国際交流基金に応募していた結果が、知らされた。わたしには、それぞれの種別があるものの、推薦をして4人目となった。人を送り出すのは難しいことだが、それぞれに立派にやってくれるので、アメリカの高校生に良きアシスタントとして日本語教育を実践するだろう! . . . 本文を読む
文法単位体を唱えたのは、それには形態レベルであるモーフという、形態素を文法にしてとらえると、形態となる、その単位を作ったのは恩師である。形態から統語へとその単位体のレベルは関係構成を作り上げる。どのレベルが核となるか、その上位単位は文章、下位単位には語という、文法である。統語をシンタクスとして、そのレベルには文から文章となる意味の議論があって、文の統語における意味のとらえ方には、日本語文法ではおのずと、より上位の単位に展開する、それにはモダリティーの議論を見ればわかることである。叙法がムードとなると、日本語文法の単位体のように開かれた単位となれば、それは文におさまらないモダリティ論議である。話し手の意図をみれば、それは文章単位となることも必至である。日本語教育文法の助動詞の説明に話法が図解されていたが、その枠組みはコトの類型となったように、助辞の働きに見る、あるいは統一叙述の視点で、それを文の単位にだけ見ることは、文章の視点がなければできないことである。文法単位体に、文章法単位体を考えるゆえんである。 . . . 本文を読む
外国語習得、言語学習にはきっかけがある。その地域で、その言語として身につけて育てば、母語あるいは国語である方言として、ことばがある。そこに母語でない、国語でない、他国の言語を学習するとなれば、どのようなきっかえがあるか。蛮族、蛮人という、夷狄とも称した、その言いは、言語を解しない人というとらえ方であったから、自他の言語の違いを地域によってまずは意識したことになる。そのように自分たちにわからない言語を学ぼうとしたかどうか、それはおそらく、逆で、ことばを押し付けようとすることから、文化衝突回避することがあったろう。しかしそこに、言語を異にして、さらに権力、腕力、暴力の差があると、それにともなって言語は学習の対象となることがある。言語学習は生じた地域に置けり民族と多民族の軋轢のためである。日本語教育、日本語学習、日本語教材と自覚的に行われる学修は、その目的によるところであるが、自覚されないまでも、言語意識の違いに、他国、他地域の言語を目標言語として、言語接触と文化摩擦を問題として解決を図ろうとする人々ん動機があった。それをとらえて、日本語教育史の前史に、留学僧、漂流民、そして通商の言語として見ることができる。 . . . 本文を読む
筋肉の衰えは特有のだるさを持つ。これは鍛えていてもそうでなくてもなるだろうかと、自覚したのはぐっすり眠って筋力の回復をしたかどうか、つまり休養となったかどうか、それがわかる。使わないところがどんどんとだめになる。まだ寝起きをしていて動けなくなる実感はないが、それでも重いものを動かしたり、手提げに重量感があるときには、寝て眠っている間に、だるさが出てくるので、この疲労感は筋肉の回復力特有のものだろう。バランスが取れていないことでもある。7年前に関節炎を起こした、そのときのこわばりは、神経の命令系統がとぎれるような、独特の動き、それは動かせないということなのだけれど、多発性のものであって、一挙一動のすべてにブレーキがかかってしまったので、あのままになってしまったら、使わない筋力として衰え方がことなるけれども、動けなくなってしまったろうから、このいまの自覚する状況は先行きどうなるかを類推している。 . . . 本文を読む
勝って負けるか、負けて勝つか、撞着を起こしそうな物言いである。勝って、勝てば勝つのは当然だけれど、負けて勝つというのはどうなんだろう。かなりその前提となる条件、また結果としての状況があるだろう。冬季五輪の競技でそれを思わせられたのは、カーリング女子の闘いだろう。ショットのどれを取ってみても、勝つか、負けるか、微妙な駆け引きになっていた。そこに強いショットがダブルテイクをとるようなゲームは、そもそも、ショットのうまさであって、さらにはパワーがあるのである。男子のカーリングにはそのはじけ方で分かる力のあるストーンの動きに、ただやみくもにしているだけではないから、勝敗は見る間にわかるようなショットになる。そこで女子の動きを見ていると、これは最初はゲームルールそのものがあって、それを知っていくのにはちょうど良い戦い用で、男子ゲームを見ていたらあれよあれよと決まってしますので、その表情のゲームの醍醐味が全く異なる、ゲームとしてのルールも単純に見えてしまうところ、好意っては何だけレ度、女子チームが負けては勝っていく銅メダルになったのは、よくカーリングとは何かを知らしめるものとなった。 . . . 本文を読む
日本語教育史を話す。日本語教育史の名は日本語、教育そして史と分けられるが、日本語教育の歴史として見る。日本語教育はいつから始まったか。日本語教育はどのように実践されてきたか。日本語教育は歴史としてどう考えるかを、地域と時代にとらえてみたい。日本語教育の立場、日本語教育史に視点を持つ。日本語教育を教育方法に求めれば、広く教育として、教師、学習者、教材と教具に分け、さらに、教育内容と言語教授法とに見ることができる。そのそれぞれに日本語教育史をとらえる立場で、とくに日本語教師となる立場で述べる。 . . . 本文を読む
北朝鮮による緊迫した朝鮮半島の情勢は、このオリンピックで南北朝鮮の対話を実現しようとしている動きを、ずっと、時間稼ぎであると論議に主張する長谷川さんの論調は、いよいよ、太平洋戦争の日本の状況に、北朝鮮が追い込まれているのを思い合わせるというふうに解説する。アメリカによる戦争の仕掛けは自国からの攻撃をするのではなく、相手に撃たせるという防衛のためという戦争発動、それは北朝鮮が制裁でどう出るかという時期となった。これが、いま、オリンピックが閉幕して展開する情勢であるから、それに巻き込まれる日本が見えてくる。もう一つのニュースで、中国の体制に習近平氏の任期が空前絶後のものとなる、10年以上を経る、毛沢東からの権力者で、それを超える権力掌握となることを、解説している。習近平体制は何をしようとしているか、朝鮮半島の地域に及ぼす影響が現実となってくる。 . . . 本文を読む
アスリート athlete とは、運動選手、スポーツマンなどという意味の言葉、スポーツ選手とも語義にある。sport athlete 、スポーツマン、運動選手、訓練によるスポーツマンらしい体格の人、陸上競技の選手とも語釈があって、《主に英国で用いられる》 陸上競技の選手. 研究社 新英和中辞典 語源にラテン語の、賞をねらって競う人を表す言葉だという。 そういって、オリンピック選手のピョンチャンからの帰国会見を見ていると妙なことになってくる。マスコミが質問の内容をそこに向けるか、というようなものがあって、ニュース報道では、最高獲得額が6000万円の褒賞だとか、そう思っていると、飛び込んだマラソンの新記録に1億円だというニュースで、アスリートらしくなってくるので、これまたマスメディアのひきおこす、よからぬやっかみとなるべく、騒ぎ方がよろしくない。実力を培った選手たちの笑みを素直に受け取るべきだと思う。アスレチックの語を連想して、アスレティック、athletic 、運動選手にふさわしい、運動競技の、運動神経が発達している、運動選手らしい、運動が得意な、といった意味をまず日本語にしたことを考えるとよい。
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1944年にイギリスにおいてヴィーガン協会の共同設立者であるドナルド・ワトソンによって作られた言葉、ヴィガーニズムである ウイキペディアより veganism 絶対菜食主義 その、Ethical VEGAN 協会というがあって、サイトを訪ねる。>畜産の弊害
現代の食肉生産の多くは、環境負荷の高いいわゆる 工場畜産 (factory farming) に頼っています。そして私たちは実に多くの家畜動物を消費しています。鶏が580億匹、豚が14億匹、牛が3億匹など。これは1年の数です。想像できますか? http://www.ethicalvegan.jp/factory-farming/ . . . 本文を読む
文節のとらえ方を考える。文節の用語は国語にある。学校文法で広まった単位である。単位そのものを文法単位とするかどうかは議論があるところである。語と文章の間に、句、節のレベルを置けば、文節のとらえ方に揺れがある。文節、句のレベルでいえば、最小単位を文節において句には連文節をみとめることになるし、さらに節の内の文単位を求めることがあるので、文節そのものを連文節の視点で見ると、考えよくなる。英語教育で文節に切るという発想をもって説明する。わかりよい解説であるから、これを国語教育の教科文法で膠着してしまっている考え方をどう見るかの発展した理解があるだろう。文節を批判し、その有用性を認めようとしないのは国語教育に限らず、英語教育、はては日本語教育者にもある。文節を、用語にして説明することがないとしても、その気り方には日本語に合わせた基本単位となってくる。単語を品詞にすると、文節はまさに品詞であるということができるが、そこで単語と品詞のずれを国語教育の付属語に見ることになるので、文節の切り方に発想を得るべきである。 . . . 本文を読む