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まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

音もなく 時が過ぎゆく 春の雨

2012年03月04日 | 歴史

 今日は一日・・・雨になった。先に「雨水」を迎えたのだから、雪になるものが雨になったと思えばなんでもないが、今日も各地でひなまつりなんぞのイベントがある筈・・・。そういう関係者にはお気の毒やね。

 

 だから・・・午前中は例の「レキ墓研究」の英国艦船調べをやっていた・・・。晴耕雨読みたいなもんだ・・・。

 

 で、けいこばぁが「メークインの種芋を買ってきてよ~」というのでお出かけモードに切り替えた。パソコンばかりやっていると肩こり、ドライアイでおかしくなるから、ときどき休憩。

 

 で、さぬき市志度の園芸店に行ったついでに、この手打ちうどん「亀城庵・志度店」に寄った。ここはセルフだが、メニューはそう多くない。だから、つい、目に付いた「しっぽくうどん小」を注文した。まだ・・しっぽくがあるんか・・・みたいな気持ちが動いたこともある。

 

 で、これが・・・しっぽくうどん小で350円。具材はしっかりと似てあるのでやわらかい。それに量もしっかりとあった。

 

 お店の左から入って注文をして、そこで麺を受け取って、トッピング。おぼんを引きずってサイドメニューをチョイスしならが右に進んでお会計。あとは好きな席について食べて、終われば返却口へ。

 

 さて、今日は三月四日。「ミシンの日」なのだそうだ。

 ミシン発明200年を記念して日本家庭用ミシン工業会(現在は日本縫製機械工業会)が1990(平成2)年に制定。「ミ(3)シ(4)ン」の語呂合せ。イギリスのトーマス・セイントが世界で初めてミシンの特許を取得したのは1790(寛政2)年だった。「ミシン」という名前は、 sawing machine(裁縫機械)のmachineがなまったものである。(今日は何の日から)

 ということで、東かがわ市引田の「手袋ギャラリー」に行ってみた。

 

 一瞬、お花かと見間違うが、これらは全部・・・手袋。ここは・・・古い木造の手袋工場を再現したものだろうか・・・。昭和初期のような懐かしさが漂っている。

 

 これは初期の手回しミシン。こういうもので、布を縫い合わせていたんだ・・・。

 

 こういうミシンがこのあたりのおうちにはあって、朝から夜遅くまでミシンの音が響いていた物。東かがわ市からさぬき市の一部では・・・全国の90%を占める手袋製造を主産業としてきた。

 しかし、20年程前から日本よりも労働費の安価な中国や東南アジアに工場を移転する企業が相次ぎ、かつてのほどの賑わいは見せていない。最近では、高度な技術が必要な、高級志向の製品の製造や、障害者用車いすなど、手袋以外の分野を開拓しようとする手袋企業も現れているとか。

 

 こういうものは革手袋のまつい縫い用のペガサス。二重環用とか・・・さまざまなタイプのミシンがあった・・・。

 

 この手袋ギラリーではこういうものを展示してあるし、お安く手袋を買うこともできる。

 で、今日の掲示はこれ・・。

 

 なかなかに・・・丸くはなれない私たちだけど、こういう機会にだけでも、少しくらいは丸くありたいものだと思ったりする・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


特別付録>突然の停電・・・。

2011年03月23日 | 歴史

 私が毎日お邪魔している「ポテトさん」の「ポテトのポテト日記」が印象にのこりました。

 それを・・・私風に書いてみようと思ったものです。

 私が子どもだった頃 よく停電になった。香川県の山の中の一軒家だったから、大雨や台風の日には、いきなり停電になった。当時は・・風で電線が樹木や竹に当たると、それだけでショートして停電になったし、大雨が降ると・・それだけでショートして電気が止まった。台風とか雷が鳴って、トランスという変圧器に落雷して、ヒューズが切れて電気が止まった・・・。

 

 停電になると、めいめいが仏壇からろうそくを取り出して、マッチで火を付けた。父母の頃にはランプを使っていたらしいが、ランプは廊下の片隅でほこりをかぶっていた。私がものごころついた頃から・・・各部屋には裸電球がぶら下がっていた。

 

 ストーブというものはなく、火鉢が熱源になった。炭に火をつけて、それで手を暖めた。そうそう・・小学校にはダルマストーブがあって、石炭当番というものが決められて倉庫から石炭を運んでいた。

 

 火鉢の炭の炎も灯りにはなったが、本を読むほどではなかった・・・。その炭を土を焼いた「番屋こたつ」というこたつに入れて、ふとんをかけて足を入れて暖をとった。お湯を入れたゆたんぽも愛用した。

 

 

 停電になると、そのろうそくのあかりの中で、兄弟三人が・・・息をひそめて嵐の過ぎ去るのを待った。なにか・・・いつもと違う恐怖感で過ごした記憶がある・・・。

 ろうそくの炎が揺れると・・・天井や壁に映っているこどもたちの影もゆらゆらと揺れて‥‥。それが余計にこどもたちの恐怖心をかき立てた・・・。家の裏側には深い竹藪があって、それが大風で波のように大騒ぎしてごうごうという音を立てて大騒ぎしたし、それらが巻き起こす風が障子の隙間から吹き込んできて、さらにろうそくの炎を揺らした・・・。

 停電の夕食には母の作ってくれたおにぎりを食べている・・・ぼうず頭の自分の姿が浮かんで来る。釜屋(かまや)という台所には「おくどさん」というかまどがあって、マキを燃やして煮炊きができた。かまどから漏れてくる炎のあかりで、煮炊きすることができた。プロパンガスが入ってきたのは遅かった。

 

 昭和30年代・・・都会では電化生活が進んでいたのだろうが、私のように 田舎で育ったものにとってはミキサーだの掃除機だのというものは耳にすることもなかった・・・。電気を使うものと言えば・・・ラジオかアイロンくらいなものだった・・・。

 

 停電になると・・・別棟にあった風呂場や便所に行くにも・・・ろうそくを持って行った。風呂場の高い場所にろうそくを横にしてろうをタラして、その垂れたろうの上にろうそくを立てた。だから、風呂場や便所には・・・垂らしたろうのあとがいくつもあった。

 

 風呂は五右衛門風呂で、すぐ横を流れている川の水をバケツで運んで注水して、まきを燃やしてお風呂をわかした。風呂も便所も・・・電気も水道もなかったから・・・停電になっても使うことは使えた。

 ところが・・・台風や大雨の日には・・そのろうそくが風で消えてしまう・・・。嵐の中で・・・泣きそうになりながら・・・はだかで服をかかえたままで母屋に駆け込んだりもした・・・。

 

 計画停電が行われて、不自由な時間を過ごしておられる方は、慣れない暗がりでや忘れていた段差で 転んだりしないよう‥‥ ろうそくの火でヤケドしたりしないよう‥‥注意すること・・・。

 今も田舎では一歩、家から出たら真っ暗・・・。手探りで歩かなければならないから、暗さや不便さは慣れっこだけれど・・。

 電話も携帯もあるけれど、電話をする相手もいないし、かかってくる人もいないから、ないに等しい・・。テレビもあるけれど・・・あまり・・テレビを見る習慣もないから、なかっても困らない・・・。

 

 でも・・唯一・・・このパソコンがないと不自由かなぁとは思う・・。なければないで生活はできるのだろうけれど・・・・。このあたりでは・・・パソコンなしで生きている人たちが大勢なんだけれど・・・・。

 

じゃぁ、また、夕方に・・・。


いやおうに 君に会いたい 寒桜

2011年03月08日 | 歴史

  「私、お仕事に来て、こんなにいやされるおうちは初めて・・・」と、証券会社のお姉さんが言う・・・。ま、おべんちゃらだと思うし、社交辞令だとも思うが、開口一番にそう言われるとうれしい・・・。

 今日は・・・我が家の南では・・・森林組合の作業員が植林用の苗の手入れ、西側では山肌の崩落現場に植栽ネットの貼り付け・・、東側では植林作業・・・、北側の山手でも植林が行われていて、そのあたりは・・・車が十台ほど並んでいる・・・。

 

 「こんなものすごい大きなお庭をお持ちなんですね・・」

  違う・・ちがう・・・、となりはよそさまのお山やで・・・。我が家のお庭なんかじゃないってば・・・。いやされるどころか・・・慌ただしいったらありゃしない・・・。

 それはさておき・・・、今日は丸亀市に行って来た・・・。丸亀市と言うても綾歌町の福成寺で、過去に何度も紹介しているお寺さんだ・・。「ふくじょうじ」さんという・・。浄土真宗本願寺派のお寺さんだ。

 

 ここに咲いているのは・・「寒桜」。それも、もう、おしまいの時期らしい・・・。はらはらと花びらが舞っていた・・・。

 

 桜だけを見て、本堂にお参りしないのでは「下座せずは僧にあらず・・」というおしかりを受けるので、、福成寺本堂に回った…(回っただけかいな・・)。

 

 この・・・金色の額が本堂前上段にあって、「当山沿革」と書いてある。以下はその要約。

 浄土真宗本願寺派梵音山真興院福成寺と称す。開基は、聖武天皇の頃、行基の開山と伝えられる。   嘉承元年(848)真言宗に、応永28年(1421)、中興の祖、了圓により、真宗に改宗した。
 後小松天皇の応永元年(1394)、長尾大隅守の執権職であった幡多惣左衛門正家が68歳の時、出家し了圓と号し、この地に福成寺を再建した。了圓の後、長尾元高の第9子、高乗をその嗣とし、乗高と号し、当山第二世となった。以後、法灯連綿今日迄及ぶ・・・とある。

 諸堂宇も整い大いに盛んであったが、天正の兵火で焼失。以後再建され、天正14年には、羽柴秀吉から京都大仏殿供養に命ぜられている。

 

 長尾氏は、聖武天皇の子、橘諸兄の子孫が讃岐国三野郡筥御崎(現三豊市詫間町箱)に住み、海崎(みさき)氏と称し、その26世孫海崎豊前守元村に至り、鵜足郡長尾に移り、長尾氏と改めたもの。戦功により、長尾炭所・岡田・栗熊に封を受けたとある・・・。

 

 昔のことはややこしいね。

 

 福成寺
 丸亀市綾歌町栗熊西838    MapFan地図へ

  

 ここの掲示板にはいろいろと教えられることが書いてあるが・・。

 

 うーむ。真宗の教えは難しいなぁ・・・。いや、私も、ご法話ではこういうお話はするが、みなさん、こんなんでわかるかい? 言うてるほうもわからんようになったりする・・。

 さて、今日のお昼はここになった・・。

 

 高松市香川町浅野にある・・「にしばた製麺」。ここは・・・朝の九時から開店してて、16時まで営業するセルフのお店だ。お店は・・・なんとなくレトロ風なお店だが、そんなに経歴が長いわけではない・・・。

 

 そろそろと、卓袱(しっぽく)うどんもシーズン終了間近かな・・。そういうことで、・・・ラスト・オーダーみたいな気持ちになった。これで・・380円だった。

 

にしばた製麺 讃岐うどん遍路                    
住所:   香川県高松市香川町浅野258-1 地図
電話     087-888-7770
営業日   定休日 月曜日
営業時間  9:00~17:00 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


おまけ>せんじょうかめらまんの見たふるさと

2011年03月04日 | 歴史

 さてだ・・・、奥方が夜勤のためにお昼寝をしているので、その邪魔をしては悪いというので、肌寒い風の中を・・・午後からもお散歩だ・・・。文字通り・・「亭主元気で留守がいい・・」みたいなもんだ。

 で、今日は・・・いつもとは違う道筋を歩いてみた・・・。小学生の頃に学校に通った道みたいなところを・・・。でも、幾分かは道路が変わっているみたいだった・・・。

 

 これは・・・幼稚園だろうかね・・・。最近の建物とかにはうといものだけれど・・。するとねぇ・・・。ここから・・。

 「せんじょうかめらまん・・・わたなべよういちぃぃ・・・」って、かわいい声が・・・。最近のお子はかしこいっていうか・・・すごいねぇ・・。この幼稚園の窓から・・・「せんじょう・・かめらまん・・・・」の大合唱が・・。私のデジイチが見えたんだ・・・。私も仕方なく・・・手を振ったけれど、それで良かったのかしらん。今夜のニュースに・・「幼稚園にカメラを持った不審者現れる・・」とかなんとか・・・。最近は難しい時代になったもんだ・・。

 そこから・・・北上して・・・小学校を過ぎ、旧の商店街を歩いて・・(これはまた別途機会があれば)、ここに行ってみた・・・。

 

 “地元密着”を謳っていながらブログ六年目にして初めて行ってきました・・・。いうとらん・いうとらん・・。地元密着なんて謳ったことはないこのブログ・・・。なんでもありのなんでもなし・・・。ありのママならばったがパパよ・・・。

 この山は何かというと・・・。

 

 という・・・特別クラスの史跡の大古墳らしい・・。らしい・・て、うちの町にある有名なものなんだけれど。でも、小学校・中学校を通じて、ここに見学に行ったとか勉強に行ったとか、発掘に行ったとかということは一度もないし、説明を受けたこともない・・・。誰が埋葬されているのかも知らないし、いつごろに作られたのかも知らない・・・。

 

 こういう山だからね・・。私が中学生の頃、この頂上にお墓があるのかと思って登ったんだけれど、小さな神社があるばかりで何もなかった・・・。ないはずだ・・。これ全体がお墓なのだって・・・。俗に言う・・「前方後円墳」、手前が四角い「方墳」で、奥側が「円墳」・・・昔の「鍵穴」みたいな形になっている・・。

 

 南側から見たお墓・・・。森になっているのが後円部。平らになっているのが全方部。ここに見える茶色の屋根の民家・・・。今は廃屋になっているが・・・。

 

 こういう建物だった・・・。昭和初期の標準的な農家の建物・・・。手前中央に増設された便所がわかる。向こう側の入り口を入ると土間。そして部屋は二間。

 

 裏側に回ると・・・手前中央に増設された「釜屋:台所」と、張り出した「風呂場」が見てとれる・・。こうした史跡の中に残されているのには何かしらの事情があるのかね。周囲の田んぼは耕作放棄地みたいになっているし・・。

 

 これが平面図。県道が・・・古墳の一部をえぐり取って通過している。当時は・・・古墳だとは考えてもみなかったんだろうね。あまりにも大きすぎたから・・・。だから、民家も数軒が建っていたし、水田とか畑とかも開墾されていた様子・・。

 

 で、この古墳の途中にあるのが、この「西岡弥勒庵:にしのおか・みろくあん」。この中央にある割れたような石仏が「みろくぼさつ」で、この前にあった・・・「弥勒通り池」から見つかった石仏なんだそうだ。このことから、このあたりを・・「みろく」といい、「みろく池」とか「みろく自然公園」とか「ゆーとぴあ・みろく」とかと言うのだそうだ・・・。

 

 今日は少しばかりひまだったもので、二部構成になってしまった・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


降りしきる 弥生の雨や 寺の鐘

2011年03月01日 | 歴史

 朝から雨になっていた・・・。昨夜・・娘から連絡があって、この週末にも孫を預かって欲しいということだったらしい・・・。この週末にはまたも、さぬき広島に行って、史談会の資料を引き渡す約束だったのだが、それを変更せざるを得なくなった・・・。

 だから、資料やらデータをUSBスティックに詰めて、郵送することになった・・。仕方が無いね・・。

 

 今日から・・広島町に行ってもいいのだけれど、天候がすぐれないし・・・ということで、引田ひなまつりでものぞいてみることにしようと・・・出かけたのだけれど、風は冷たいし、小雨がまたも降り出してきた・・。「それじゃダメじゃん、春風亭昇太」。

 その途中で見つけた「川津桜」・・・。

 

 東かがわ市白鳥というところの「湊川」の土手沿いに植えられている・・。それがようやくに花を開き始めた・・・。天候が良くないから・・・色もきれいには写せない・・・。

 

 その近くのホームセンターで、犬のエサや金魚のエサ、メダカのエサなんぞを買った・・・。この、金魚のエサやメダカのエサを、我が家のゴンという柴犬はおいしそうに食べる・・。近所の姐さん猫も狙っては食べているみたい。だからか、エサがすぐになくなってしまう・・。

 だとしたら、犬の餌、ドッグフードを粉末にしても、金魚やコイやメダカは食べてくれるのじゃなかろうかと思ったりする・・。少しばかり・・乱暴な考察だろうか・・。

 

 だから・・・引田ひなまつりはあきらめて帰ろうとしたその途中に・・メガネ屋さんがある。ここは「メガネ屋さん」だとばかり思っていた(メガネのカワイって書いてあるか)ら、思いがけなく・・・「時計」という字も見えた。

 

 あ、そうだ・・。先日のご法事の時に持って出た腕時計が動かないんだった・・。ということで、電池を交換していただいた・・。今のところは順調に動いている・・・。案外と・・・時計って頼りにしていないんだ・・。携帯もあるし、どこにでも時計があるし・・車にも時計は動いているし、ラジオやテレビでも時間はわかるし・・。

 で、今日のお昼はここになった・・。今日もお天気が悪いし、あそこは道路の反対側だから入りにくいし、あそこは時間が長くかかるし・・、あそこはたばこ臭い店やし・・と、わがままを並べていたらば・・ここになった・・。さぬき市志度の「根っこ・志度店」・・・。

 

 ここも・・マンネリやねぇ・・とは思ったけれど、たまには、質素倹約もいいもんだ・・(いつもなんだけれど)と、ここに落ち着いたってことだ。

 で・・・あれも食べたし、これは寒いし、あれも冷たいし・・・と、これまたわがままで・・。結局・・「温泉玉子ぶっかけ」という・・長い名前の豪華そうなのを選んだ積もりが・・・、単に・・おうどんの上に温泉玉子が載っているだけ。それに少し濃いめのお出汁がふりかけてあるだけ・・・。

 

 でも、フリートッピングの、ネギだの、天かすだの、おろしショウガだの、わかめなんぞを盛りつけたらこうなった・・・。でも、麺が柔らかいなぁと思った・・。べちゃべちゃではないけれど、ソフトな感じ・・・。これで・・300円だ。仕方ないか・・。

 

 11時過ぎだというのに、誰もお客さんがいないのもなぁ・・と思った。

 

 それはそれとして、最近、こういう・・ホーロー看板がなくなったというか、見えなくなったように思う。少し前まではどこにでもぺたぺた貼ってあったと思うんだけれど、すっかりと姿を消したように思う・・・。

 

 この前から・・・古い町並みやら古い商店街を探しているのだけれど、全くというほど見えなくなった。そういうコレクターでもいるのだろうかと思うほど。確かに小さなお店はスーパーに押され、大型商業施設にお客を奪われて姿を消したり、模様替えしたり、店舗を住宅に改修した結果でもあるのだろうけれど・・。

  

 昭和も遠くなりにけり・・・やね。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


特別付録>四国村の灯台と待息所というもの・・。

2011年02月28日 | 歴史

 早くも二月の28日になって、単純に考えてみれば・・12ヶ月分の2ヶ月が過ぎてしまった・・・。

 さて、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)では、当時の燈台守の暮らしが描かれていた。四国村には3棟の退息所(燈台守の住宅)と燈台が移築されている。

 大久野島燈台は三原瀬戸航路の要所を照らす燈台として明治27年5月に点灯された。燈台は基礎が3.8mの円形で高さ5.1m直径3.1m。灯塔部は花崗岩の切石積になっており、その上に乗る塔器は鋳鉄(ちゅうてつ)製で高さ2.4メートルにもなる。

 

 旧江埼燈台は瀬戸内の難所といわれる明石海峡を望む、淡路島の北端にあった。英国の技師 R・H・ブラントンの設計により、明治4年(1871)に点燈した、わが国8番目の洋式燈台。退息所は石造で、壁体は奥行60cm程の切石を積み、木造トラスで桟瓦葺の屋根を支えた重厚な建物で、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災により、石造の壁に大きな亀裂が入り、屋根瓦が落下するなど壊滅的な被害を蒙った。そこで、この四国村がこの建物を移築し、復原保存する措置をとった。

 

  この退息所は本格的な石造建築であり、建築当初の木造トラスを残すなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物である。

 

 

 鍋島灯台は坂出市の沖合い、鍋島にある。江埼燈台と同じく英国の技師R・H・ブラントンが設計した洋式燈台で、初点灯は明治5年(1872)であった。職員宿舎の退息所は翌6年2月に竣工し、昭和30年(1955)頃まで本来の宿舎として使用されたが、その後は海上保安本部の通信施設となっていた。

 

 入り口上にある乳房のようなものが、無線通信用の碍子(ガイシ)で、送信用二本、受信用二本を接続するもの・・。室内にもこれと同じものがあって、電線を接続して通信を行っていたもの。

 

 建物は石造で、正面に円柱6本を建てて吹きはなしとし、壁は奥行60cm程の切り石を積み、桟瓦葺の屋根の重厚な建物で、間取りは中廊下式で、暖炉のある部屋、畳敷きの部屋などがあるのが興味深い。また、外側に浴室や便所などが張り出しており、付属の物置も同様の石造となっている。この退息所は、本格的な石造建築で、正面に円柱列を建てるなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物となっていた。

 

 

 クダコ島燈台は愛媛県松山市の沖、クダコ水道にあった。明治35年(1902)7月に着工、翌年3月に竣工、初点燈した。燈台の無人化にともなって、この退息所は不要になったため、当四国村に移築復原されることになった。

 

 この建物はレンガ造で、外壁がモルタル仕上げ、屋根は桟瓦葺である。内部は左右二つに分け、二家族用にし、押入付き和風の部屋が配してあり、かまどもあり、また、付属する物置も退息所と同じ構造である。この退息所は明治後期の建築で、部屋も和風の要素が強くなっており、洋式燈台初期のものとは幾つかの点で異なり、わが国の燈台建築の変遷を知るうえで貴重な資料となっている。

 

 海の安心・安全をまもるという大きな使命を帯びた人たちが、過酷な自然の中で生き抜いた証しの建物ということで、大いに関心を持つべき施設群であるといえよう・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


特別付録:お袈裟のおはなし・・・。

2011年02月18日 | 歴史

 今日のブログに、「これ以上 寒いと言わずに 五条袈裟」という俳句を書いた・・・。まごのなぎちゃんから・・「五条袈裟」って、何かと訪ねられた・・・。お袈裟は・・お医者さんの白衣と同様に、お坊さんの制服みたいなものだが、一般の人には・・その意味が分かっていないのではないのかと思った。

 そこで、特別付録として・・・「お袈裟の臨時コーチ編」を書くことにした。

 

 本来は、お坊さんはこういうスタイルな筈・・・。ところが・・インドから中国に仏教が伝わると、こういう服装では寒すぎてたまらない・・。そこで・・・下に着る「法衣」と「袈裟」が分離をした・・。

 

 で、タイトルの「五条袈裟」というのは、京都の五条で生まれたわけでも、京都の五条で有名になったわけでもない・・。

 

 つまりは・・、縦に布を裂いて、それを再び縫い合わせた形になっている。で、縦に五列あるから・・「五条」という。真ん中上部にある・・「威儀」が右脇腹から左肩にかかる布で、「威儀を正す」といういう言葉の語源になっている。これを正しく掛けないとお袈裟が斜めになってしまう・・・。

 

 で、もっと、わかりやすくしたのがこれ・・。上が「五条袈裟」で、下が「七条袈裟」。上は縦に五列、下は縦に七列がくっきりと見える。どちらの四隅にも四角いものがくっついている。これを「四天」という。あの・・「四天王」の元になっている。で、上の中程にも大きな四角があるが、これを「釈迦台」という・・。

 

 五条袈裟はこういう風につける。このモデルさんはワイシャツにネクタイ姿の上に、輪袈裟をつけて、さらに・・・五条袈裟をまとっている・・という珍しいスタイル。普段にはこんなことはあり得ない。

 

 こちらが、正式なご法要などの場合の「七条袈裟」。背中に垂れ下がっている組み紐の飾りを「修多羅(しゅたら)」といい、お葬式などの棺の上にも、こういうものが置かれることがある。つまりは・・死者に七条袈裟を着せるっていう意味やね。

 いや、余分な話になったけれど、それ以上のことは、私のHPで見て置いて下さいな。

じゃぁ、また。


ふきのとう しずかな準備 猫の居間

2011年02月10日 | 歴史

 急なお知らせになるんだけれど、今夜のテレビのご案内で、今夜の関西テレビ(フジテレビ系)の午後7時57分からの「奇跡体験!アンビリバボー」で、大阪天満宮の「すべらんうどん」が取り上げられる予定だそうだ・・。

 

 このおうどんは・・・お箸でも滑らずに食べられるおうどんということで評判のおうどんで、私も一昨年だかに食べてきた。

 

 つまり・・・おうどんに切れ目が入れてある特殊な製法になってるそうで、この穴にお箸がささって・・滑ることなくおうどんが食べられるもの・・・。詳しくは・・・こちらをどうぞ・・。

 今日も午前中は暖かかったんだけれど、午後からは空気が冷たくなってきた・・。

 

 我が家から見える王頭山もまだまだ・・冬の山肌・・・。吹いてくる風は冬の真っ最中という感じ・・・。朝の間は散歩ができたけれど、午後からはおこたの中でパソコン相手に・・・お仕事なんだか、お遊びなんだか・・・。

 

 今日は・・・塩飽史談会の加藤先生が来られて、三月の広島実地研修会の資料チェックがあった。一カ所の修正があって、それを修正して納品してきた・・。その後・・・塩飽年表の「広島分」を・・自治会長さん、岡支所長さんらとチェック・・・。何を追加して、何を削除するか・・・みたいなことで。

 

 朝の間の散歩でも・・・人には会わない・・・。寒いこともあるのだろうし、人が減ったこともあるのだろうと思う・・・。

 

 水田のあった田んぼも耕作放棄地になって竹藪が迫ってきているし、住宅自体にも竹藪が飲み込まれていくおうちも増えてきている・・・。これは・・・ここだけの話ではなくて、おとなりの島々でも同じだし、さぬき市の我が家の周辺でも同じようなもの・・。どことも・・そういう流れやね・・。

 

 空気が澄んでいるせいか、山はきれいに見える・・。それだし、砂浜でも浮遊物が見えなくなってきれいになった・・。

 島を歩いていると・・・こんなものが見つかった・・・。

 

 まだ、小さくて見えないかも知れないけれど・・・「ふきのとう」がつぼみになって・・・ようやくに頭を出してきたところ・・。もう少ししないとふきのとうにはならないけれど、自然界は確かに確かに・・・春に向かって準備をしているところ。

 そういえば、今日は「ふきのとうの日」らしい・・・。時期的なものかと思ったら、ふ(2)きのとう(10)という語呂合わせらしい・・。

 

 確かに確かに・・・ふきのとうの日だ・・。そろそろと・・・そういう時期になってきたというもの。

 さて、今日のお昼は恒例のここになった・・。さぬき広島唯一の食堂・・。ふる里食堂「おかの」だ・・。

 

 今日も・・・自治会長さんや加藤先生やらとご一緒で・・・。今日は・・カレーうどんを注文してみた。400円だっただろうか・・。ここの店先はこんなもの。左手の車は「移動販売車」金曜日の午後はお店を閉めて、移動販売車で、「買い物弱者」のお手伝い・・・。

 

 カレーうどんはこんなもの。ま、島の食堂だから、冷凍うどんをあたためて・・、レトルト食品のカレーを温めて乗せるような物・・・。ま、それでも、おいしければそれはそれで納得できるのだけれど・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね・・・。


すぐそこに 梅の花あり 野の仏

2011年02月08日 | 歴史

 県立図書館に頼んであった本が戻ってきたとかというもので、図書館に行って来た・・・。

 

 いかにも古そうな本だ・・・。本のタイトルは・・「神職寶鑑:しんしょくほうかん」というものらしい・・。神主さん必携みたいな本だろうか。神職になるには、これを全てマスターしないとあかんのやろうか・・・。

 右側の白い方が・・・現代語訳になっているもの・・・。お坊さんが・・なんで、そういう本を読むのかというと・・・。

 

 こういう・・記述があるからだ・・。これが・・・神社の参道にある狛犬の原典らしい・・・。

 外にも・・・

  

 とかも借りてきた・・・。狛犬も奧が深い文化やね・・。五月の狛犬講演会のための資料整理中というか、理論武装中・・・。「狛犬概論」「狛犬発展史」「狛犬文化論」「日本比較狛犬学」「狛犬分類学」・・・。頭の中で・・・狛犬の遠吠えが聞こえる・・・。

 

 ここにも最近は・・・私とにたような年代の人が多くなった・・・。新聞を読んだり、週刊誌を読んだり、CDを聞いたりと、一日中遊んでも遊びきれない・・・。私は気が短いから・・・20分といられなくなって飛び出してしまうのだけれど。どうにも活字は苦手なんだ・・・。

 

 ということで、今日のお昼は・・・たまたま・・通りかかった・・・ここのお店になった。店先に「しっぽくうどんあります」という看板が見えたから・・・。

 

 さぬきうどんの「さぬきや」というらしい・・・。高松市亀田町、長尾街道沿いにある一般店・・。普通の食堂風なお店だ。ここのお店のトラックバック記事を見ると、私も何度もお邪魔しているみたいだ・・。

 

 たまたまいた数人は・・・カレー定食とか、ざるうどん定食とかの定食物を頼んでいる・・・。私は・・・「しっぽくうどん」を注文したのだが、これがたまげるようなうどんだった・・。

 

 「これは・・なんじゃ・・!!」しっぽくうどんに・・白菜が入っているのははじめて・・・。こんにゃくもあるし、しめじも入っている・・・。豆腐まで入っている・・・。水炊きうどんか、すき焼き風うどんか・・・。これには参った・・・。

 どんぶりだって大きくてボリュームたっぷり。量が多ければ良しというものでもあるまいに・・。半分も食べられずにギブアップ。370円分は食べたと思うので席を立った・・・。残してごめんなさい・・・。お肉も硬かったし・・・お野菜の白い部分は・・・「ドクターストップ」なのだ・・。

 

 今朝も・・・お布団を干したり、片付けたり、梅の木の剪定をやったり、たまねぎに水をやったりと・・・なかなかに・・・働き者なんだ。お風呂を沸かしたり、雨戸を開けたり閉めたり・・・。ぼんやりと・・狛犬研究に没頭しているわけではないというもの・・・。

 それにしても・・・一日があっという間やね・・・。さっき、雨戸を開けたと思うのに、またもや雨戸を閉めているみたいな感覚・・・。

 

 言うといわんと・・・、春はそこまで・・・っていう季節にはなってきたね。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


曇るけど 確かに日脚は 伸びている

2011年02月07日 | 歴史

 今朝は薄曇りの肌寒い朝になった。場所によれば霜の朝ではあったが、なんだか・・どんよりとした一日だった・・・。

 

 突然だけれど・・・昨日の続き・・・。我が家のすぐ横を流れて行く水路が・・・みろく池に流れ込むのだけれど、その水路・・・を作った人が、この・・「軒原庄造」という人。幕末から明治かけて生きた人らしい・・。

 

  我が家のすぐ前にある「かしら:堰」に作られた水門から・・・この水路に水が導入される。今は・・その補強工事が行われている・・・。おかげで・・・川はきれいにはなるが、ほたるの幼虫やら・・川ニナなどの貝がどうなるのか心配なことではある・・・。別に・・・私が心配せんでもいいことではあるけれど・・。

 

 これが・・・我が家から20分ほどでたどり着く・・石穴の導入口。さて、ここからが問題だ。この水路の方向に向かって尾根を昇るのだが、藪こぎとかが五分ほど続く。このあたりに道はない・・。とにかく・・尾根を目指して笹畑とか雑木をかき分けて尾根にとりつく。そこから・・・しばし、尾根を西に進んで行くと・・・視野が開ける・・・。

 

 視野が開けるというても・・・こういう・・雑木林・・。その向こうに・・・遊歩道とかログハウスが見えてくる・・、かすかにだけれど。

 

 こういう・・・ログハウスとかキャンプ場が見えたら・・・目的地は間もなく・・・。距離的には短いのだけれど、気分的にはサバイバル・・・・。孫のはやてちゃんとかなぎちゃんも超えてきたのだから・・たいしたことはないのだが、最初にチャレンジすると・・・難しい山越えになるのかも・・。

 

 これが・・・到着点・・・。案外と・・・穴は低くて・・・狭い・・・。途中で・・鉄分がわき出ているものか赤い水がたまっていた・・・。

 

 文政12年(1828年)に完成した弥勒池(みろくいけ)であったが、20年間ほどは“器あれど盛る水なし”の状態が続いていた。こうしたありさまを憂慮した富田中村に住む庄屋・軒原庄蔵(のきはらしょうぞう)は、安政2年(1855年)高松藩に石穴工事を願い出たところ「石穴掘抜方御用掛」に任命され、三つ石山の岩盤を東西双方から掘り進めることになった。昼夜を問わず手ノミ一つで掘り抜く大工事であったが、着工から3年後の安政4年(1857年)に長さ191mの石穴が無事貫通し、砕石谷からの導水に成功した。この画期的な工事を完成させた功績により、後の明治2年(1869年)満濃池の底樋隧道工事を命じられることとなった。

 

 坑口は石材と石積擁壁で保護されており、石穴はほぼ直線に貫通し、中は人がようやくかがんで歩ける程度。津田川水系の大川ダムから約500m下流の砕石谷を取水源とし、弥勒池への導水路である弥勒石穴は現在でも利用されている。

 

 あ、注意ですけれど、この時期、私みたいに・・・この山中には入らないで下さいな・・・。土地勘とか・・山道になれていないと・・・危ないことがあるらしい・・・。ご要望があれば、私が案内しますけんね・・・。

 さて、今日のお昼は珍しい場所・・・になった。

 

 高松自動車道の「津田の松原サービスエリア(SA)」にある上り線うどん・スナックコーナーにある「あなぶき家」。ここは・・・高速バスの乗り場でもあって、この建物裏側に駐車場があって、そこから徒歩で・・・この施設に入れる。わざわざ・・自動車道に乗らなくても食べに入れる施設だ・・・。

 

 ここは・・温めうどんか、ざるうどんかしかない。その大・小というシンプルメニュー。その上に天ぷらを載せるかライス物を追加するか・・みたいなもの。

 カウンターには・・どんぶりに一玉か、二玉入った容器があるので、それを選んで、自分でテゴで温める。その上に好きな天ぷらを載せて、ネギとか天かすとかのトッピングをして・・・会計をする。その後、かけ出しをかけておしまい・・。あとは食べて・・・容器を返却して・・・。

 

 このお店の原型は・・・「連絡船うどん」らしい・・。連絡船うどんというても・・・多くの方が知らなくなっていると思う。その流れの「夫婦(めおと)うどん」も、もう、記憶外になってる人が多い。その話は別にして・・・、本音は・・・「あんまり・・おいしくなかった・・・」

 あのころの・・おうどんは・・・なぜかおいしかったが、最近はぜいたくになったものだか、感覚がおかしくなったのか・・・感動するこころが薄くなったものだか・・・そんなにもは「おいしい!」というような味には出会わない・・・。不幸なことなんだか、幸福な事なんだか・・・。

じゃぁ、また、明日、きっと、会えるといいね。

 


上等の 日和もらって 夫婦の日

2011年02月02日 | 歴史

 今日は大霜の朝になって・・・風もなく穏やかなすがすがしい朝になったものだし・・。今日も・・けいこばぁは・・・丸亀市飯山町の紅山荘での介護実習にお出かけ。母のさっちゃんは・・デイサービスにお出かけ・・・。だから・・・という訳でもないのだけれど、二階部分のお布団をベランダに干して・・・。空いたお部屋に掃除機をかけて・・・。さっぱりとしたお部屋になった。

 さて・・・、五月下旬に「狛犬学に見る庶民の願い」と題して、天台宗のお坊様方に「狛犬学」を進講するのだけれど、その・・・アウトラインを考えてみた午前中だった・・・。

 「シートベルト・みんな知ってる・忘れてる」みたいなことで、「狛犬を・みんな知ってる・忘れてる」みたいなことで、普段には何気なく見てるんだけれど、誰も・・狛犬のことを知らない・・・みたいなことから講義を始める・・・みたいな・・・。

 

 今の日本では、狛犬というと神社の飾り物っていうイメージだけれど、少し前まではしっかりと・・お寺にもいたのだ。仏教と狛犬の関係・・・っていうものを・・なんとかうまくまとめあげたいものだけれど。

 それはそれとして、今日のお昼はここになった・・・。最近は・・時間的な余裕もないもので、近い場所ばかりにはなっているのだけれど・・。

 

 さぬき市志度の「讃岐うどん処・麺喰 志度店」に寄った。たまたまなんだけれど。あれ・・、ここが空いてるし、車の数も少ないし・・・みたいな安易なことでお店を決めた・・。さすがに・・「行列にならんまでおうどんを食べる・・・」っていう気持ちにはならんものね・・・。毎食がおうどんになるとね・・。

 で・・、いつもの「しっぽくうどん小」を注文した。今日は・・・おいなりさんもおでんもいらない・・・。

 

 五分ほど待たされたけれど、こういう・・しっかりと煮込んだしっぽくうどんができあがってきた。麺もなめらかでやさしいし、お出汁もあまくてなめらかでおいしい・・・。こんなしっぽくうどんも珍しなぁと思うほどのおいしさ・・・。これで・・・400円。セルフのお店にしては少しばかり・・・お値段がはるかなぁ・・。

 

 それはそれとして、今日は・・・「バスガールの日」だというのだ。「バスガール」・・・っていう言葉も最近は聞かなくなって久しいし、最近では「死語」になっているのかみ知れない・・。「女子車掌」ってことらしい。

 大正九(1920)年のこの日、東京市街自動車の乗合バスに日本初の女性車掌(バスガール)がお目見えした。初任給35円という、当時としては高給の待遇が話題になったらしい・・・。

  

 私らは・・・バスに乗るってことはまれだったし、乗っても・・お兄さんみたいな車掌さんが首から下げた大型がま口カバンを揺らしながら・・・切符を切ったり、料金を集めたりしたもので、バスガールさんの思い出みたいなものはない。

 

 遠足だのバス旅行に乗っているお姉さんは・・・「バスガイド」さんで、似たようなものかも知れないけれど、腰にがま口の親分みたいなものを持っているかどうかの違いだけだったのかも知れない・・・。

 田舎のバス

 久しぶりに聞きたくなった・・・「田舎のバス」という昔の歌・・・。

 そうそう・・・私らが子供の頃には・・・こんな・・・「代理燃料バス」っていうか、「木炭車」というバスが走っていた記憶が残っている・・・。

 

 

 今日は久々に暖かい一日にちだったもので、おさるさんたちも日向ボコをやっていた・・。平日の野原は・・・我が物顔の自由な公園みたいなもんだ・・・。

 

 昼間は・・・サルの王国・・・。夜は・・イノシシの王国・・・。日がな一日・・・カラスの天国で、われわれ人間は・・・、その隙間でひっそりと暮らしているみたいなもんだ・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


我がものと 冬田に遊ぶ 猿の子ら

2011年02月01日 | 歴史

 今日は風がないものだから・・少しばかり寒さが緩んだように感じた一日になった・・・。でも、今日からが冷たく厳しい・・・如月の二月の一日で・・・、実質的には本物の冬になる季節・・・。旧暦で言えば、今日が師走の二十九日っていうのだから・・・本物の真冬だ・・・。

 

 昭和28(1953)年のこの日、NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始したらしい・・・。私が5歳の頃ということになる・・。だから・・・小学生の頃は・・・あちらこちらのテレビを見せてもらったような気がする。お医者さんとか、大きなお店だとかお金持ちのおうちとかで・・・。

 

 

 1953(昭和28)年2月1日午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声が放送された。当時の受信契約数は866台、受信料は月200円だったとか。

 その年の8月には日本テレビ、翌1954(昭和29)年3月にNHK大阪と名古屋、1960(昭和30)年4月にラジオ東京(現在の東京放送(TBS))でもテレビ放送が開始された。

 

 こどもの頃のことだから・・・「番頭はんと丁稚どん」とか・・みたいな喜劇を見せてもらいに行ったような・・・あわい記憶になってしまっている・・。

 

 でも・・・、とんま天狗とか「当たり前田のクラッカー」とかは、我が家で見たような記憶があるのだが・・。

 

 

 「おれがこんなに強いのも・・・、当たり前田のクラッカー・・。」有名なセリフだったなぁ・・・。

 我が家にテレビがやってきたのは、私が小学生の後半くらいだったような気がする・・・。

 さて・・・、二月中旬の「英国士官レキ研究会」の資料がほぼできたし、三月中旬に行われる塩飽史談会の「さぬき広島実地研修会」の資料も・・ほぼ、できたように思うので、次の講演会の準備にかかった・・。

 

 で、香川県立図書館に行って来た。最近は・・・根気がなくなったせいもあってか、本を読まなくなって久しい・・・。活字を追う・・・持続力が弱くなってきたのかも知れない・・。ここで、本を借りても・・ほとんど読むこともなく・・・期限が迫ってきて返却することが多くなった・・。

 ところが・・、お坊さんたちの研修会で狛犬について、その歴史や意味や、その実例などについて講演して欲しい・・という依頼が舞い込んできた・・。それは五月下旬の予定なので、そんなに慌てることはないのだけれど、講演会の案内状とか、周知の予定とかもあるようなので、準備も前倒しでやっておかなくてはならない・・。

 

 十年ほど前には・・・よく、ここに来て、狛犬について調べ物をしたものだ。電柱調査の合間にお弁当を食べた神社にあった狛犬に興味を持つようになった・・。その後・・・「塩飽の狛犬」「大川の狛犬」「木田郡の狛犬」「香川郡の狛犬」「綾歌の狛犬」「丸亀市の狛犬」などを作った・・・。

 それから数年を経て・・・今は・・・咸臨丸にどっぷりと浸かっていて、狛犬のことはすっかりと忘れてしまっていたもので、総合復習という意味で五冊の本を借りてきた・・・。

 

  狛犬の歴史、狛犬コレクション、狛犬事始、大阪狛犬の謎、狛犬かがみ・・・、いずれも、十年ほど前に借りて読んだもの。これらを参考にして、パワーポイントでのスライド作成のストーリー造り、レジュメ造りの参考にできないかと考えたものだから・・。

 

 で、今日のお昼は・・・図書館近くの「たも屋林店」になった・・。図書館が久しぶりだから、ここも久しぶりのような気がした・・・。で、しっぽくうどんを注文したが、「しっぽくは・・準備中です。十一時過ぎからでしょうか・・」と言われたもので、普通のかけうどん小(180円)に落ち着いた・・・。

 

 この・・しっぽくうどんて、野菜の量が少ないような気がするけれど・・。

 

 で、今日のおうどんはこれ。かけうどん小(180円)+生卵(50円)=230円。あとはフリートッピング・・。ネギ、わかめ、大根おろし、天かす、おろししょうが・・。生卵が入ったせいか・・少し、お出汁が薄くなったようなので、生醤油を二回しほど入れてみた・・・。

 

 今日から二月・・・。早くも・・・12分の1が終わってしまった・・・。最近の月日の流れはすごく速いように思った・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


手袋を はめたままなり うどん店

2011年01月27日 | 歴史

 今日も気温が1度・・・という寒い朝になった・・。ま、暦的には寒い時期ではあるのだけれど、たまには暖かい日があってもいいのじゃないのかなぁと思ってしまう・・。

 

 さて・・、この怪しげなもの・・。一反もめん・・・みたいな不思議な物だが、決して妖怪ではない。実はこの白くて長いものは・・「日本一長い~手袋なのだ・・。こう、寒いと手袋は欠かせないが、こんな長い手袋ではどうしようもない。この手袋は12mあまりもあるんだそうだ。そんな腕の長い人がいたら・・それこそ・・妖怪だな。

 ここは・・・東かがわ市引田(ひけた)という町にある「手袋ギャラリー」の中の展示品・・。

 

 最初は・・・この・・東かがわ市の「歴史民俗資料館」を訪ねたのだが、こんな・・写真を見た・・。和服を着た男性が何か奇妙な機械を操作しているところ・・。

 東かがわ市の手袋産業は、明治21年(1888)に両児舜礼がメリヤス手袋を製造したことを始まりとしているが、その後、棚次辰吉が最初の手袋会社「積善商会」を設立し、本格的に経営が始まった。この和服の男性が、その「棚次辰吉」で、手回しミシンを使って手袋を縫っている様子らしい。

 

 それがこういうミシンらしい・・。で、こういうミシンの実物がないかと職員に聞いてみると、同市白鳥(しろとり)にある「手袋資料館」の資料を手渡された。で、その資料館で、このミシンに対面したという訳だ。ここには四台ほどのミシンが展示してあったが、その写真を撮っていると・・。

 

 その手袋資料館の案内役の女性から・・引田にある「手袋ギャラリー」に行けば、古い道具を専門的に展示してあるので、そちらへどうぞ・・という。本来・・・女性物の手袋には興味もないし、ゴルフ手袋も野球選手用の手袋も興味はないものだから、その案内に従って、再び・・引田の町へ向かった・・・。

 その途中の・・「権平(ごんぺい)うどん」で今日のお昼になった・・・。

 

 有名な・・・「やってます」という看板だ・・。案外と・・上の大釜には興味がないらしい・・。「やってます」か「おやすみです」か・・・だな。

 

 で、毎度おなじみの・・冬季限定メニューの「しっぽくうどん」を注文した。480円は少々お高いが一般店だから仕方がない・・。それだし、麺の量が少し多め・・。だから、野菜の具が・・山盛りになっている・・・。おうどんも最初は・・・「硬いうどんやなぁ・・」と思っていたが、具の山盛りがなだらかになる頃にはやさしい麺になっていた。かというて、ベチョベチョのおうどんにはならない・・。さすが・・「実演」で現場打ちの麺やね・・。

 

 だからか・・、十一時を過ぎると・・続々とお客がやってくる・・。釜揚げが有名らしくて・・・やがてには行列までできるようになった・・。今日は・・平日やのにね・・。

 

 お昼を食べてから・・・引田(ひけた)の讃州井筒屋敷近くの・・「手袋ギャラリー」に寄ってみた。ここだって、初めてというわけではない・・。三月の「引田ひなまつり」の時期には、ここにも足を運んで・・お雛さん展示を楽しんでいる。

 

 ここは・・手袋ギャラリーだから・・手袋をメインとして、アート感覚で展示してある。最初の・・日本一長い手袋をはじめ・・・数々の手袋を使ったアートとか・・・。

 こうした・・・業務用ミシンも、それなりにアート感覚で展示してある・・。

 

 飾り縫いミシンとか・・・電動ミシンとか、単環ミシンとか・・・。よくわからんのだけれども・・。

 

 ミシンもアートなんだなぁとかと、ついつい・・シャッターを押してしまう・・。

 

 業務用ミシンになると外国製の物も多い・・・。それらを自由に見て回っても無料だ。ただし、水曜日が定休日らしい・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


底冷えの 倉庫の中の 獅子頭

2011年01月25日 | 歴史

 1902(明治35)年のこの日、北海道旭川市で、日本の最低気温の公式記録・-41.0℃を記録したということから、「日本最低気温の日」になっているらしいのだが、今朝の香川県東部はそんなには冷え込まなかった。だから、愛犬ゴンの飲み水も凍ってはいなかった・・。

 

 ダイハツ ミゼットの生コマーシャル

 これは、ダイハツ社のR360という軽自動車の小型三輪自動車で、愛称が「ミゼット」と言った。そうそう・・、少し前に流行った・・「三丁目の夕日」の中に出ていた・・・車だ・・。

 

 これ・・、少し・・ライト周りとかが少し違うね・・・。この資料館にあるものは、マツダのK360かも知れない。その違いがあんまりわからないのだけれど・・。

 町内の歴史資料館には・・・その頃のものと思われる品物がずいぶんとあった。

 

 モノクロのテレビとか・・・FM受信機、ステレオ受信機とか・・・、当時に大流行して、競ってこういうものを買いそろえた家があった・・。応接間と称する部屋には・・こうしたステレオ受信機とか洋酒棚とかを並べるのが流行った頃やった・・・。

 

 この頃の主力ラジオ・・真空管式の五球スーパーかな・・・。電源コードが布被覆というもの懐かしい・・。まだ、テレビを買えない家庭ではこれで紅白歌合戦を聞いていた・・・。肝心な時に音声が聞こえなくなって、思わず・・・ラジオ本体を叩くと・・不思議なことに音声が聞こえることがあった・・・。

 

 氷冷蔵庫とか・・は、電気冷蔵庫に切り替わる時期やった・・・。村の食堂のかき氷屋では、この木製の氷冷蔵庫を使っていたが、我が家には電気冷蔵庫があったのはうれしかった。でも・・中身は・・・漬け物くらいしか入っていなかったけれど・・・。

 

 電気洗濯機とかもうれしいものだった・・・。このハンドルを回して・・洗濯物を絞るのだが、これがなんとも不気味だった・・・。寒いときには・・・これを回すたびにタオルとかシャツとかがイカのように凍って出てきて驚いた記憶がある・・・。

 、私らが子供の頃・・・、そう・・昭和の30年代の頃のものがわんさかとある・・お宝展示場・・。。農具とか民具とかも・・・雑然と積み上げられている。ま、手間も暇もないものか・・・ただ、倉庫風に並べてあるだけ・・。

 

  これは・・初期の「原動機付き自転車」で、名前の通り、普通の自転車にガソリンタンクとエンジンを取り付けたもの。おやじも早速にこれを買って乗り回していたものだから、おやじのいない間に、これを持ち出して走ってみたものだった。

 その後・・ホンダからスーパーカブなるものが発売されて、誰もがそれを乗り回すようになった・・・。

 この頃から・・・技術革新というか、高度成長期というかがものすごい速度で進むことになる・・・。

 さて・・、今日のお昼はここになった・・。

 

  讃岐うどん・おくちゃん は、香川県高松市由良町で、この地図ではわかりにくいけれど、高松市インテリジェントビルの少し南東にあたる場所にある・・。

 

 お店も駐車場も広くなくて、車も数台、店内の席数も・・十数人程度やろうか・・。メニューも少ない・・・。ここは・・珍しく・・一般店で、ご夫婦でやってるらしかった・・。

 

 こうしてみると、メニューが多そうやけれど、上の四つがメインで、それに「エビちく天ぷら」が着いただけのもの・・・。今回は・・・きつねうどん(400円)を注文したが、かけうどんに揚げが入ってるだけのものなのに・・それで400円というのは、揚げが120円って計算やね。

 

 で、ご丁寧に・・・小皿に、ネギ、天かすを載せてどんぶりと一緒に持ってくる・・・。あらかじめ、入れてくれたらいいものを・・・と思ってしまうけれどね・・・。どっさりと持ってきてくれたら、自分の好みの量を入れるのだけれど、少量だから全部入れてしまうな。

 壁には・・こういうものが貼ってあった。再来週の二月七日の月曜日、夕方6時16分から、西日本放送TV(RNC)で、このおみせのことが放送されるらしい・・・。

 

 

 夜・・・2時間ほど・・おじょもめぐさんの真似をして・・「絵手紙」を書いてみた・・。我ながら・・・見事だと思ったけれど、これに字を書くと・・・とたんにゴミになる・・。その兼ね合いが難しい・・・。

 

 お習字の練習は苦手なんだ・・・。センセ・・、できたらおくるけんね・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


冬桜 今日も達者で つつがなく

2011年01月24日 | 歴史

 今日は薄曇りで太陽の見えない一日で、しかも底冷えのするような天候のままで終わった・・・。

 そういうことだから・・犬の散歩くらいで外にも出ず・・・朝から・・パソコンと格闘していた。というのも、山の旧宅が被災して以降の日記帳が物置にあったもので、それを整理してみようということで、縦軸に一年の月日を振り、横軸に2006、2007、2008・・・と2011年まで振って・・、そこに・・その年の出来事を記入するという・・・経年日記・・みたいなものを作ろうかと・・。

 

 ただ・・2006~2007年あたりはお仕事の内容ばかりで全く意味がない。2008年になると、うどん屋の情報ばかりで・・・これまた意味がない。どこの店で何を食べて料金は幾ら・・・みたいな日記は・・・記録的には面白いかも知れないが、私の人生の記録としては全く意味がない。

 ま、とりあえず・・2011年の1月下旬までの基礎データはできた。これに・・プログを参照しながら、総合日記を完成させようとする冬期大プロジェクトだ・・。

 それはさておき、昨日の旧恵利家住宅だけれど、玄関脇に少しだけ張り出した部分があるが、そこが便所だ。今は形だけ保存してあるが、元は便所のあった場所・・。

 

 この・・畳一畳分くらい張り出した部分が・・・トイレで、右手が大で、左手から入れば小になるのだが、この家には・・風呂がない・・。我が家の場合にはここに風呂があって、その下が便所になっていた。だから、この家では・・・別棟に風呂があった筈だが、昔の農家に風呂があったのかどうかということが気になった。

 で、この建物近くにあるさぬき市歴史民俗資料館を訪問したってことだ・・。

 

 昔には・・こうした桶に、夏場は水で行水し、冬場にはお湯を沸かして身体を洗ったらしい・・。ものの本によると・・蒸気浴だとか温泉浴だとかと書いてあるが、この地方の農家ではそんなものに入れたはずがないし、街のように銭湯があった訳ではない・・。

 夏場には・・川で水浴びをして汗を流しただろうし、冬場は何日も身体を洗う必要もなかったのかも知れない・・・。

 

 これは・・・木の桶に熱源となる釜を取り付けたもの・・。これも昭和に入ってからだろうね・・。

 

 これは「鉄砲風呂」と言われたもの・・。関東では鉄砲風呂、関西では五右衛門風呂・・と歴史の本には書いてあったが、四国にもこうした鉄砲風呂があったらしい・・・。

 

 ここでは・・「へそ風呂」と説明されているのだが、その「へそ」の意味がわからない・・・。で、この風呂を担いで移動して「風呂屋」をする人がいたとかと、説明版には書いてあるが、「もらい風呂」とかで、自宅に風呂がない家が多い時代には、けっこう繁盛したのかなぁとは思った・・。

 

 これは・・昭和の中期のものらしく・・・ガスバーナーで湯をわかす方式になっている・・。こういう・・・木桶の中に熱源を持つものを・・「鉄砲風呂」というたらしい・・。

 一方・・・。

 

 こういう・・・鉄製の釜を直接熱して・・(ということは、下から火を焚いて・・・)お湯を沸かすという・・お釜みたいな風呂を・・「五右衛門風呂」という。あの・・・盗賊の石川五右衛門が「釜ゆでの刑」に処せられたという話から・・・そういうのだと思うのだけれど・・。

 

 記憶がはっきりとはしないのだけれど、私が小さい頃には・・・、母屋の玄関脇にお風呂があって、下がトイレだった。その後、別棟に・・・お風呂とトイレが建てられた・・・。そのどちらも・・・、こうした五右衛門風呂だった。お隣さんは、屋根のない・・こうした釜だけのお風呂で、傘をさしてお風呂に入っているのが・・・うらやましかった思い出がある・・。

 昭和の50年代になって、ようやくに・・我が家を新築して内風呂になって、別棟のお風呂に雨の中を傘をささずにお風呂に入れるようになったが、自然の川の水を水源にしていたもので、お風呂の中にメダカが白くなって浮いていることはままあった・・・。

 

 こうした・・ドラム缶風呂を・・・孫のはやてちゃんは作りたいらしいのだけれど、ドラム缶の中の脂分が除去できずにそのまんまになっている・・。今年の夏には実現したいなぁとは思っているのだけれど・・・。

 さてだ・・。今日のお昼は久々に・・・さぬき市長尾の「みさと」に行ってみた・・。

 

 で、マイブームになっている・・「しっぽくうどん小」を注文した。380円だった。ここは昨年の日記・・・、例の「デスク・ブロック2010」の中のデータを把握してきたからね・・・。

 

 野菜も麺も柔らかい・・・。これはあかんやろ・・・みたいな。硬ければ「硬いがな・・」というくせに、柔らかくっても「柔らかい(ほんまは・・やりこい・・ていうんやけど)」っていうのは我がままかな・・・。正直な感想やと思うのだけれど・・・。

 

讃岐うどん みさと
さぬき市長尾西1160-2
香川県東部地方卸売市場(東部流通センター)内 地図
0879-52-5133
6:00~15:00
不定休(市場が日曜日が休みのため、日曜日になるだろうと・・・)

 ふと思ったノは、お店の半分に・・鉄板セットが導入されていて、お好み焼きとか、焼き肉料理も可能になっている風・・・。その現場を見たわけではないのだけれど・・・。まぁ、いろんなニーズに応えるのも、卸売り市場ならではのお店だろうしね・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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