現代日本語百科   けふも  お元気ですか

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思い遥か0331

2016-03-31 | 日記
魯迅記念館、鲁迅纪念馆を27日に訪ねた。1980年代にここを訪ねている。その時も横手から入って、正面に回ったのを思い出す。四川北路沿いの魯迅公園の正門から帰ってきたのは、はじめてか。世界の有名作家の銅像群があるところで、人々が舞っていた。オープンは1951年だから、それからゆうに半世紀を超えて今のたたずまいはきれいだ。30年前にはどうだったか。いまの案内には、次のサイトに詳しく見える。http://www.shanghainavi.com/miru/418/  魯迅紀念館 Shanghai Lu Xun Museum鲁迅纪念馆 上海 > 虹口・魯迅公園 博物館/展示館 ,観光スポット . . . 本文を読む

思い遥か0330

2016-03-30 | 日記
地下鉄を乗り継いで馬城場の切符を予約し、それから上海市南京東路、人民広場の近くにある新世界10階に向かった。マダムタッソー蝋人形館である。入場料はハンパなく高い老人割引があって、これはパスポートを示して、そのほかの施設でもその恩恵は外国人といえども受けた。Madame Tussauds杜莎夫人蜡像馆で数々のスター、有名人と記念写真に収まった。新疆レストランで食事をして、都市計画館と博物館を見学、ここで、思い出した。上海城市規劃展示館はまだなかった。2000年の建設である。>海城市規画展示館は中国・上海の人民広場にある博物館で、上海市人民政府庁舎の隣にある。 ここは地上6階、地下2階の建物で、上海の都市計画と発展に関する展示を行なっている。目玉は上海市街地全体をカバーした大型模型であり、そこには既存の建物と将来的に計画中の建物もある。 600㎡の広さを誇る上海市中心部のジオラマがある。その向かい側の上海博物館に入って、古代の展示物で中国に出会ったことであった、と思い出したわけである。ちょうど建築中のことと、その後に外観だけで、中にある中国古代青銅館は、圧倒された、世界的に評価の高い青銅器の展示に記憶がある。>商(殷)周期の青銅器や春秋晩期の酒樽など400点が展示されている  . . . 本文を読む

思い遥か0329

2016-03-29 | 日記
上海地下鉄の3号線と8号線の交差するところ、足球場だ。その周りの公園はすぐにも魯迅記念館である。桜が見事に咲いている。週末の人の賑わいに、まだしも球技場でサッカーゲームが行われていなかったから、この人出は桜見物の人たちだ。ちょうど満開だろう。飛行場からリムジンバスの路線、四綫に載って、直行した。高速道と停車しての時間は80分ぐらいだった。飛行場でこのバスに乗ってここまで来たものの、虹口にあるホテルまで数分とも案内を見つけてきたが、降りて、まず方角がわからない。中国の道路は細かくストリートの名前があるので、それを探すことにして、ぐるりと見まわして、手元にあるのはネット検索でホテルの案内図だけである。道路が広いし、向こう側にも、こちら側にも、ちょっと動こうものなら、目的が定まらないときは時間がかかって仕方ないことは、いかにといえども中国には慣れて知っている。そこで、まずは人に聞いてみる。放棄をもって道路を掃くおじさんに、ホテルの名前を出して聞いてみる。わからないというから、それでやっと、聞こうと思っていた公園はあるかと地図を指さすと、すぐそこだと言う。これで方角は決まった。何しろ広いのであるから、見渡すにもビルばかり、加えて高速道の橋げたがそびえて、それは地下鉄の路線の橋げたであったが、そこに目指して、スタジアムらしきものを見つけた。 . . . 本文を読む

思い遥か0328

2016-03-28 | 日記
とんぼ返りは、トンボ帰りのことになるか。25日に朝の東方航空で昼前に浦東空港に着いた。それから3日を過ごして、トラベル蚊トリップか、そのふうでは3泊4日の旅だった。そして夕刻の921便の東方航空で帰った。中華航空が民航と言っていたか、あれは台湾便に切り替えられて、ずいぶん古いような話であるが、そのころの東方航空に載ってそのサービスに思い出すことは尽きないが、いまや日本航空との提携でそれもさま変わりした。これもまた32年もの歳月がある。1984年だった、上海に北京から旅行して、そのまままた北京に戻って滞在していた。そこに上海旅行と書いて、そうだ、今回もまた上海旅行である。上海は30数年の間に幾度も通っているから、好きな街でありながら、その強烈な80年代の体験はしばらく思い出すことも語ることも封印していた。大連から舟で沿岸をたどって煙台青島経由での上海旅行もあったのを急に思い出したりすると、上海は観ずともわかるような街でもあった。あの雑踏と喧騒はどこへ行ってしまったのだろう。 . . . 本文を読む

思い遥か0327

2016-03-27 | 日記
上海は何度目かと尋ねられて、この問いはコミュニケーションの決まり文句、それで話が展開する。はて何回になるか、数えてみると5回、6回と、ふとこれは、いわば上海から南京へ行くために経由地としてのことだと気づいて、最初の思い出からのように、久しぶりのことだと思いなおす。蘇州、南京と列車で、長距離バスで、高速道で、そして新幹線と乗ってこれまでのこの間を走ったことを思えば上海はなじみのある町として好きな町だ . . . 本文を読む

思い遥か0326

2016-03-26 | 日記
上海に来た。虹口のホテルに泊まった。うたい文句によれば、この辺りは上海の町らしいまち、それは庶民の味わいがあるところだそうだ。足球場のあるところ、四川北路商業街とある。サッカースタジアムがあってにぎわう。試合が行われるとさぞかし人が出ることだろう。ここから上海外語大まで10分になる。迎賓館で会の打ち上げがあった。あと一日観光をして、滞在3日、とんぼがえりである。九州大学と上海外語大、韓国仁川大学校と提携して、東アジア日本語・日本文化フォーラムにを行った。 . . . 本文を読む

日本文化論 ことはじめ15

2016-03-25 | 日本文化論
コンピュータの端末であるスマフォに加えられるのはパッド型のディスプレーである。パッド型端末として国語辞書には登録する。そしてタブレット型端末を解説する。パッド型、タブレット型、ともにカタカナ日本語でPCの普及を見ることになる。このディスプレーには液晶による薄型のものが大小とりどり、取り混ぜての様相で使われ出している。これはコンピュータを一体化したものとなって常に手元に、移動とともに、通信が可能であれば、そこで異次元世界を開くことができるものとなっている。遠くを見る、異なる世界を覗く、空間を超えて新知識を得ることが人々の欲望であったから、その知的興味による探求は、いわば手ごろなものとなったのである。 . . . 本文を読む

日本文化論 ことはじめ14

2016-03-24 | 日本文化論
スマートフォンと呼ぶ端末機器は情報の革命を進行させ、さらに進化を遂げている。その名称をもって片仮名日本語が象徴するのは、ケータイであった。電話機とコンピュータの端末を併せ持ったものになった。通信の手段が電子情報を画面に表示した、電波を媒介としての電話機にまずは搭載されたと日本ではとらえるかもしれないが、それは多機能電話としての展開が日本で見られたからである。そのことをもってすればスマフォの先駆に携帯電話による多機能端末としての普及は日本メーカーの寄与するところ、日本製のコンピュータのハード、ソフトにおける、それだけの問題にとどまらないことがある。しかし、いまやスマホとしての普及には、マイクロソフトのマシーンに対するアップルの技術があった。スマートデバイスである。そこには早く、PDAがあったが、これには通信機能がなかった。 >1993年にアップルが米国内でNewtonを発売した際、このデバイスはPDA(携帯情報端末)と称された。この言葉・概念が一般化したのは1996年にPalmが発売した「PalmPilot」のヒット以降である。この時点では端末に通信機能は付与されていなかった。 . . . 本文を読む

日本文化論 ことはじめ13

2016-03-23 | 日本文化論
インターネットによる情報伝播は、それまでにない情報共有の時代となった。1990年代に展開して日本に大きな影響を及ぼした。インターネットそのものは、最先端科学技術の軍事利用への転用のための研究、米国防総省に高等研究計画局 ARPA  Advanced Research Projects Agency が寄与したことはよく知られている。1958年に設置され、軍事利用から変遷し、1990年にインターネットの学術部門との分離が行われた。1990年代から10年、またその後の10年と文化論を考える場合に、情報革命は切り離すことのできない展開である。その一方で情報格差が見える。デジタル デバイドは、富裕層がデジタル機器を利用し情報を得てさらに経済力を高め、貧困層との経済格差が広がるというように言われる。これはまた、文化にどう影響を及ぼすだろうか。 . . . 本文を読む

日本文化論 ことはじめ12

2016-03-22 | 日本文化論
国力の衰退と経済の復興が文化を規定するような見方は正しくない。民族の伝統と人々の生活があれば、2000年の歴史を背景に、そこに文化ははぐくまれる。民族の文化に伝統文化を見るが、経済とともに文化論があるのはなぜか。経済文化はことばとして熟さない。ここでその思いに、メセナ  mécénatを連想する。それは、企業が主として資金を提供して文化、芸術活動を支援することであると解説する。 さらには冠名をかぶせたスポンサーつきの芸術活動ともみられる動きがあるようである。1990年に社団法人、現在は公益社団法人、企業メセナ協議会が発足して、企業メセナ協議会は、芸術文化振興による社会創造と定義しているという。その具体的活動に文化が現れるのであろう。欧米の活動に刺激されての、欧米ではメセナは比較的早くから始まったというふうにとらえている。1967年に設立されたアメリカの企業芸術擁護委員会(BCA)、1976年に設立されたイギリスの芸術助成協議会(ABSA)、1979年に設立されたフランスの商工業メセナ推進協議会(ADMICAL)などの団体が活動しているという。ウイキペディアより。文化が企業の支援を受ける、それは社会への還元の活動と位置付けられて、経済の動向に合わせたようなとらえかたは、時流として一致することであった。文化がさまざまに彩られることになる。経済活動に日本穂復興後のことがあるので、メセナは画期の現象である。 . . . 本文を読む