでしょうか

厚労省の姿勢は
医療行政は地方の責任ということらしいが
国家的危機に対し
国が先頭を切って立ち向かわずして
国を預かっているといえるのでしょうか

晩酌

2008-01-15 | 想い・雑感
晩酌などというものとは
全く縁のない人生を送ってきた

一旦飲みに出ると
そこそこ飲んでいたが
家に帰ってまで飲むということは
少なかった

ところがこの正月以来
ちょいと一杯
の日が少し増えてきた

自宅待機の日や
術後の患者さんがおられる日は飲まないが
それ以外の日は
ちょいと一杯

正月に買い込んだお酒がなくなったら
やーめよ と思っていたら
知人から1本いただいてしまい
ちょいと味見

うーん なかなか飲みやすい

ここらで止めておこう