まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

やぶ椿 明日の一歩が 踏み出せる

2015年03月17日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は朝からひどい濃霧になった。瀬戸内海では視程不良で停船勧告が出されていた。午後からは高気圧に覆われて概ね晴れていたが、霧の発生している所も残っていたようだった。気温は6度から15度、湿度は94%から66%、風は1mから2mの北の風が少しばかり。明日の18日は前線の影響で雲が広がり、夕方から次第に雨となる見込みらしい。

 

 けいこばぁは、朝の5時過ぎから起き出して出て行った。お仕事なのか孫のなぎちゃんの卒業式なのか、その両方なのか・・・。私は、お仕事が一段落したせいか、目が覚めたのは7時半だった。

 

 で、火曜日は恒例の県立図書館通い。借りていた本を返却し、今度は何の研究をしようかと本棚を巡って歩いた。ふと、見ると、「漁業」コーナーに「十八人の墓」という本があった。あの塩飽騒動のことを書いた本だったが、小坂小誌はもう封印したので、手には取らなかった。

 

 手に取ったのは、堀家先生の書いた・・というか纏められた「丸亀市・寺院名鑑」だった。確か、「神社名鑑」も作られていた筈。

 

 こういうものならば、案外と簡単にできそうだなぁと思って、さぬき市内の志度・津田・長尾・寒川・大川の5町の町史を借りて来た。さて、どんな、神社名鑑・寺院名鑑ができるだろうか。

 

 次いでやって来たのは、いつもの仏生山法然寺さん。ここは、高松藩の菩提寺で、高松藩主のうち二代と九代と十一代を除く全藩主や家族のお墓がある。

 

 それがこの、「般若台」と呼ばれる、法然寺の裏山の頂上にある藩主の墓所である。昔は、法然寺の仏間からトンネルを抜けて、ここに逃げられるようになっていた。最後の最後には、この初代藩主、松平重公の墓前で切腹するというのがお作法になっていたのだとか。

 

 これが初代藩主、重公のお墓である。

 

 一方、こちらは、高松藩最後の藩主、11代松平聡(よりとし)公のお墓で、谷中霊園乙4号1側。乙4号は、1側~6側まで2セットあり、低地の方(東側)。谷中墓地で最大のエリアを持つ。徳川慶喜公墓所より大きい。石塀で囲われていて非公開だが、門の外から見ることができる。このお墓全部を、トラックに積み込んで高松の法然寺に運ぶという、壮大なプロジェクトが動いていた。今はほぼ完成状態だという。

 

 この方が高松藩最後の藩主聡公である。高松藩朝敵事件で土佐藩に占領され、謹慎の処分を受けたが、復位して香川県知事にもなったが、東京に呼ばれ、東京で没した。そのお墓を、故郷に戻そうというのだから大変だ。この山の上まで、二千個もの石をどうやって運ぶのか・・・。

 

 これが、東京谷中から、藩主の墓石を梱包してきた木材。

 

 そして、お寺の反対側から雄山に臨時の作業用道路をつけて運び上げ、組み立てたのだという。

 

 計画では、昨年の10月を目途にしていたようであったが、この3月でようやくに完成らしい。

 

 今日の掲示板はこれ。「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない」というもの。斎藤一人さんの言葉である。やってやれないことはないのだと、最近、そう、感じることが多くなった。かと云って、空を飛びたいとか世界一のエンジニアになりたいとか、そういうことではなくて、やりたいと願っていれば叶うものだと思うようになったし、夢中になってやっていればどうにかなるものだと思ってみたり。ただ、やれないと諦めて、やらなければ絶対にできる訳がないというのも道理であるし・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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