曖昧とぼかしは違うと言えばその通りで、ぼやけるとあやふやも連想される。曖昧模糊のような熟語を取り入れたのは何によるか。ぼかすこと、ぼやっとするとなると、わかりよいことがある。ものを見つめて焦点が合わなくなると、ぼやけてくる。あやふやにすること、うやむやにすること、このような擬態語となるとさらにわかり良くなるのはどうしてか。
曖昧を翻訳して、修辞技巧のように思われて、はい、と言い続ける日本語のうちに、いいえ、があると思わされたひとたちには、あいまいとは、それを日本語での表現として翻訳してみて、虚言にもあたる用法だとあやまって理解されてしまったのである。そのどちらでもないうなづきがあて、うん、うん、と言うのを、はい、はい、と答えていたわけである。ふん、ふん、ふふん、と言ってみて、そこには、はい、のニュアンスはうまれない。あいづちに、ふむ、ふむ、ふーむ、とだけの応答であるが、それを、うん、と、ううん、と、うッうゥん、の違いにあてはめると、はい、はあー、いいえ、と言うような、答え方のようにもなる。 . . . 本文を読む
批評について、翻訳語である。もとの意味するところは、クリティークcritiqueである。その語源はギリシア語のクリノkrinōに由来する。判断する、裁く、となっている。平凡社百科事典の引用する哲学事典の説明では、次のようである。A.ラランドの《哲学辞典》によれば、批評とは、ある一つの原理または事実を評価するために検討することである、と見える。その精神についても言う。批評的精神とは、いかなる命題も、みずからその命題の価値を検討することなしにはけっして受け入れない精神である、とある。この自らの命題の価値を検討することなしに、というのが難しいだろう。それは内的批評critique interneにあり、問題の命題の起源について行われるときには外的批評critique externeという。翻訳語は、批判をも使う。批判は哲学の議論というイメージが強く、批評は論文というエッセイに使われる。論文を批判する、文芸を批評する、などと言うので、この語の用い方が広がって、真偽、善悪、是非の内容を詰める批判の語が正しさを追求するあまり欠点や短所の不足を言うことのように捉えられている。ををする . . . 本文を読む