まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

豆まきが こんなに悲しい 遊びとは

2017年01月31日 | 今週も俵札調査

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は2.1度から8.3度、湿度は71%から65%、風は1mから4mの北西の風が少しばかり。明日の2月1日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。

 

 先週は法務のためにお休みをしたので、二週間ぶりの「前山活性化センター」への出勤である。この二週間の間にはさまざまなことがあったように思えて、なんか、懐かしい・・という気分になった。

 

 だから、何を、どうすればいいのか「浦島太郎」状態・・・。作業は大詰めに入ったようで、どれを展示するかを検討中。

 

 写真撮影が終わったものの中から、どれを展示するかを抜き出していく。

 

 お札、神符、お守り、掛け軸という分類できるものは、もう、片付いた。最後は「その他」という雑多な紙くずが残っている。薬の袋だとか、新聞広告だとか、手紙類、証文、領収書だとか・・・。

 

 これは、高野山・金剛三昧院へ寄進をしたものだろうか。

 

 今頃はお遍路さんのオフ・シーズンになるものか、今日は一人も歩きお遍路さんを見かけなかった。

 

 お昼からは、香川県立図書館へ、借りていた本を返却しに行った。

 

 お昼からだと、それなりに利用者が多い。で、圧倒的に女性が多いなぁと思ったことだった。

 

 で、五冊の本を返却して、また、五冊の本を借りてきた。多く借りても読む時間がないし、たくさんだと読む気がしなくなるのである。

 

  この時期になると、このお話。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しんだ。

 

  1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

  1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」の権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

  住宅顕信の人生も俳句もまた、「未完成」のままに終わってしまった。南無阿弥陀仏に出会った人生。彼の人生は「むなしくはなかった」のだろうか・・・。

 

  二月が来ると、なぜか、この夭折してしまった自由律俳人、「住宅顕信」のことが思い出されて仕方がない。

 

  今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信の俳句から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことばと言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人だ。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


如月は 人の数だけ 鬼が居る

2017年01月30日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で曇りで、昼前まで雨が降っていた。気温は9.3度から11.5度、湿度は96%から64%。風は1mから8mの西の風が一時は強かった。明日の31日は、高気圧に覆われて概ね晴れるけれど、寒気の影響で朝まで曇る見込みらしい。

 

 今朝は朝から雨になった。義兄の所に休憩用のいすとか布団とかを運ばないといけないのに雨・・。今日は「入所手続き」もやらないといけない。

 

 奥方は、午前中はお休みして、着替えや持ち物に名前を書かないといけないとかの雑用をこなすつもりであったのに、担当の利用者さんが急変したとかで、急遽、事務所に戻ってしまった。そうなると、事務処理とか荷物運びとかをやらないといけなくなった。

 

 義兄は全くの新天地で暮らし始めるのだから緊張はするし、興奮もする。目が不自由なだけに環境や空気に敏感だから、声が大きくなるし、イライラが起こり始める。見ている私もストレスが最高潮に達する。

 

 ラジオでもと、CDラジカセを箱から取り出したら、AC電源のコードがない。乾電池は・・と調べたら、単一乾電池が8個もいる。それじゃぁダメじゃん、春風亭昇太。

 

 10時過ぎから「入所手続き」が始まった。私は奥方の代理で、「誓約書」とか「身元引受人」とか「費用弁済書」とか数枚の用紙に記入し、押印するのだが、急いで来たから印鑑がない。

 

 金銭管理や重要書類保管のために、小型金庫を買ってくださいというので、町内のホームセンターに行って来た。

 

 お店について慌てた。財布も免許証も何もない・・・。仕方がないから我が家まで戻って、いつもの手提げ袋を探してお店に戻って・・・。全く、「へよちまとち」なことだった。

 

 金庫を買って、印鑑を持って、ようやく「入所手続き」も終わった。それから先は自分でやってもらうしかない。担当者にお願いをして、私は施設を出た。

 

 夕方に、奥方がネーム書きとかをやったよう。でも、神戸市からさぬき市への住民票の転出・転入届けとか、支払いのために銀行の切り替えとか、年金証書の住所変更とか・・・・まだまだ、たくさんやることがあるらしい。

 

 そんなことで、午後からはくたびれきって、ため息ばかりついて過ごした。この一週間はいろんなことがありすぎた。少しばかりお疲れ気味。

 

 夕方、奥方が、机を買いに行くというので、また、運転手で家具屋さんまで行って来た。明日からは通常の生活に戻れるはず。明日は、前山のおへんろ交流サロンへの出勤予定。気分を入れ替えてがんばるか。

 

 これは、私の10年日記。縦軸が年代、横軸が月日になっている。これを見れば、過去の今日に、何があったかがわかる仕組み。

 

 二月になったら、鬼のお話ばかりになるが、今日の掲示板はこれ。「ぬけぬけと「鬼は外」とは笑止なり」という、いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。調べてみれば、この句は、ある同人誌に投稿された俳句であるらしい。節分の行事は、お寺でも神社でも行われているが、神社では「追儺(ついな)」という行事からの変化らしいが、お寺の節分はそれなりの独自の意義と作法のある法要になる。そんな難しい節分の意義を、一言で表す法語がこれだが、別のお寺では、「ぬけぬけと 「鬼は外」とは その口で」という句を見かけた。上五・中七は同じだが、「その口で」というのが鮮やかなぁと思ったことだった。節分という季節の変わり目を機会に、この口を、このこころをリセット・再起動せよというているのかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


南無阿弥陀 化身の梅か 寺の鐘

2017年01月29日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で概ね曇り、瀬戸内側を中心に雨の降っている所があった。気温は4.0度から11.9度、湿度は96%から78%、風は1mから3mの東北東の風が少しばかり。明日の30日は、気圧の谷や寒気の影響で曇り、朝から昼前にかけて雨が降る見込みらしい。

 

 昨夜は、引っ越しの打ち上げということで宴会になり、カラオケまでやって賑やかだったが、今朝は一転して、荷物の片付けから始まった。まずは、当面必要でない品物、古着とか書類とかを山の旧宅に運んで収納した。

 

 2トン車一杯の荷物を片付けた。

 

 山の旧宅は無人で、何度も盗難にあっているもので、金目の物は我が家に仮保管しておく。このエアコンは、島の家に流用することになっている。この作業には、娘と孫の「なぎちゃん」も加わった。代わりに「はやてくん」がプレゼンをやるために出かけていった。

 

 お昼前に、奥方の「けいこばぁ」が戻ってきたので、昼食に出かけた。で、木田郡三木町にある「和楽」という割烹ランチ屋さんに入った。予約もしていなかったのだが、運良く和室に入ることができた。

 

 ここは、都知事になる前の「小池さん」もおいでになったお店だとかで、隠れた名所、穴場的なところだという。で、7名全員が、「C定食」というものを頼んだ。左下のどんぶりは、おうどんではなくて、おそばだというのだが、まるで感触は糸こんにゃくみたいなものだった。これで1,400円はお安いなぁということだった。これも、お施主さんのおごりとのこと。

 

 そうめんと言うても、ここにあるような、「黒米酢素麺」というものらしい。変わった素麺であったことには間違いない。

 

 ご馳走になったあとは、施設の見学に出かけた。隣町にある「香東園」で、ここは、県下唯一の、「盲養護老人ホーム」(写真左側の建物)。右側が「特別養護老人ホーム」で、後日、お兄ちゃんの奥様が、ここに入所し、この渡り廊下でお互いを訪問することができる。

 

 こういう中庭があるし、

 

 こういう明るい廊下もあって、落ち着いた静かなところ。ドアのあいている部屋が「お兄ちゃん」の部屋である。

 

 お食事は、こういうところで食べるらしい。

 

 室内には、トイレと洗面台がついている個室。お風呂や洗濯場も近くにしつらえてある。見学が終わると、お手伝いのメンバーはそれぞれに帰って行った。

 

 残った私たち二人は、当面の衣類や日用品などを準備して運び込んだ。一人で生活するにはいい所だなぁと思った。で、正式入所は明日から。

 

 今日の掲示板はこれ。相も変わらずの「鬼」シリーズ。「心中にひそめる鬼はいかに追う」という富安風生さんの言葉。富安 風生(とみやす ふうせい)は、明治18年(1885) -昭和54年(1979)は、日本の官僚でもあり俳人でもあった。本名は謙次。高浜虚子に師事したこともある。節分の豆まきなどで、「鬼は外、福は内」と豆をまいて鬼を追い払う行事があるが、いくら大声で怒鳴っても、いくらたくさんの豆をまいてみたところで、この私の心のなかに巣くう鬼をどうやって追い払えばいいのだろうか・・・」という句であろう。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


悔いなしと 落ちる椿の 花の音

2017年01月28日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は2.4度から11.2度、湿度は96%から65%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の29日は、はじめ晴れるけれど、気圧の谷の影響で昼前から曇り、午後は雨の降る所がある見込みらしい。

 

 奥方のけいこばぁのすぐ上のお兄ちゃんが神戸に住んでいる。そのお嫁さんが老化で施設に入所してしまった。だから、お兄ちゃんは一人暮らしになった。お兄ちゃんは目が不自由だから、一人で生活するのは難しい。そこで、そのお兄ちゃんを、けいこばぁが香川の施設に引き取ることになった。

 

 身寄りがないといえばないこともないのだが、いろいろと事情があって、奥方がなんとかしなくては・・ということで、我が家の近くの施設に入所させることにした。奥方にすれば、実のおにいちゃんだから仕方がないということらしい。

 

 で、私と奥方の二人が、お兄ちゃんと、身の回りの着替えとかを引き取りに行く手はずのところ、娘婿の「かねちん」と、孫の「はやてくん」もお手伝いに行くというので、四人が早朝から神戸に向かってくれた。実は、私は右目の白内障が進んできたために、遠距離の、しかも、高速道路などは走る自信がなかったので、ものすごくうれしい申し出だった。

 

 「かねちん」の運転する車のナビゲーターの指示通りに走っていると、こんなものが見えた。若い頃、私は、「神戸都市管理部」というところに勤務していた。その頃の所轄を走っているのに、こんなものがあったことは記憶にない。

 

 でも、こういう工場は記憶にある。昭和の40年代、1960年代の後半から、1970年代の前半頃だったと記憶している。

 

 この工場も健在だった。こういう場所に、お兄ちゃんは住んでいる。それも、その市営住宅に入ったのは2年前の2015年の八月だった。暑いときにお引っ越しのお手伝いに来たものだった。でも、1年半ほどで引っ越すことになってしまった。

 

 で、「かねちん」がエアコンの撤去とか、孫の「はやてくん」が電灯器具の撤去とかをやってくれて、物事は大きくなって・・・。

 

 親戚の、「よしつぐさん」まで駆けつけてくれて、2トン車を準備してくれて、衣類からテレビから、必要なものすべてをトラックに積み込んで、必要のないタンスとかは、後日、業者さんに処分してもらうことになった。

 

 私一人だったら考えられないことを、みんなが協力してくれて、一気に物事が進んでしまった。まぁ、奥方の「力」なんだろうなぁと思った。

 

 ここに来た時は真夏の、しかも、38度とかという猛暑の時期だった。それが、4度とかの真冬の引っ越しになった。

 

 お兄ちゃんのたってきの必需品は「かねちん」の車に、それ以外のものは、この2トン車に積み込んで、二台の車は四国さぬき市を目指して走り出した。もう、夕方の16時を過ぎていた。

 

 夕闇迫る鳴門大橋を通って、18時過ぎに我が家に到着。

 

 跡は、打ち上げ・・ということで宴会になったのであった。

 

 今日の掲示板はこれ。「私の人生を変えられるのは私だけ。誰も私のためにそんなことやってくれないわ」というもの。キャロル・バーネットは、アメリカのテレビ・ミュージカル女優。コメディアン。ブロードウェイで舞台デビューし、テレビへと活動の場を広げていく。いくつかのテレビバラエティー番組のレギュラーを経た後、CBSで自らの番組キャロル・バーネット・ショーを受け持つ。同番組は12年続く長寿番組になった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


風となり 枯れ野飛び去る 鴨数羽

2017年01月27日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷の影響で曇り、夕方は雨の降る所があるらしい。気温は2.6度から13.5度、湿度は86%から52%、風は1mから6mの西北西から西の風が強くなってきた。明日の28日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 さぬき市前山にある「前山ダム」に、年がら年じゅう回らない100万円の水車があるという話を小耳にはさんだ。一度、見てみたいものだというので、寒いけれど行ってみた。

 

 上のダムカードの向かって右側の植え込みの中あたりである。突き当たると広い駐車場になっており、その下に、こういうダム公園が作られていたらしい。今は管理もされておらず、荒れ放題になっている。この正面に水車らしきものが見えてきた。

 

 ほんに、水が流れておらず、水車は回っていない。これが、噂の「100万円の水車」なのか・・。上の水路とか、水の流れる流路なんぞも含めての100万円なのだと思う。昔は、このあたりに十数軒の製粉農家があって、水車を使って小麦粉を作っていたという。それを荷車に積んで行商をしていたのだとか。戦後、安い外国産が入ってきたので、水車小屋は一軒も残らず廃業したのだとか。それを再現したのだろう。

 

 いろいろと調べていたら、完成当時は水も流されていて、水車も回っていたようである。

 

 完成当時は、こうした水の豊かな公園になっていたのか・・・。ダムの放水路の反対側は、キャンプ場になっていたのだが、そちらもクサリで閉鎖されてしまっていた。どんな事情で閉鎖されてしまったのか。

 

 さて、奥方が、明日、神戸に行くので、「お土産に生牡蠣を買っておいて・・」と頼まれていた。そこのお店は11時開店だというので、トイレ休憩と時間待ちのために、この、道の駅に寄った。

 

 「源平の里むれ」は、源平屋島合戦の古戦場として有名な場所に位置しており、海を望む風光明媚な土地柄である。利用者の憩いの場所として道の駅の隣に公園を設けるなど、家族で楽しんでいただける場所となっている。また、最高級石材庵治石で造られた石のモニュメントなども展示してある。

 

 で、うどん県民バッチと・・・、

 

 おへんろくん缶バッチを買った。前にも買ったのだが、いつの間にやらなくなってしまった。

 

 海鮮食堂じゃこやは、セルフ方式の食堂で、瀬戸内海の新鮮な魚貝類を中心に旬な魚を提供している。また、穴子のちらし寿司・焼鯖の棒寿司・旬な魚の一夜干しなどの、こだわりの商品もいっぱい並んでいる。

 

 で、近くにある「はまかわ」という「牡蠣焼き」のお店で、生ガキのむき身を買った。

 

 中サイズ、1Kgで1,100円を二個買った。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼という おそろしきものはどこにある 邪見の人の 胸に住むなり」という、いつもの赤松先生のお寺にあったもの。一休禅師のことばからである。鬼は地獄に住むものと子供の頃から教えられてきたが、その地獄なり鬼なりはどこにあるかといえば、みんなこの身や、この心の中にあるというのである。「邪見」はまちがった人生観や世界観である。身びいきや身勝手なエゴイスティックな人生観や世界観が地獄の世界であり、鬼の住むところ なのであるというているのである。(松原泰道『一休さんの幸福論』より)

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


山椿 うれしいことは 小声にて

2017年01月26日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は0.4度から9.8度、湿度は90%から61%、風は1mから2mの西の風が少しばかり。明日の27日は引き続き、高気圧に覆われて晴れるけれど、気圧の谷の影響で、昼前から夕方は曇る見込みらしい。

 

 今日は風もなく晴天のいい天気になったもので、さぬき市の北部、さぬき市志度から鴨庄、大串、苫張、小田・・・という海岸線をドライブしてきた。

 

 日当たりがいいものか、早くも梅が咲いている。ほんに、今日は春のような陽気になった。

 

 すると、こんなものが目についた。一般的には「火の見櫓」というのだが、

 

 ここでは、「警鐘台(けいしょうだい)」と書いてある。なになに、「護衛空母・しまね丸」だって?? しまね丸は、全長160.5メートル、幅20メートル、排水量20.469トン、速力18.5ノットの大型油槽船で、飛行甲板を取り付けて対潜哨戒機の発着を可能とした民間籍(石原汽船)の空母であった。船団に加わり、自ら油を運びつつ護衛空母も兼ねようというもの。九三式中間練習機12機が搭載可能であった。

 

 ほほう・・、これが機銃による弾丸の跡か・・・。昭和20年2月28日、神戸の川崎重工で完成後、使用の機会の無いまま同年4月3日志度湾の長浜沖に隠された。このころから本格的な連合軍の空襲が始まり、7月4日は高松空襲、次いで7月27日にしまね丸は4隻の英空母艦載機の集中攻撃を受け二つに折れ沈没した。

 

 昭和23年、現場で解体されることとなり、その際、地元・志度町の有志が貰い受け警鐘台として活用してきたものである。

 

 油を運ぶために作られた「油槽船」だったが、完成した時点では燃料不足で動かすことができなかったというのは悲しい話だ。で、田舎の小さな湾に隠し、植木や迷彩を施したのだが、空から見ればすぐに発見されてしまったというのもお粗末な話でもある。

 

 ところがである。高松市屋島東町にある民家博物館「四国村」にも似たようなものがある。「この警鐘台は、もと護衛空母「しまね丸」の無線マストだったもの。「志度町消防団 鴨庄台部屯所」前にあったのを移設。」という説明看板がある。上の図面を見ても、無線マストは1本である。では、これはレプリカなんだろうか・・・。

 

 大串半島の先っぽに、こんなものがある。大串狼煙場跡で、案内看板によると・・・

 

 大串岬の頂上に、直径約5mの円形上に、高さ約4mの地石を積み重ねた、見事な狼煙場跡があった。狼煙場は、戦争の合図や事件が起こった知らせとして、火をたいて煙を上げ、海上の警備と島や船との連絡機関として各地に設けられたもので、東讃においては、安戸・蕪越(かぶらごし)・松原・三本松・鶴羽・馬が鼻・大串岬・鎌野などに設けられていた。この狼煙場跡は江戸中期以降高松藩が構築したもので、ほぼ完全に残っている大串岬の狼煙場跡は珍しく貴重なものである。昭和59年に元の位置から北、約100mのこの地に移転修復した。元の位置というのは、大串半島の最高部で、温泉を建てる際に、解体移築されたもの。

 

 江戸時代後期、外国船の侵入を見張るために作られたものらしい。

 

 野外音楽劇場「テアトロン」の近くにある。

 

 帰りに立ち寄ったスーパーの文具売り場に、こんなものがあった。「カーボン紙」である。まだ、こんなものを使っている人がいるのだろうか。需要があるから置いてあるのだろうが、カーボン紙を使っていたのは、パソコンやコピー機が導入される前だから、30数年も昔のことのような気がする。

 

 今日の掲示板はこれ。 節分には少し早いのだけれど、町内のお寺にあったもので、「福願う 心の裏に 鬼の顔」というもの。本夛恵『いのちのことば ―南御堂掲示板から。いろんなことばを並べては消し、並べては消ししたこのことば。いまさら、あれこれ云わなくともいいと思った。この言葉通りなのだから・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


山の神 目覚めて里の 花つぼみ

2017年01月25日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は0.5度から7.3度、湿度は82%から61%、風は1mから2mの西北西の風が少しばかり。明日の26日は、引き続き、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。(tenki.jpより)

 

 例年ならば、このあたりでも雪が積もったり、厚い氷が張ったりしている時期なんだが、今年は微妙に暖かい感じ。まぁ、温かいことはいいことなんだけれども。

 

 今日は夕方から「街頭補導」のご用事なもので、朝方は、いつものように香川県立図書館にやってきた。前回みたいに返却期間を過ぎるのはいやだから、早めに借りていた本を返却しておくことにした。

 

 今日は快晴で雲一つないし、風がないのがうれしい。昔、先輩から「冬は寒くない。風が寒いだけだ」と叱咤激励されたことを思い出す。でも、冬は確かに寒いのだ。

 

 やはり、寒いと利用者の出足は悪く、がらんとした館内だった。

 

 本を借りたのを返却しに来たのだが、手ぶらで帰るのもつまらないので、適当に本を借りてきた。

 

 適当といえば適当だった。右目の白内障が進んできているので、細かな活字は読みたくない。写真集とかの眺めるだけのものがいい。図書館に往復するだけで午前中は終わってしまう。

 

 年賀状が終わり、寒中見舞いも一段落したようなので、年賀状を出しそびれていた人や、寒中見舞いを戴いた人に寒中見舞いのハガキを印刷した。愛用のノートPcがおかしくなったので、年賀状ソフトの住所録データが使えない。古いノートPCには住所録データもプリンターも使えない。

 

 悪戦苦闘して、10枚の寒中見舞いのハガキと、書き損じ12枚のハガキを持って郵便局にやってきた。1枚5円の手数料だと聞いていたのだが、古いハガキと新しいハガキの差額も計算している。だから、76円の手数料ということで、新しいハガキ12枚になった。

 

 書き損じ・・・というのは、年賀状の裏と表を逆に印刷したものとか、上下が逆とか、表とはまともだが、裏が逆になっているとか・・。そういうものも貯まってくるともったいないなぁと思えてきて。

 

 その後は自治会の会計処理とか・・・

 

 我が家の会計処理とかをやっておいて、15時半に出かけ、16時からの街頭補導のチームに加わった。

 

 いつもは歩いて街頭補導をするらしいのだが、寒い時期だからと、パトロールカーに乗せて貰って、津田町内をパトロールしたが、寒い時期でもあって、子供や若者の姿は見えない。30分ばかりパトロールして、お仕事は完了となった。

 

 今日の掲示板はこれ。「頂上ばかり眺めずに、まず目の前の一歩をどう歩むかです」という石川真理子さんのことばから。

 頂上ばかり眺めずに、まず目の前の一歩をどう歩むかである。
 目の前の一歩をとにかく大切に
 「遥かな山の頂上を眺めて、とてもじゃないけれど、これは登れないと言っているわけである。てっぺんばっかり見て踏み出したら、転ぶかもしれない。大事なのは、その頂上に続く目の前の一歩を、どんなふうに踏み出すか。できる限りの最良な一歩を踏み出すことに心を砕きなされ。その日その時々により良い一歩を重ねることが、いつしか高みへとおのれを導いていくのですから」 話題になった書籍「女子の武士道」である。著者の石川真理子さんのおばあさんは、武士の娘であり、そのおばあさんが真理子さんに教えた言葉五十五が紹介されている。その中の引用からである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


雪となり 畳拭きつつ 長話

2017年01月24日 | たまにはご法務

 さぬき市地方は冬型の気圧配置が続いたけれど、概ね晴れていた。夜は雲が広がり、雪の降る所がある見込みらしい。気温は1.6度から6.7度、湿度は88%から56%、風は2mから7mの西風が冷たかった。明日の25日は、冬型の気圧配置は次第に緩むため、概ね晴れるらしい。

 

 昨夜から雪が降ったりやんだりとしていたが、そんなに積もるほどの雪ではなかった。

 

 二階のベランダや車庫の屋根にはうっすらと白い物が見られたが、道路上には雪は見られなかった。

 

 でも、場所によってはそれらしく降ったところがあるらしい。そんな雪を眺めながら、隣町の寒川町神前(かんざき)という地区にお仕事でお邪魔した。そこでの雑談中に、「この村(旧神前村)からはエラモン(偉い人)が出とるんぞい」という話になった。その人は現職の国会議員さんのことを言うたらしいのだが。

 

 私が「真嶋正市博士ですよね」と言うと、「ああ、この隣の人やがな・・」と納得。真嶋博士は、香川県下で最初の文化功労者となった方で、応用物理学の父とも言われている。お墓もこの地にある。

 

 正市少年は一升びんに水をいっぱい入れ、近くの小川の岸辺に友人を連れて行った。そして、一升びんを逆さにして小川に立て、小川の底を棒でつついたのである。すると、川底のヘドロの中から泡がポカポカと出てきたので、それを一升びんに集めるのである。友人が「あぶないぞ。」と声をかけたが、正市は自信満々で、一升びんの口にマッチをすって火を近づけると、「ほら、すごいだろう。」と、正市はうれしそうに笑顔を見せたのである。それは青い炎を出して燃えたのである。これは、ヘドロの中にたまったメタンガスが燃えたもので、これも、正市少年が応用物理学の道へ進むきっかけとなる実験の一つであった。

 

 さぬき市立神前小学校の正門を入ると、すぐに真嶋正市博士の胸像が建っている。この胸像は真鴫博士の研究の成果を称え、平成8年11月に多くの人々の力によって、功労顕彰碑とともに建てられたものである。真鴨博士は、応用物理学の研究や世界に誇るわが国の工業の発展のためにつくし、香川県で最初の文化功労者として表彰されている。

 

 たいへんまじめで勉強好きの正市少年は、学校(現三本松高等学校)に入学したが、香川県立大川中学当時、校舎建築が間に合わず、私の所属する勝覚寺というお寺で授業を受けていた。明治35年頃の話である。当時は交通機関もなくて、下駄履きで歩いて20キロもの距離を通学していたらしい。

 

 その後、明治36年に香川県立大川中学校として独立、校舎移転。昭和24年に香川県立三本松高校と改称された。勝覚寺も、保育園や幼稚園として使われたこともある。

 

 さて、Windows10に乗っ取られたノートPCである。数日、電源を落として冬眠させていたのだが、久しぶりに立ち上げても、動くことは動くが動作が鈍い。遅い。何かのスクリプトが働いている模様。まだ、新しいマシンなのでゴミにするのはもったいない。

 

 再セットアップメディアがないので、作ろうとしているのだが、ディスク1枚を作るのに何時間もかかっている。それを三枚も作るとなると、何日もかかるのかもしれない。

 

 今日の掲示板はこれ。「過去のどうにもならないことを悩むより 現在、自分が置かれているところから 将来に向かって人生を切り拓いていこう」という新井正明さんのことばから。住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏のはなしである。兵役にあった新井さんはノモンハン事変に参戦して被弾、右足を付け根から切断した。二十六歳だった。 帰還した新井さんを会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。その最中(さなか)、新井氏は安岡 正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とす る。「自分の身体はもう元には戻らない。ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在、自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いて いこう」この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


寒冷えを  言い訳にして 遅筆なり

2017年01月23日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は、冬型の気圧配置となっているため概ね曇りで、夕方から雪が降り、午後は雷を伴う所があるらしい。気温は3.0度から5.6度、湿度は74%から68%、風は4mから9mの西風が一時は強かった。明日の24日は、冬型の気圧配置は次第に緩むけれど、寒気の影響で曇り、明け方まで雪が降り、雷を伴う所がある見込みらしい。

 

 南国四国には珍しく、香川県下全域に雪マーク・・・。その割に、さぬき市の我が家には雪は見えない。夜中にでも降るのだろうか。

 

 ご案内の通り、岡山にある某大学教授を名乗る方から、私の、この本がどうしても欲しいと仰るので、これを郵送することにした。ま、多くの場合、本を送っても「ありがとうございました」の一言もない人が多い。

 

 ま、先に木地師学会の会報とか「人間禅」の会報やらを送って戴いたのだから・・・と、本を送ることにした。それと、お年玉の切手シートが当たっていたので、そのハガキと、頼まれていた会報の原稿とか、浄化槽の点検依頼書とかを郵便局から送っておいた。

 

 こんなに小さいものだったかな。節約したのかな・・と思うほど。

 

 この前に、香川県立図書館で借りてきた本に混ざっていた物。昨日は、「木地師学会」だけれど、これは、「路上観察学会」が出した本である。1986年設立。学会を名乗っているが学会的運営をされていたわけではなく、実質的には筑摩書房の編集者松田哲夫の企画により赤瀬川原平を中心に据えた、文筆家・美術家・漫画家・特異な収集家を本の出版に合せてまとめた集団である。 「路上観察学会」は1986年に筑摩書房の本「路上観察学入門」の発売に合わせて東京一ツ橋の学士会館で結成発表会を行いマスコミ関係者を集めて質疑応答などをした。(Wikipediaより)

 

 こういう学会があったのか・・。そう言うならば、マンホール観察も、橋の親柱探検も、ダムの観察も、トンネルの探検も、狛犬の観察も、みんな、路上観察になるじゃないか。そうそう、お遍路さんのお墓探しも「丁石探し」も「山頭火の句碑探し」も・・・。

 

 これも、「幽閉された海士のお墓」としたら、立派な「路上観察」になる。どなたかのお墓のように、マニアがお墓を削り取って帰るので、その防止に柵をしてるのだけれど。

 

 これは普通のトンネルに見えるけれど、「塩江温泉鉄道」の廃線跡を市道に利用したもの。

 

 四国霊場88番札所大窪寺近くにある「涅槃橋」に取り付けられた「同行二人」のプレートである。

 

 これは、塩飽本島にある「咸臨丸乗組員・大熊実次郎」の埋め墓である。花筒に、中黒長旗が刻印されている。

 

 これは東かがわ市の某神社裏に捨てられている、おいなりさんの神使「きつね」像である。こんな風に、よおく、あたりを眺めてみたら、いろんなものが見えてくる。

 

 我が家には雪などないのだが、さぬき市南部に行けば、うっすらとだが雪が降っていた。

 

 雪だ、雪だ、真冬並みだ・・というけれど、1月2月は真冬じゃないか。ま、そうは言っても、全国的に見れば、まだまだ、四国は暖かそう。

 

 今日の掲示板はこれ。「昨日にこだわり 明日を夢見て 今日を忘れる」というもの。町内の善楽寺の掲示板にあったものと思う。 真宗大谷派の本多恵先生のお言葉である。過ぎ去った過去にこだわってばかりいて、あるいは明日ばかりを夢見てあこがれ、今なす事を忘れては何もならないということ。過ぎ去った過去は捨ててしまい、まだ来たらずの明日を夢見てばかりでは今がおぼつかない。要は、今の自分を、どう、生ききるか・・・という一点に尽きるというものだ・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


水仙を 呑んで句にする 山頭火

2017年01月22日 | 時にはぼぉっ~とする時

  さぬき市地方は気圧の谷の影響で概ね曇り、雨や雪の降っている所があった。気温は6.3度から8.3度、湿度は83%から65%、風は3mから7mの西の風が一時は強かった。明日の23日も、冬型の気圧配置となるため曇り、夜は寒気の影響で雪が降る見込みらしい。

 

 いよいよと冬らしい天候になってきたが、我が家にはまだ雪は降ってはこない。氷も薄い氷を見た程度。今年は暖冬なのかなぁと思ったことだった。

 

 さて、一昨日に届いたこれらの論文集や「禅」という冊子を眺めていた。「岡山の大学教授」を名乗る、この先生。いったい、何者なんだろうかと考えていた。

 

 この「禅」という機関誌を眺めていたら、「義琛(ぎちん)」という名前で「木地師」のことを書いている。また、別の号では、授業の合間に禅の写真を見せたら、「この人たちはサムライですか」とか、「この女性はニンジャですか」と学生が質問した・・という記事もあった。サムライやニンジャが「禅」をする??

 

 で、いろいろと検索してみると、こんな画像があった。和服姿で袴を着用して座禅をしている。曹洞宗や臨済宗の座禅ではなさそう。調べてみると、「人間禅」というものらしい。で、「義琛」先生は、その、人間禅の布教使らしい。布教使というても、私たちのいう「布教使」とは意味が違うらしい。しかも宗派には関係ないともあった。ますますわからん・・・。

 

 便利になったのか、危険になったのか、その先生の名前で検索してみると、まさしく岡山にある大学と短大の教授で、日本特殊教育学会などの専門分野のほかに土佐民俗学会とか日本木地師学会にも所属していることがわかった。

 

 その「義琛」先生は、旅先で千石船の復元船を見、「塩飽屋」というお店を見たといい、その縁で、塩飽本島の「塩飽勤番所」にも足を運び、しわく広島にも足を伸ばして「ひるねこ」にも泊まったという。たまたま、立ち寄った青木浦の天野商店で私の本を見つけ、丸亀市役所で私の住所や電話番号を知ったという。市役所のどこが、私の個人情報を握っているのか知らないけれど、そういうことらしい。

 

 今日のお昼は、久しぶりに奥方と娘家族との会食になった。奥方のおごりということで、「カキフライ定食とか握り寿司とかを注文したが、私はご飯はいらないので、このカキフライだけだった。

 

 あとは、奥方の食材探しにおつきあい。体のいい荷物運びである。

 

 人間禅は、耕雲庵立田英山が1949年3月に、設立。1875年(明治8年)、山岡鉄舟、高橋泥舟、中江兆民などが鎌倉円覚寺蒼龍窟今北洪川管長を拝請し、一般の人々を対象として始めた修禅の会「両忘会」に源を発しているという。両忘会は、「在家の人々の禅の修行の必要性」を説く在家主義を標榜する・・ともあった。

 

 夕方になると、粉雪になったり、雨になったり、みぞれとなったりを繰り返している。山では雪になっているのかも知れない。

 

 今日の掲示板はこれ。「失敗する可能性もたくさんあるけれども、まずはやってみなければ何も始まらない」という新浪剛史さんの言葉から・新浪剛史(にいなみ たけし、1959年(昭和34年)1月30日 - )は、日本の企業経営者。サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長、元株式会社ローソン取締役社長及び会長(3ヶ月のみ)。 弟は埼玉医科大学教授の新浪博士さん。最初は誰でも初心者だ。最初から成功する確率は低い。失敗する可能性もたくさんたくさんあるけれど、まずはやってみなければ、絶対に成功する筈がない。まずは、歩き出さなければ目的地には着かないのだ。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


冬の川 薄い光を 運ぶ鳥

2017年01月21日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、山間部では寒気の影響で曇っている所があった。気温は4.5度から8.7度、湿度は78%から60%、風は2mから6mの西北西の風が少しばかり。明日の22日は、気圧の谷や寒気の影響で概ね曇り、昼前から昼過ぎにかけて雨か雪が降る見込みらしい。

 

 朝方は晴れていたので、しわく広島に帰って、軽トラのタイヤ交換をしておこうかと考えて家を出たのだけれど・・・。

 

 昨日、自称大学教授先生からレターパックが届いた。内容物は「論文」となっている。

 

 「大学で障害児教育研究をしていますが・・」と言うてはったのだが、論文は「木地師研究」となっている。それに、真宗の坊さんに「禅」の本を送ってくるとは、どういうことなんだろうか。

 

 阿波の徳島には「木地師」という人たちがいた・・という話は聞いていたが、「日本木地師学会」というものまであるとは・・・。それならば、「咸臨丸学会」というものがあって、「咸臨丸研究」というものがあってもいいじゃないか・・と思ったことだった。「古川庄八学会」というものがあって、「古川庄八研究」というものがあってもいいじゃないか。「英国士官レキ学会」というものがあって、「英国士官レキ研究」という機関誌があってもいいじゃないか・・・などと。

 

 中を開いてみると、確かに送られてきた先生の名前らしきものがある。でも、私の名前と同じような大学の先生は何人かいる。

 

 ま、せっかく、論文を送って戴いたのだから、私の「咸臨丸と塩飽諸島」の冊子を送ることにした。

 

 それと、年賀状のお年玉の四等の当選したはがき2枚も添えて郵便局に寄ってみた。

 

 すると、今日は「土曜日」ということでお休みではないか。さらに、しばらく走ると、空が暗くなり始め、小雨まで降り出してきた。日曜日にはご法事が入っているので、帰れなくなったらしかられる。仕方がないので、広島行きはあきらめてUターンした。全く、「へとちまとち」なことである。

 

 で、久しぶりに、ここに行って来た。東かがわ市にある「文遊館」という文具屋さん。

 

 赤ちゃん訪問とか高齢者訪問をした時に、メモしたり、事情を聞く場合に、これがあると便利だと、民児協の会長が話していたのを思い出したのである。下手に用紙を落としたり、間違えたら大変だから、しっかりしたものを選ぶように言われていた。

 

 ここのお店には妙なものがいくらも置いてある。それらを眺めて歩いていると、何を買うために来たのか忘れてしまう。どれもこれも楽しそうなものが並んでいるので、ついつい、自分の欲しい物がわからなくなる。それに、アレをなんと呼ぶんだろうかと・・。

 

 クリップ・ボードと言ったり、バインダーとか言ったり・・・。店員さんに場所を聞いて、ようやく、品物を見つけることができた。これまた、多種多様なものがあるものだ。

 

 「学会」を調べてみたら、100人以上の会員がいれば「学会」になり、それ以下だと「研究会」になるような記述だった。そうか、それだったら、「英国士官レキ研究会」だな・・と思った。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生に回り道はあっても 近道はない」というもの。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。京都の永観堂さんのことばかも。人生の目的地がどこか・・という疑問もあるけれど、遠回りして気づくならば、それも悪くないし、遠回りするからこそ、気づくことだってあるように思う。「歳をとりすぎた!」「チャンスを逃した!」「今からでは遅い!」「もう手遅れだ!」と言うのは簡単だが、まずは一歩踏み出せば、見える世界が変わるもの。遠回りは、幸せへの近道なのかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


水仙の 花の白さや 峠道

2017年01月20日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は気圧の谷や寒気の影響で概ね曇りで、時々雨や雪が降り、雷を伴う所があったらしい。気温は3.8度から10.8度、湿度は86%から62%、風は2mから9mの西南西の風が一時は強かった。明日の21日は、気圧の谷や寒気の影響で概ね曇りで、明け方にかけて雪や雨の降る所があるらしい。雷を伴う所もある見込みなのだとか。

 

 今日は大寒だとか。南国讃岐も冷たい朝になった。朝から冷たい雨が降る中を、奥方が携帯電話を忘れたからと言うので事務所まで届けに行って来た。車に乗り降りするだけで、しっかりと濡れた。

 

 つかさの会の会長から、島のお大師まいりのチラシの修正が入ったので、直して再送しようとすると、エラーが出て、端末を代えて再送したりと、なかなかにスムーズにはいかないお年頃になった。私が老化したのか、端末が陳腐化したものなのか・・・。

 

 さて、一昨日、塩飽広島に帰った時、自治会長さんにお会いしたのだが、「英国士官レキ氏没後150周年記念イベント」をどうするかという提案を受けた。明治元年(1868)年12月20日に死亡したのだから、来年の2018年が150周年になる。もう、来年なのに、骨格もプランもできていないし、やろうという機運もないし、空気もないという。もちろん、資金もないし、浄財もない。

 

 昨年の12月に、丸亀市で病没したロシア兵士の慰霊祭があって、新聞やテレビで放送されていた。だとしたら、英国士官の慰霊祭ならば、堂々とやればいいじゃないですか。と、答えたが。

 

 こんな立派なものやなくても、やれると思うのだが、誰がリーダーで、どうするのかということを考えないといけない時期だと思うのだが。

 

 こんな、陸軍墓地というのがあることも知らなかった。一度、訪問したいものである。

 

 雨は降ったりやんだりを繰り返し、空も暗くなったり明るくなったりを繰り返している。先ほどは大きな雷鳴でどきっとした。そんな不安定な天候だった。

 

 さて、昨日のこの本である。ここに出てくるのは、浄土真宗の寺院で、真宗大谷派(東本願寺)の末寺の「松江山 宝泉院 明圓寺」さん。鞆の浦の中心を抜け、石畳を上ると明圓寺はあるらしい。現在は鞆の浦にあるが、天文年間(1532~1554年)山田村に創建されたと伝えられている。

 

 元は天台宗であったが、2代目が山南 光照寺の明光上人に化導され、歴仁元年(1238年)に真宗に改宗した。文明年代末期(1486年頃)山田村の豪族から日蓮宗に改宗を迫られたが改宗せず、室町末期(1570~1580年)に鞆の浦に移転した。

 

 戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力した。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、顕如上人の長子教如上人から授けられたものだという。

 

 鞆の浦にもお邪魔したが、そういうお話は聞かなかった。また、いつか、訪れてみたい所である。

 

 一月も20日になったので、一月分の活動記録も整理しておいた。今夜あたりから明日の朝にかけても天候は荒れるらしい。

 

 今日の掲示板はこれ。「寒しばれ 暦の上で大寒の こえを聞いたら 春あと少し」というもの。遙か昔の小学校の時、「寒い」を使った言葉で思いつくもの」という先生の問いに「大寒!」というと、「代官は違います!」と云われて悔しい思いをしたのを思い出した・・・。今日から立春(2月4日)までが大寒。この時期さえ過ぎれば・・・あとは、春の足音を待つばかり・・・とは言うものの、これからが冬本番。三月に入るまでは春は遠い・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


このままに 暮れて明日は 冬の空

2017年01月19日 | 時にはぼぉっ~とする時

 

 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇っていた。気温は5.6度から10.2度、湿度は90%から62%、風は1mから2mの北北東の風が少しばかり。明日の20日は、気圧の谷や寒気の影響で曇り、朝から雨や雪の降る所がある見込みらしい。

 

 香川県立図書館で借りていた二冊の本が、返却期日が昨日までであったことに気づいて、またしても、ここにやってきた。この前にここに来たときにはすっかりと忘れていたみたい・・・。痴呆が進行しとるのか、はたまた老化現象なのか・・・。

 

 落ち葉の季節も終わったようで、きれいな通路になっていた。毎日毎日、ここをお掃除している人たちも、お仕事とはいえ、大変なことだ。私など三日もすればやめてしまうに違いない。

 

 返却所で、「遅れてすみません」と言うと、顔なじみのおばさんがニコっとほほえんで黙って受け取ってくれた。

 

 で、またしても五冊の本を借りた。民俗に関するものだった。「両墓制」と、「島遍路」「娘遍路」の資料を探している。どうにも「おへんろつかさの会」の会長からのオーダーがまだ、まとまらない。

 

 伊吹には両墓制も娘遍路もあったのに、そういう記述は一切ない。記録することでもなかったんだろうか。

 

 これは先日かに見た、市原輝士さんの民俗フィールドノートである。得意な絵を差し挟みながらの民俗のお話である。

 

 これも、両墓制や島四国、娘遍路の話題でもないか・・と借りてきたのだが、この中に「親鸞聖人」が出てきたのには驚いた。毛利水軍が本願寺を応援したのは勉強していたが、村上水軍も一向一揆に関係していたのだろうか。

 

 斜め読みだが、こういうのぼりが出ている。今夜にでも読んでみなければ・・。

 

 で、気になる部分は、電子メモ化して保存しておく。

 

 コピーしておくと、どこに保管したのか、どこに挟んだのかわからなくなるし、電子化しても、どこに保存したのか忘れてしまって役に立たないことも多くなった。ま、忘れても実害は何もない。どうせ、この世のことだから・・・。

 

 今日は「119番の日」なのか。今日は19日ということで、さぬき市からの広報が届けられた。これを10戸分に分類して、それぞれの家庭へ届けるのが、自治会長のお役目の一つ。その際に、お年寄りの安否確認も行ったり、空き家に侵入者がいないかなどの確認も行っている。この表紙は、四国霊場87番札所、長尾寺さんでの「大鏡餅運搬競争」。土台の三宝と合わせて180キロの大鏡餅を運ぶ競技で、この方は58.8mを運んで7年連続8度目の優勝した。

 

 本当は明日の20日に配ればいいのだが、明日に何がおこるかわからない。今日できることは、今日中に片付けておきたいものである。

 

 今日の掲示板はこれ。「まぁ よく考えたら べつにあわてることもないのでした」というもの。私たちは常に時間に追い立てられているように、あれもしなくては・・・、これもやらなくては・・・と、あれこれと走り回っている。やれ、自分史だ、やれ、終活だ、断捨離だ、遺品整理だ・・・と。最近は、パソコンやクラウドなどに保存されている画像や文書やデータの整理までとやかく言われるようになった。でも、まぁ、よく考えたら 別にあわてることもないのである。やがてには、どうにか、なってしまうものなのだから。と、言いつつ、お風呂を沸かすのをすっかりと忘れている私だった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


寝坊して 少しは元気な 霜をみる

2017年01月18日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていたが、気圧の谷の影響で昼過ぎから曇り、夜遅くには雨か雪が降る所があるらしい。気温は0.1度から11.3度、湿度は90%から61%、風は0mから1mの西南西の風が少しばかり。穏やかな一日になった。明日の19日は、気圧の谷や寒気の影響で概ね曇りで、未明に雨が降るらしいし、山地では雪の混じる所がある見込みらしい。

 

 今日は南国四国でも冷たい朝になった。あたりは大霜で白く輝いていた。こんな日は日中は暖かくなるとおばあちゃんが教えてくれた。

 

 野菜用の水桶にも、久しぶりに氷がみられた。昨年は暑い夏になったが、今年も、こんなに暖かいのだから暑くなるのだろうか。

 

 さて、この時期、恒例で島の家に帰ることにした。9時過ぎに我が家を出て、丸亀港についたのは10時半。近くのコンビニでお弁当を買った。

 

 11時10分発の高速艇に乗って、丸亀市広島町江の浦の我が家に向かう。大きな荷物を持ったお年寄りは病院帰りに食材を買って島に戻る。

 

 海上15分で、広島町の江の浦港に着く。すると、我が愛車がこんなことに。仕方がないから歩いて行くことにした。徒歩で10分ほどで我が家に着いた。

 

 これが我が家の表札である。「暁光庵」と刻んである。千葉の友人・高橋先生の彫刻になるもの。文字は家内の親父さん、元昭さんの撰文である。

 

 今日の目的は、この郵便物。

 

 一番、必要なものがこれ。医療費控除の際に必要になる「源泉徴収票」である。これがないと、受け付けてくれないことがある。後は、浄化槽の法定検査申込書。これも大切な書類。あと、年賀状が三通。この三人は、いくら言っても、島の家に送り続けてくる。

 

 それと、昨夜、自称・大学教授の男性から、「先生の御本がどうしてもほしくて、ほうぼうを探し回って、お電話した次第です。近日中にぜひともお会いして、先生の著書をわけていただきたいのですが・・」という電話が・・・。それで、この本を取りに来たという訳。茂浦の「ひるねこ」や青木の天野商店でも私のことを聞いてきたとおっしゃる。多くの場合、本を渡したら、あとは全くの行方知れずの連絡とれず・・という人が多い。

 

 弁当を食べて、歩いて港まで戻って、車のタイヤ交換をするつもりだったのに、フェリーボートが慌ただしく動き出して、トラックやゴミ収集車などを積み込んでいる。気分的にせかされて、私もフェリーに乗ってしまった。また、近日中にタイや交換に行かなくてはならない・・・。

 

 ここはいまだに「硬券」の乗船券である。

 

 12時55分発のしわく丸に乗って島を出た。すると、江の浦の自治会長さんが乗ってきて、しばらく情報交換。島に竹を植えて、楽器にするとかという人が移住希望だとか。いろんな人が島にはやってくるようだ。

 

  今日の掲示板はこれ。「乗れば人 歩けば車 邪魔になり」というもの。狭い道で自動車と出くわした時、自分が徒歩だったので、道を譲ると、あいさつもなく走りさった時、「なんてやつだ。本当に車は邪魔なものだ」と腹を立てる だろう。かと思えば、自動車で出かけたが、遅刻しそうになった。ところが、狭い道の真ん中をご老人が悠然と歩いている。どうやらこちらには全く気 がつかない様子だ。クラクションを鳴らしてびっくりさせてもと思い、結局イライラしながら後ろを付いていった。内心は「まったく邪魔だ、もう少し気をつけ て歩いたらいいのに」と腹を立てるだろう。とにかく、我々は「自分以外は全て邪魔」・・・なのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


志ん生さん 思い出しつつ 霜の朝

2017年01月17日 | 今週も俵札調査

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていたが、気圧の谷の影響で夕方から雲が広がってきた。気温は3.0度から8.7度、湿度は90%から61%、風は2mから63mの西北西の風が少しばかり。明日の18日は高気圧に覆われて晴れるけれど、気圧の谷の影響で夕方から雲が広がる見込みらしい。(tenki.jpより)

 

 時の流れは速いもので、お正月だと騒いでいたら、早くも1月の17日になっている。速いといえば、神戸淡路大震災から22年の年月が過ぎて行った。

 

 ということで、今日は「防災とボランティアの日」。そして、15日からの「防災とボランティア週間」の最中でもある。我が家も平成16年10月の台風災害で我が家を失い、多くの災害ボランティアさんのお世話になった。できることからコツコツとお返しをしていきたいものだと改めて感じたことだった。

 

 さて、久々の前山活性化センターへの出勤である。さすがに今日は歩き遍路さんの姿は見えなかった。

 

 そろそろと、俵札のまとめとして、遍路札以外の内容物の展示準備に入ってきた。数多い俵に納められた紙くずの中から、「これは・・」と思うようなものを選び出して選別する段階である。

 

 中には、「これは何だろうか・・・」というものが多い。掛け軸には違いないのだが、どこに掛けたものだろうか」とか、「これは何を意味するものだろうか・・」とか・・・。

 

 真言宗のお坊さん、この弘法大師さんの頭上にあるものは何ですか。光明真言ではないか・・という説もあり、空海さんのお母さん、玉依姫ではないかという説もあり。

 

 こういうお姿をしているお方なのですが・・・。

 

 これは、梅の紋所があるお方・・・といえば、菅原道真公だと思うのだが・・・。

 

 「我たのむ 人をむなしくなすなれば てんが下りて名をやながさん」と読むのだろうか。

 

 これも問題になったもの。現在は「由加山蓮台寺」らしくて、「瑜伽大権現」は、「由加山蓮台寺」ということになっているらしい。しかしのかかし、この絵では、鳥居があり、本殿という文字も見える。神仏混淆だったのが、寺院として分離独立したんだろうか。

 

 午後からは、会長の校正を経た原稿を修正して、確認してメールで送信しておいた。

 

 本島・長徳寺の住職さんのご指導で、9時の臨時便に乗るように予定変更したスケジュール表もできた。JR高徳線、讃岐津田駅発が6時57分設定もOKが出た。これらを役員会で承認されたら、実施OKになる。

 

 ふぅ・・。これで宿題の一つが終わった。あとは、「娘遍路」の冊子作成という大きな宿題が残っている。これは資料が少ないので枚数が上がらない。

 

 今日の掲示板はこれ。「物事はうれしい前に決まって 心配事やら悲しいことがあるんです」というもの。町内の善楽寺さんの掲示板にあったもの。

 物事ってえものは、うれしい前にはきまって、
 心配事や悲しいことがあるんです。
 心配事や悲しいことから、
 うれしいことが生まれてくるもんですナ

 という「なめくじ艦隊」からの言葉。「なめくじ艦隊」ー志ん生半生記は古今亭志ん生さんの著作。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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